第18話 「とある少女の休日」
その日も、わたしは母に思い切り頬を殴られました。大した理由なんてありません。ただイライラすることがあって、わたしにその怒りをぶつけているだけなのです。
「なに泣いてんのよ。あたしが悪いって言いたいの!? あんたが視界に入って来るのが悪いんでしょ!?」
また、殴られました。さっきの一撃で痛覚がおかしくなって、二発目はそれほど痛くないのが幸いでした。
「ごめんなさい。わたしが悪かったです」
いつものようにわたしは母に土下座します。人に謝るときは頭を地につけて誠意を示すのだと、昔から教わっていました。母はわたしの頭をしばらく踏みつけたり蹴ったりして満足したのか、「ふんっ」と大きな鼻息を鳴らしました。
「才能もなければ能力もない。その貧相な身体でも、売れば金になるってのにろくに稼ぎもしない。あんたみたいな子、産むんじゃなかった」
わたしという人間の全否定。齢十歳にして、わたしは母から見捨てられていました。それでも、人殺しになるのは怖いのか、母はわたしに最低限の食事は与えてくれました。自分の部屋はなく、食事は水とパンがひとかけら。それがわたし――深井歪美の人生でした。
◇
わたしが自分の環境をおかしいと気づいたのは中学生に上がった頃。初めてできた男友達の家に遊びに行った時でした。私は母から門限が決められており、その時間までに帰らなければ怒られます。だから今まで誰かの家に遊びに行くということはなかったのですが、その友達は家がすぐ近くにあり、寄って帰っても門限を破ることはありませんでした。
友達は中学に上がってから積極的にわたしに話しかけてきてくれて、わたしを気にかけてくれました。
「なあ、歪美。この漫画面白いから見てみろよ」
「うん、分かった」
友達に勧められたのは一冊の少女漫画。冴えない女の子がかっこいい男の子と付き合う物語でした。今思えばよくある展開のどこかで見たようなストーリーですが、その時のわたしは漫画というものも初めてだったので、それはそれは引き込まれたものです。
特技もなければ見た目に自信があるわけでもない主人公の女の子と、その主人公を一途に愛するかっこいいヒーローの関係は、わたしの心に響きました。
「読んでるとちょっと恥ずかしくなるくらい甘々だけど、なんかハマるんだよな」
「……」
「歪美? どうしたんだ!? なんで、泣いてるんだ!? そんなにこの漫画気に入らなかったのか!?」
「へ……?」
友達に言われて、わたしは自分の目から温かい雫がこぼれていることに気づきました。わたしの人生における人間関係は罵倒され、暴力を受けることだけだったから、暴力など振るわず心から愛して抱きしめてくれる関係が羨ましかったのです。
「違うの……とっても羨ましくて……」
声を出しても殴られない。生まれたことを否定されない。それだけでわたしにとっては夢のような世界でしたが、その上一途に愛されるなんて、想像もしたことがなかった。
「そんなに泣くほどって……なにかあったのか? こんなの……ごめん、言い方が悪かった。でも、割と普通にあることだと思うけどな」
「普通……これが、普通なの……? あなたはお母さんから殴られないの? 怒られないの?」
「それは普通じゃないぞ。歪美のは、なんかおかしいって」
わたしはようやく、「普通の生活」を知りました。家族で一緒にご飯を食べたり、談笑したりするのが普通の関係なのだと。わたしのいる環境は、普通じゃなったのです。
「殴られたって、大丈夫なのか? 警察とか病院とかに連絡……って、騒ぎにすると逆にまずいのか?」
「分からない……けど、多分怒られちゃう」
「とりあえず傷の具合を見せてくれ。俺に出来ることなんてそんなにないけど、消毒とかあるから」
わたしは服をめくり、お腹を見せました。そこには青あざがいくつもついていました。
「これは、酷いな……」
「そうなの? わたしには、もうなにも分からないよ……」
「こんな状況で言うのもあれだけどさ……俺、歪美のこと好きなんだ。だから、傷ついてるの見ると苦しいっていうか……なんとかしてあげたいよ」
「えっ!?」
今、「好き」という言葉が聞こえましたが、一瞬聞き間違いだと思いました。母にすらそう言われたことはなかったので、信じられませんでした。
