第3話 憧れ(2)

 冬の夕暮れに吹く気まぐれな風みたいに、あるいは野良猫みたいにふらふら自由でも、行きつく先はいつも同じだった。


 授業が終わった放課後、西校舎の三階。


 ここに来るのが、高校に入っておよそ一年間続いた、体に染みついた日常。


 碧が引戸を開いて一歩中に踏み出すと、馴染んだ絵の具の匂いが鼻を撫でた。


 案の定、今日も美術室には誰もいなかった。この学校には美術部はないので、当然ではあるだろう。


 遠くから野球部の掛け声やボールを打つ小気味いい音、そして吹奏楽部の途切れ途切れの練習曲が聞こえてきて、気持ちに長閑のどかさが戻ると同時に、僅かなもの寂しさを覚える。灰色の雲の切れ間、曇天の空のすきまから差す西日が、妙に眩しかった。


 先ほどの友人との会話を思い出す。碧の宣言通り、くるみとは廊下ですれ違うことすらほとんどなく、他人のまま今日を迎えていた。


 上着のポケットに手を突っ込むと、一枚の紙切れが指先に当たるので手探りでそのまま引っ張り出す。現れたそれは一枚のメモ帳。又の名を、会話の糸口。丁寧に畳まれており、表地の可愛らしい花柄と罫線、そして手書きの文字が透けている。


 書かれている内容はこうだ。


〈どなたか分かりませんが、今日はありがとうございました。

 ぜひ一度きちんとお礼をさせていただきたく思います。

 これを読んだら一年二組を訪ねてください。〉


 筆者の性格をそのまま反映させたような、やや丸みを帯び整然とした綺麗な文字。


 これに気付いたのは、週明けの月曜の夕方。彼女が上着を返す時に忍び込ませたらしい。見返りを求めるつもりじゃないというのは彼女に言っていたはずなのに、なんとも義理堅い人だ。


「お礼と言われても……」


 碧はこの糸口メモを見つけて、しかしどうするわけでもなかった。


 理由は、割合で言うと、もともと何かを期待して親切を働いたわけじゃないからというのが六。


 家に帰りたくないという自らの都合を、助ける言い訳にした浅ましさに恥を覚えているからというのが三。


 後日になって自分からわざわざ申し出るのはなんか格好悪いというのが一。


 などと色々言い訳は思いつくが、十把一絡じっぱひとからげにして本音で言ってしまえば、他の生徒の前で話しかけて身の程知らずだと笑われたくないから。


 学校の彼女は心優しい優等生で、誰に対しても人当たりがいい。


 そんな彼女は校内で恐ろしいまでの人気を誇っていた。周りには人が絶えず、告白して玉砕した人数は相当数に渡るという。彼女とお付き合いしたい男など、星の数ほどいるだろう。噂まで華々しく、当然関わる人間が彼女に相応しくないと後ろ指をさされることになる。


 なんでも完璧な彼女にとっては、そもそも自分に関するうわさなんかもどうでもいいのかもしれないのかもな、と考えたところで、ふと宵闇の中で弱っていた彼女の姿を思い出した。それを振り払うように、独り言ちる。


「どうせ住む世界が違うんだから、考えたところで」


 逡巡を打ち切り、碧はでこぼこした大きな木の机にデイパックを下ろすと、北側にある美術準備室に向かい、そのかび臭い部屋の中から両手で大きなイーゼルを抱えて出てきた。


 それからスマホの音楽アプリを開いて曲の再生ボタンを押す。やがてぽろぽろと流れ始めたのは、ドビュッシーの『アラベスク第一番』。ずっと海外暮らしだったからJ-POPはほとんど知らない。


 碧は、自分の家があまり好きではなかった。


 望まぬ一人暮らしを強いられている碧にとって、音もなく誰もいない家で過ごすのは、退屈以上に孤独を募らせる時間に他ならないからだ。


 そのため友達と遊ぶ以外の週に何日かは、こうして誰もいない美術室の鍵を持ち出し、日が暮れるまで日々暇をつぶしてから帰っている。


 過ごし方は外国の友人からのLINEを返したりスマホゲームをしたり、音楽を聴きながら本を読んだり、気が向いたら勉強をしてみたり、美術室のそこかしこに散らかっている筆を勝手に使って絵を描いたりと、多岐にわたる。


