第10話 閉じてる人たち
夜風が頬をなでる。気持ち良い。
小石を拾って皮膚をこすってみる、痛い。
これは小生の霊魂的なものが感じている疑似信号にすぎないのだろうか?ウソだろ?普通に痛い。体の感覚がある。いや、体だけではない。呼吸する肺、嗅覚や視覚、思考する脳があり、巨悪を見たときのアノもやもやした性欲もある。
その巨悪の家に到着し、食卓についた。
「今日は角煮だよー」と巨悪がエプロン姿で言う。発育を隠しきれていない。巨悪のそのような姿を目にするたびに、小生は外界の情報をシャットアウトする。この技によって心を純真なまま保ってきたのだ。「・・・・・・・?」「・・・・・!!」「・・」「・・・・・・ー」雑音。
小生は角煮を堪能し、後片付けを行った。その後お風呂の順番が来たので着替えをもって風呂場に行く。巨悪がリビングにいるのを確認する。間違っても古典的な少年漫画のようなトラブルは起こしてはならない。脱衣所に全裸の巨悪がいたら、小生は自らの自我を保てないだろう。
がらりと脱衣所のドアを開けるとマイがいた。半裸である。「イヤーン」とマイは言った。「早く出ろ」と小生は突き放す。アングロサクソンのオタク趣味に付き合うのは人生の浪費だ。「アホくさ」とつぶやいて湯船に入った。ややぬるくなっているが、小生はぬるめの湯が好みである。全身の筋肉がリラックスし、脳への血流も安定する。起床時に唯一と言ってもいい「思考しない」時間だ。小生は生きている。それをしみじみと感じる。
湯船から出ると全裸のグラが入ってくる。こいつは文化的な違いなのか混浴を是としてくるし、外見は幼女なのでこちらも驚かないですむ。例えば銭湯やプールの着替えに父親同伴でいる幼女のようなもの、アレに興奮するようでは小生の性的志向は病気だ。
このように小生は巨悪宅での日常を享受している。ほかに行くところもなく、視界に巨悪がチラつく以外は居心地が良いからだ。さがせば小生が住んでいた極小アパートもこの世界にあるかもしれないが、日常、を営む様々な雑務を他人に委託できるのは小さくない。
冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出し、2Fの我が居室に向かう。後ろから人影。振り返ると残像。手からコーヒー牛乳が消えている。顔を上げると正面にマイがいた。
「リスン!セイイチロー!」
「どうしたのだ?」
「ちょっとディベートしたい」
「うむ、いいぞ」
「ここじゃちょっとアレだからユアルームでやろう」
「聞かれて困る話なのか?」
小生の問いに答えず、マイはコーヒー牛乳を手に小生の部屋に入っていった。巨悪の夫婦の寝室。彼らが庭に移動した代わりに、小生はこの部屋を使わせてもらっている。
マイはダブルベッドに腰かけ、小生のコーヒー牛乳を返してきた。小生はそれを受け取り、鏡台の前の椅子に座る。
「さて、男同士の会話と行こうじゃないか」
「セイイチロー・・・」
「どうした?マイ、いやマイトナーよ」
何か言いたいが、言葉にすることができない。そんな葛藤を抱える日本の女子中学生が目の前にいた。もちろん中身は白人のおっさんである。いや、心は女性と言っていたか・・
「失礼、マイトナー、貴様は心は女性だったのだな」
「No・・ずっとカミングアウトできなかったから、しょうがないネ」
「いま、その姿になれたのは良かったことなのか?」
「ア、リル・・・いえ、とてもうれしい」
「そうか、もうスパイ活動はしなくてもよくなったしな」
「そう、本当にイヤだった」
「本当にスパイだったのか?」
「IAEAとCIAに『川』のデータを送るのがワタシの仕事でした」
「そうか・・・拳銃ももっていたしな」
「Dr.ニシオカを守るために持ってた・・・守ることはできなかったケド」
「しかたがない、あの女スパイ、グラの戦闘能力は飛びぬけていた」
「話というのはそのことなんダけど」
「うん」
こうしてマイは語り始めた。
「オーディナリー、スパイ活動というのは他国の文化に入り込んで情報を本国に送ることデス、ワタシのようにね、そのために他国の言葉や文化を完全にキャッチしてから送り込まれるのがアタリマエ、でも、あの女スパイ、最初っからパワープレイだった、アリエナイ」
「そんなやり方をしてくるヤツもいるのだろう」
「No・・リスクが大きすぎる、たぶん彼女はスパイじゃない、おそらくはテロリストのメンバー、だからあんなスマートじゃないやり方で襲ってきた」
「ではグラに直接聞けばよかろう、いまは無害な少女ではないか」
「Ummm・・・いまの彼女にあるのは食欲と暴力ダケね」
「そうだな」
グラとの会話はほとんど成り立たない。いつも何か食っているし、話しかけても「・・・邪!」とカミついてくるだけだ。
「ワタシやキリがいろんな言語で話しかけても、反応は変わらない、たぶん言葉の問題じゃない、彼女には生れながらの特質があるんだと思う」
「特質?」
「きっと・・・ASD・・自閉症に近い」
「・・・・」
「自閉症に近い特性を持つ人はいっぱいイル、本人が気づかないまま大人になる人も・・・ただ、そんな人たちができる仕事は限られていて、特に複雑なコミュニケーションが必要なスパイなんて無理、作家、プログラマ、そして研究者なんかに多いって言われてる」
「研究者はコミュニケーション必要だと思うがな」
フフッとマイが笑う。
「そして、ここからが話の本題ナンだけど」
言葉を飲み込み、慎重にマイは口を開いた。
「グラは、あの女スパイじゃないと思う」
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