「す、好きって……」
「そうだ、俺は歪美のことが好きだ。だから、その……俺の彼女になってほしい」
「……ぁ、その……」
なんて返事をするのが正解なのか分からず、わたしはただ口をパクパクさせて言葉にならない言葉を口に出すので精一杯でした。
「わたしも、好きだよ……」
「マジか! すっげえ嬉しい!」
その日の彼の笑顔を今でも覚えています。それからわたしは彼と付き合うことになりました。母から怒られないため、遊びに行ったりはできませんでしたが、彼の家に行って漫画を読んだりゲームをしたり、色々初めての経験をさせてもらいました。
彼から、クラスではあまり関わらないようにしようと言われていたので、学校で話せないのが辛かったですが、彼の家に行けば温かく迎え入れてくれるので気にしていませんでした。――この時は。
「ちょっとあんた、最近にやついててキモイんだよ。前からキモかったけどさあ」
付き合い始めてすぐ、クラスの女子からそう言われました。この子は前からわたしの悪口を言っていましたが、ここまで直接的なことを言われたのは初めてです。クラスで友達も多い子で、わたしとは正反対……言ってしまえばカーストの上にいる人でした。
「ちょっと来いよ。逆らったらどうなるか分かってんだろうな」
脅されてわたしはその子について行きました。人気のない階段で、わたしは暴行を受けました。お腹のあたりを殴られ蹴られ、唾を吐かれました。
「そんなにやるとやばいんじゃ……」
「いいの、どうせ痣あるんだし、あたしらの仕業ってバレっこないって」
気になる発言をしていたような気がしましたが、痛みをこらえるのに必死でそれどころじゃありませんでした。
でも、わたしは耐えられました。だって、学校が終われば彼が待っているから。あたたかな部屋で、彼に抱きしめられて過ごす幸せな時間が待っているから、耐えられました。
家に帰れば母に殴られ、学校ではクラスの女子に殴られても……彼さえいればそれで幸せでした。だから、耐えられました。
しばらく暴力は続き、何日か経った頃。放課後、いつものように階段に呼び出されては複数人のサンドバックになっていました。正直、痛いとか辛いとかより、早く彼の家に行きたいなという気持ちが強かったです。
今日はなにをして遊ぼうか、と妄想を膨らませている……その時でした。
「あやか、どうしたんだそんなところで」
あやか、というのはわたしをいじめる女の子の名前です。そして、その子を呼んだ声は――わたしと付き合っていた男の子でした。
「えー深井がキモかったからお仕置きしてるだけだよー。それより、彼氏ごっこはどうなってるの? もしかして、こいつ、本気にしちゃってる感じ?」
なにを言ってるのか理解が出来ませんでした。全ての言葉が理解できなくて、世界から隔絶されたような、どこか遠くの世界の音が聞こえているような感覚でした。
「本気も本気。毎日俺の家に来てべたべたくっついてくんだよ。きめえわ」
「うわー最悪。そろそろネタバラシしよっか」
彼から向けられる視線は、今まで見たことがないもので。侮蔑と嘲笑を込めた、おぞましい目でした。
「深井、あんた彼と付き合ってるとか勘違いしてたかもしれないけど、この人あたしの彼氏なんだよね」
「勘違い、なんかじゃなくて……だって……」
「だから嘘だっての。頭悪いなマジで」
そんなわけない、と彼に目を向けると彼は笑いをこらえるようにお腹を押さえていました。それで全てを察しました。全てを理解しました。全てを、諦めました。
「まだ信じられねえみたいだし、ほら」
「えぇーここでやるのー?」
女はまんざらでもなさそうな顔で彼とキスを始めました。嬉しかったときはあれほど涙が流れたのに、悲しい時は涙が流れることはありませんでした。気持ちに身体が追い付いていないのです。
家にも学校にも居場所がなく、彼の家という安息の場所すらなくなりました。それでもわたしは――愛に飢えていました。
あれほど痛い目を見たというのに、あれほど辛い思いをしたというのに、わたしは愛を欲しました。それはきっと――「普通」を知ってしまったからです。知らなければ耐えられた。けれどわたしは嘘で固められたものだとしても、愛を知ってしまった。一度手にしたそれを手放したくなくて、もう一度あのあたたかな居場所が欲しくて、わたしは愛を求めました。