 充実していると言うと嘘になるが、それでも遠くから響く部活の声は自分がひとりじゃないことを教えてくれるし、自分の呼吸の音しかしない閉ざされた家にいるよりはずっとましだった。


「…………あれ」


 ペンケースから6Bの鉛筆を取り出そうとして、そのペンケースがないことに気付く。デイパックのなかを漁ってみたが、ノートや教科書、学級便りのプリントしか見つからない。どうやら教室に忘れてきてしまったみたいだ。


 致し方なしとため息を残して、美術室を出た。教室に向かうと、すでに皆帰宅あるいは部活に行っている時間だからか、廊下は人もほとんどいなかった。


 淡いオレンジの空気に満たされた校舎は、どことなくノスタルジックだ。外をカラスがばさりと飛び交い、廊下に影絵を羽ばたかせる。


 三組の教室で自分の席の引き出しからペンケースを取り、一息つく。早く戻ろうと足早に教室を出て、帰り道に通りすがった二組の方に自然と目がいき——視界に柔らかな絹糸がふありとひるがえった。


「あ——」


 文字通り、ばったりと遭遇してしまった。


 閑散とした隣の教室から現れたのは、ぱっと目を惹く美しい少女。細い背にかかる髪と同色の、亜麻色の睫毛が縁取る大粒の瞳を驚きに瞬かせ、沫雪あわゆきのように真っ白な頬を陽光に輝かせている。


「あなた……」


 少女の方も碧の姿を認めて、短い声をあげてドアの前で立ち止まった。


 どうやら、先週会ったことは覚えていてくれたらしい。ぱちり、と瞬きをする彼女のほっそりした両手には、美術の授業で扱う資料集の束が抱えられている。


 その嵩張った物量を見るに、冊数は一クラス分丸ごとだろう。私立の進学校なので、どの教科もテキスト類のページ数がとてつもないこともあり、華奢な彼女が持つには重すぎるはずだ。


 もう話すことはない……そう思っていたのに、なぜか碧は気付けば、その資料集をさりげなく奪っていた。


 周りに人が誰もいないからという理由もあったが、重たい資料をふるふると腕を震えさせて持つ彼女をどうしても、放っておくことができなかった。


「どこに持って行けばいいですか」


「……あの、いいです。自分で持てます」


 彼女は一瞬たじろいだが、淡々とした口調ですげなく突っぱねる。だからといってはいそうですかと返すのもおかしな話だ。


「一人で持つにはちょっと多いでしょ。美術準備室であってますか?」


「けど……」


「僕もちょうど美術室に戻るところなので、物はついでです」


 しばらく碧の持つ資料を見つめてから。


「……はい。ありがとうございます」


 自分の仕事を奪われたことにどこか不満げだったが、押し通すよりもそのまま手伝ってもらった方が事が運ぶと考えたのか、意外にもすんなり折れてくれた。歩き出すと、彼女は手持ち無沙汰でばつが悪そうについてきた。


 人の気配のない学校の廊下に、ひたひたと二人分の足音が響く。


 彼女ほどの優等生には自然と生徒や教師からのお願いが集まるのか、それとも彼女自身断れない性格なのか、あるいは困っている人を見過ごせない重度の世話焼き人間なのか。どちらにせよ、あの重い資料を女子生徒一人に持たせるのは問題があるように思えた。


 不意に横を見る。くるみは碧から絶妙に距離をとりながら、美しく楚々とした一挙手一投足で、静かについてきている。歩みに合わせて、名前のとおりの淡い胡桃くるみ色の髪がまるで羽根のようにふわっとなびく様は、正しく妖精の姫君と錯覚してしまいそうなほど——なのだが。


「…………」


 続くのは空白の時間。


 なんだか普段と全然様子が違うな、と碧は苦笑。


 高校一年生という年相応にあどけなく可憐な面差し、その反面に凛と大人びた雰囲気は変わらぬものの、とぎすまされた氷の刃を思わせる様相で前だけを見ている。いつもの美しくも優雅で壊れ物のような微笑みはどこにも見られない。


 あの日のことが尾を引いているのだということは想像に難くなかったが、沈黙が続くので、並んで廊下を歩くすがら話しかけてみる。


「風邪引かなかったみたいですね、よかったです。今度からはちゃんと外出る時はコートきてくださいよ。最近は寒いんですから」


「……東京で雪が降ってるなんて知らなかったんです。知ってたら着ていました」


「? くるみさんってそんなに家が遠いんですか? 埼玉とか神奈川から電車乗り換えて通学してるとか?」


「別に。学校から歩いて来れる距離です」


 いっそ清々しいほどにそっけない回答だった。


 てっきり探し物の他にも電車が止まっているせいで家に帰れないと思っていたので、言っていることが節々で引っかかるものの、とりあえず一番気になっていたことを聞いてみる。


