第101話鉄人
ちょっと考えをまとめさせて欲しいと雷の竜に断って、私はフカフカのソファに膝を抱えて収まった。開かれた大きな窓からは心地良い風と眩しいくらいの陽射しが注がれていた。この辺りの午後は晴れていれば格別に気持ちの良い気候になる。
朝のミズアドラスには神秘性があったけれど慣れなかった。重たいくらいの湿度にいい思い出が無くて木材が黴臭くなって傷んでくる将来を思い描いてしまう。日本に住んでいると湿気=厄介なイメージが頑固にこびりついているのだ。
同じ地域にいるはずなのに昼間の穏やかで明るい空気はまるで朝とは別の世界のものだった。日が昇り明るくなってから人々が動き出すまでに時間がかかっていたから、単純に日照時間が長いのだろうか。気温の割に日差しも強い。紫外線というものが在るのかどうか知らないが、今のところ肌が痛くなるような事はなかった。
日本と似ているのに違うミズアドラスでは、それらは暗くも重たくもない。それらというのは、ダメージで、害するもので、本当なら私の気力を奪うものだ。なぜだかは解らない。同じような事に触れているのに全然違う。そんな訳はない、同じように湿気や日差しに晒されていたことに変わりはないはずだとは解っている。それでも思い切って言うならば、なぜだかは解らないが、私は痛みも減衰も感じない無敵の鉄人のように振る舞える気すらしてきている。
自分はまだ、余力がある。
こんな気持ちになるのは何時ぶりだろう。小学生の頃に好きだったケイドロで遊んでいた時とか、一人で1000ピースパズルを完成させた時とか、その位の頃が最後で、それ以降は無かったんじゃないだろうか。
実は私は自分の身分が高いと思うだけで、
こんな風に思い込めるタイプなのか…?
嫌過ぎるが当てはまる気がする。全ての人間が私程には単純ではないだろう。でも私はそうなのだ。だからこんな世界には居たくないし自分など居なくなればいいと思うだけで、簡単にボロッボロに脆く崩れ落ちてしまう。学生という身分に甘えた私が駄目で悪でやる気がないというのは、確かにそうかもしれなくて、それでも私は認められなかった。私は私で混乱していたからだ。
ここまで来て初めてライトニングさんに言われた事の意味がわかってきた。ようやく状況を確認できるくらいには落ち着くことが出来たのだろう。
周りの人達が言っていた事は本当なんだ。
……私は可哀想だったし、
本当に駄目で悪い人間になってるんだ…。
私の父親は一人っ子で、子供も一人で十分だと考えていた。祖父は早くに亡くなり、祖母は男の子を望んでいたし父も自分のような存在がいれば後継ぎは問題ないから余計な金を使いたくないとのことだった。父は過疎の田舎で土地や資産の心配ばかりしていたから私は幼い頃には要らない子だとしっかりと伝えられて、財産を盗りに来るなと言い付けられていた。酒に酔えばせめて親の要望通りに育って見せろと大声で叱責され、酔っていなければ丁寧に言い聞かされた。見た目だけは整った愛嬌のある父は地元では有名な勤め先で良いお給料を貰って社会的にも信頼される人物だから、そんな事を言いながらも外では娘に釣れなくされる父親という体だった。私も十を過ぎればものもわかるから敬愛する理由は特になかったのだ。幼い頃は機嫌が良ければ可愛がってはくれたから私は父が好きだったけれど当然怖い存在でもあった。賢い女が好みではなく、学校の成績が良いと態度をガラリと変えてべらんめぇ調で脅しや捨て台詞を吐くような人だった。常に釘を刺されて出る杭は打たれるものだと教え込まれた。女の子の幸せについては一家言あるようで、本人が女の人生の何を知っているのか知らないが、私が中学に通う頃になるとお嬢様の様な人生観と趣味の本やら教養やらをやたらと勧めて来るようになった。かと思えば酒が入るとお酌をさせて目の前の小娘を馬鹿にした発言をしては愉快そうに笑うのだ。軽く息も上がる程には気持ちが悪いし、ムカついてもいたのだが、時流をものともしない、変わらない父には何を言っても無駄であり逆効果だと諦めている。