そして時は流れ、高校生になり――レイ君と出会いました。レイ君は付き合っていたころの彼と雰囲気が似ており、最初は警戒していました。ですが、レイ君も友達が多いようなタイプには見えず……失礼な話ですが、同族のように見えたのです。
レイ君に話しかけられたことをきっかけにレイ君に興味を持ちましたが、近づくと嫌われるのが怖いので遠くから見ていることしかできませんでした。レイ君がダンジョンに入っていくのも、ただ見ているだけでした。見ているだけで幸せだと、そう思い込めたら良かったのですが、わたしは求めてしまいました。もう一度、あの居場所を……と。
愛されたかった。愛したかった。その気持ちが強くなり……わたしは取り返しのつかない過ちを犯しました。好きだと言葉で伝えられても信用できない。だって嘘を吐いているかもしれないのだから。それでもレイ君に愛されたい。自分が心から信用できてないのに、レイ君を自分のものにしようなんて矛盾にすら気づかないほど、わたしの心はいっぱいいっぱいでした。
そして――気づけばわたしはゴーレムの腕に囚われていました。手には血に濡れたナイフ、そしてレイ君が倒れていました。
レイ君に拒絶されて、わたしはかつてのトラウマが蘇りました。それだけのことをしたのだと自覚し、血の気が引きました。わたしの中にあった歪んだ熱はすぐに冷め、思考が冷静になりました。
こんなにひどいことをしたのに、レイ君は最終的にわたしを受け入れてくれた。それだけで、わたしには心の救いだったのです。
◇
歪美は今度こそ零斗に嫌われないために……他人の気持ちを知ろうとするべきだと思い、行動を始めた。あの時零斗に言われた「命への冒涜」という言葉。自分の命が他人に握られた環境にいた歪美にとって、他人もそうだと間違った認識をしていました。故に――
「命の大切さ……レイ君の命が大切なのは分かるけど、それ以外に同じくらい大切だと思うのってどうすればいいんだろう……」
歪美は一人、廊下で寝ころびながらスマホをいじる。すると、一つのブログに目を向ける。
「『ペットを飼うようになって幸せが増えました』か……そういうのもあるんだ」
歪美の家は一軒家なのでペット禁止というわけではない。とはいえ、ただでさえ歪美に当たりが強いというのに、ペットなんて飼ったらなにを言われるか分からない。
「ちょっと見に行くだけ行ってみるのもありかも……」
零斗に近づかないよう言われているので歪美としてもやることがない。休日でどうせ暇なのだから足を運ぶのも良いだろう。歪美は身体を起こしてペットショップへと足を運ぶ。
犬や猫、ハムスター、果ては金魚まで様々な生き物が展示されている。一通り眺めて周るが、どれもピンとこない。
「やっぱり、駄目か……」
なにか心惹かれる出会いを期待していたが、そんな奇跡は起こらなかった。もし仮に惹かれる生き物がいたとして、飼うのはどのみち無理だが。
「……はあ、帰るか」
歪美はペットショップを出て家路を歩く。途中で公園が見え、せっかく外に出てきたしと公園に寄ってみることにした。ベンチに座ってぼうっと地面を見つめる。ここ最近は零斗を追いかけるばかりで、こうしてなにもせず時間を過ごすことがなかった。
「わたし、どうしたらいいんだろう」
ふと、隅の草むらに一匹のネズミが倒れているのが見えた。怪我をしているようには見えないが、どこか悪いのかもしれない。歪美はネズミに近づき、拾う。
見た目に惹かれたわけじゃない。可哀そうだと思ったわけでもない。けれど、どうにも見捨てられなかった。
(怪我してないってことはお腹空いて倒れてたのかな? もっと他の原因……? 分からないけど、出来ることをやらないと……)
自分を急かすなにかの感情がある。どうにかしないとという意識だけが歪美の思考を埋め尽くしている。その理由は、きっと――
「わたしだったら、こうしてほしいから……なのかな」
倒れているときに、誰かにこうして助けてほしかったからかもしれない。歪美はネズミを手で支えながら、走って家に向かった。
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