「そういえば、落とし物って見つかったんですか? なんだかすごく大事なものを落としていたように見えたんですけど。まだならちゃんと遺失届とか出した方がいいですよ」


 ちょっとした世間話のつもりで出した言葉に、しかしくるみは一瞬だけ榛色の瞳を見開き、すぐさまきゅっと細めた。その面持ちが暗然たるものだったので、碧は動かしかけた舌を寝かせる。


「……いいえ、見つからないわ。けれどいいんです、きっとそのうち帰ってくるから。それよりも訊きたいのは私の方。どうして、あの時私に構ったの?」


「雪の降ってる中で知ってる人が震えてるのに、無視して帰るとかできませんよ」


「私はあなたのこと知らなかったのに」


「それでもです」


「じゃあ、今手伝ってきたのも同じ理由? 可哀想だと思ったから? それとも——」


「別に手伝うのに理由なんかないですよ。これが僕の他の知り合いだって多分同じことしてました。そんなもんじゃないですか?」


 それがくるみにとっては思わぬ回答だったようで、榛色の瞳をぱちりと瞬かせる。


「だって困っている人を目の前にして、無視を決め込むのはいくらなんでも気分悪いし」


「じゃあやっぱり、告……に他意はない……で、いいのね? その、私も正直、どう受け取ればいいか迷ったのだけれど」


 試すような瞳でこちらを覗き込んでくる。


「あの言葉?」


 なんのことだろうか。


 あてが分からず眉を下げると、彼女はより冷え冷えと蔑むような眼差しで刺してくる。


「まさか、忘れたというの?」


「だから、何のことですか」


「あの台詞を、私の口から言えと?」


 北の大地できんきんに実ったつららの如き尖りきった視線でぎりっと冷たく睨むと、ぷいとそっぽを向いた。どういうことなのか、意図が全く読めない。


 なので話題をかえることにした。


「えーと……そうだ。パーカー、届けてくれてありがとうございます。それと、これも」


 ポケットから件の紙切れをぴしっと取り出す。


「律儀ですね、お礼だなんて。別にいいのに」


「いいって……そんなの、駄目ったら駄目!」


 すると、さっきの冷ややかな様子はどこへやら。感情を昂らせ頬をほんのり赤くした少女がぐいっと迫ってくる。


「お礼はする。けど勘違いはしないで、これは仕方がないことなの。対価を支払うのはあなたのためじゃなく……そう、私のため。私が自分の都合で勝手にしたいからするの。だから黙ってお礼は受け入れること。いい?」


 他己弁護を言い訳風に早口で捲し立てられ、碧は気圧されつつも返答する。


「別に気にしなくていいのに」


「私が気にする! 先週のことも、今日のことも」


 余程お人好しなのか、かたくなに念を押してきた。


「人の助けは借りたくないし、もし頼ってしまったなら、施しを受けたままにするのは私の矜持きょうじに関わるの。自分の足で立たないなんて、自分を許せないもの。だからお礼も兼ねて、きちんと義理は返させて。それで関わりはおしまい」


 瞳にひときわ強い光を宿らせながら放たれたそれは、毅然きぜんとしたまっすぐな言葉。


 なるほどどおりで、と碧は納得した。


 彼女が雪の日の夜にすげなく追い返そうとしたのも、資料運びを手伝われることにいい気分じゃなかったのも、どうやらこの考え方が根底にあったかららしい。


 これはくるみの自負の問題だ。ならば、牢乎ろうこたる態度を崩さず申し出を跳ね除けるのは、かえってよくないだろう。折れるべきは碧の方だ。彼女の気が済めば、それでいいのだから。


 それにしては些か、お人好しな気がするけど。


「わかりました。じゃあ……お願いします」


 すると迫ってきてた少女はようやくゆるりと離れ、初めて小さな笑みを見せてくれた。


「本当の本当に……ただのお礼なんだからね」


 その笑みがまた、人間らしいというか妙に可愛らしく思えて、さっきまで近かったのにろくに面差しを観察しなかったことが不覚にも惜しく思えてしまった。

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