母親は父とは社内結婚だった。共働きで頑張り続けていたのに職場で何かがあったらしく、四十路を前に適応障害になり悪化して鬱になった。それでも暫く休職しただけで働き続け、私達姉弟は生後三ヶ月から今も祖母に育てられている。祖母はよく、母はまるで娘のようだと言っていた。親しみよりも、子供の様に甘えて何もしなかったから、らしい。確かに怖い姉の様な人とは思えなくもないけれど、"友達みたいでいいでしょ?"と言ってきていたからそれが本人のスタンスだったと思う。母は家事も育児も祖母に任せて、外に出て働いていない祖母を馬鹿にしていた。情けないことに幼い頃の私も同じ様に祖母を馬鹿にしていた。流石に中学に上がる頃には違和感が生まれたものだから、私は母から少しずつ離れていった。母はそれを子供を盗られたと感じていたようだった。母は子育てがしたくなかった訳ではないと言っていた。嫁として祖母と父の考えに従うしかなかった母には事実その通りかもしれない。母もまた女の子の生き方には一家言ある人だった。私は今も母の価値観でもって否定され馬鹿にされ情けないと悪口を言われている。私と深い交流もなくなると、テレビの報道を信じていた母は、私という人間を報道の中の誰かと比較したり同じだと決めつけていた。"アンタはこうなんでしょ?"と言っているアンタとは一体誰のことなのか、私にはさっぱりわからない。言い返したくとも相手は病人だったから無理はさせられない。親から暴力を受けたと話していたこともある母を責める事は出来なかった。母は私の記憶のある限り、それだけはしないでいてくれたし、父親にも許さなかった。仕事が病気の原因だと話すのに続ける事が心配だったが、分担制ということで子育てにかかるお金を全て造っていた母は子供の為にと頑張っていたようだった。父が私に妙な事を刷り込んでいるとは母は知らなかったのだ。女はあまり賢くない方がいいなどと母が聞いたら怒るだろう。父はそう言って口止めをしていた。私も変に心配をかけて、どう転ぶかわからない母の症状の悪化が怖かった。
結局喜ばれない生き方を選ぶ程の反骨心も持たなかった私は学校のレベルを落とし、やる気を失くして燃え尽きたようになってしまった。母が元気だった頃は私も母に乗っかっていい気になったり恋なんかも出来たのだけど、気付けば男なんて嫌になっていた。テレビや本の中の、現実には居ない男の人なら安心して恋が出来た。
母の価値観に一応は従って自分は女の子として失格で、今更そう名乗ることなど浅ましいと思っている。コレは本当に素材として足りてない上に努力不足なだけだから妥当だという自分の考えもあるし、母と同じ種類の女にはなりたいとは思わないという反抗心でもある。結果、私は男でも女でも在りたくない人になってしまった。何処に行っても浮いていて、これから飛び立つはずの大人の社会の中で自信なんか持てるはずもなく、この歳で既に人生は灰色である。
ついに数ヶ月前から頭の中が何かでいっぱいになり、本も禄に読めなくなった。絵や詩や散文なんかのアウトプットは捗るのに、インプットするのは今までの三倍以上の時間をかけて少しずつ入力しても全く頭に入らない。受験が上手くいく見込みも無くなってしまった。せめて大好きな漫画くらいは読みたかったのに、これもやはり同じで、小説よりは速く読めるけれど、動きが感じられない只の絵を見ているのと変わらなかった。
馬鹿だと言われればそれまでの顛末だ。全てなんでもない事実だから仕方がない。信じて貰えないかもしれないが、自分と自分の周りの悪事を開き直るのも愉快なくらいに今の私は異質な歓びの中にいる。駄目でも悪でも馬鹿でも、それが何だろうと構わない。私がそれで在ることを誰も否定出来ない。それはやはり祝福なのだ。
悲しくても愚かしくても明るい信条を胸に私はこれからを生きることになる訳だが、勿論、嬉しいはずも無い。逆に怒り始める心配すらある。他の誰かの思い通りの何かに成る事など、恥であり屈辱だからだ。
そういえば、昔から私は自身の感情や感想に困惑する事がよくあった。変な気もするし当然とも思う。集団の中で仲間外れを特に気にしていた時期だったから、そういう少女時代の連帯意識が拙い私を困らせたのだろうか。原因も理由も今となっては上手く思い出せずに言葉にも出て来ない。
今では不満を言える優しい友人(聖人)も一人だけは居るし、私を気に入ってくれているっぽい友人(人生二人目の師匠)も一人だけは居てくれて、少しは中身のある話も出来ていたのだが、頭がぶっ壊れてからは迷惑ばかりかけている。それでも変わらず優しいから、キミらホントにカッコ良かったんだ、と、じんわり感銘を受けているところだ。そりゃまぁ、脱落者への哀悼なのかもしれんけど。私としては、おかげでヘロヘロでも卒業には漕ぎ着けられそうだから、ただありがたいばかりだ。
結局、解消されたのかどうかも自身では解らないままの問題が積み重なる事が良くなかったのだろうな、ということに今ようやく私は辿りついたのだった。
……………。
………何の話だっけ。
雷の竜に話せるような考えは何もないな、最初から。うん。何も考えてなかった。
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