第95話洋館
木々に覆われた丘は急な勾配を過ぎれば湖まで緩やかな下りになっていたから、その頂点は景観を眺めるには絶好の場所と言えた。
丘を登り切ったところで目に飛び込んで来る緑の山々と青い湖は息を呑むほどに美しいものだったが、想像以上に遥か遠くに沈んで見える衝撃の方が大きかった。
「え?……あれ?…あそこまで、歩くの!?」
もうかなりの距離の山道を歩いてきた後では感動よりも疲労が勝った。うっかり声を上げてしまった事をすぐに後悔したけれど、もう遅い。残念な自分に心底がっかりした私はその場にしゃがみ込んでしまった。後ろから追い付いて来たナクタ少年が怪訝な表情で首を傾げている。現地の少年にはこのくらいの距離は何でもないのだろう。ウィノ少年も絶景を眺めて明るい笑顔を浮かべていた。…若い。いや私も若いはずなのはわかっている。それでも、十代は前半と後半で大きく違うのだ。少年二人を見て、あんな頃の自分なんかもう懐かしいなと思うくらいには、違うのだ。
…正直しんどい。あと、帽子か日傘が欲しい…。
「聖殿の近くは避けるルートで行きますね。」
「…ウズラ亭は何で避難したの?」
ウィノ少年の言葉に矛盾を感じた。ウズラ亭は湖の近くに在る聖殿からは、むしろ遠いはずだ。
「繁華街は荒らされる危険があります。
マイヤールさんは金融業をしていますから、
余計に…ゴホッ、詳しい事情は知りませんけど、
女性が多いから念の為だそうです。」
ふ〜ん…。そんなものなのかな…。
日本ではあまり聞かない話だから危機感が良くわからないが、要するに暴徒に便乗して強盗を働こうとする奴等が現れるということか。海外の映像とかだとニュースで見たことがある。避難しなきゃいけない程なんだな。日本はホントに平和で良かった。
ということは今この地域は治安最悪で、
私でなくても一人では危ないわけだ…。
しゃがんだまま首を後ろに傾げて風呂敷の上の重さのない竜を確認する。丸い。最近何処でも丸くなっているから猫みたいに思えてきた。とはいえやはりこの猫みたいな竜が命綱であることに変わりはないのだ。なんだか恐ろしいのか頼もしいのか可愛いだけのネコモドキなのか、私自身よくわからなくなってきた。
ミズァドラ湖は周囲を山に囲まれた湖であり、青い水面と日の光が織りなす反射鏡のような姿で重たい水を湛えている。さらに奥には靄のかかった生き物のような深い緑と崖に見える土の壁が切り立って在るのがわかった。私の立っている小高い丘からほとんど一望出来るくらいの大きさの、静謐な水瓶という印象だ。湖岸からこちらは広く平らかな街道と住宅などの密集地になっているのが見える。洞と呼ばれるものがあるとすれば今いる場所とは反対側になるのではないだろうか。
「ここからはウチも近いから、
先に休んで買い物されますか?」
声こそ掠れているが紛うことなき天使の声。
…そりゃもう、断る理由がないでしょ!
ウィノ少年が勧めてくれるままに、とにかく一旦休憩に入ることにした。
ミズアドラスは国として決して広いわけではない。地図の縮尺が現代世界と違うから正確にはわからないが、人類の生活圏にあって聖地として機能するのは自治領内でも水の竜の結界内の地域がほとんどだ。外国人のユイマは大雑把に水の竜の結界内が聖地という認識でいるらしい。結界が無くなってからも同じ範囲を大結界と呼ばれるものが守っているのだろうか。聖地である事は変わらないのだから、そのはずだ。多分。
かつての結界の外にも聖地と呼ばれる場所はある。三竜大戦の際に水の竜が現れた場所や初代ノエリナビエ縁の地には石碑や礼拝所が建てられていて、わざわざ遠方から参拝する人も訪れるという。私のような漫画やゲームが好きで行うものとは違うガチの聖地巡礼というやつだ。グラ家の本棚から仕入れた豆知識もまるっきり無駄では無かった。
大戦の英雄の子孫が住む館もきっとそれらのうちのひとつという事になるのだから、さぞかし凝った歴史ある造りをしているのかと思ったら、ファルー家はむしろ近代的でスマートな洋館風の建物であった。
……観光するところではないんだから、
当たり前っちゃ当たり前か…。
実際住むのに近代化しないわけがない。不便なだけだしな。
芝生?が覆う手入れの行き届いた庭は背の高い木の垣根と金属製の柵が周りに張り巡らされていて、外からは見えないようになっていた。真ん中には煉瓦で出来た通路があり、煉瓦道は左右に分かれて木々の植え込みに繋がっている。正面に構える洋館?は二階建てで、装飾等は少ないが向かって右端には花壇や蔓草の巻いたアーチの向こうにガラス窓の大きなテラス風の空間があるのが確認できた。遠目だが中には人影も見える。敷地内には他にもレストハウスのような家屋が二つあり、物置とか離れ部屋なんかに使われていそうだなと思って私はキョロキョロとよそ見をしていた。警備員も特に見当たらないし、雷の竜は何でもない顔で入り込めてしまう。不用心なんじゃないだろうか。
「おかえりなさい。」
洋館の正面にある扉を開けて女性が姿を現した。ゆったりしたベージュのシャツとズボンに、斜めに掛けた柄付きの大きなスカーフが印象的だ。この辺りではスカーフが流行ってるのだろうか。見た感じだとユイマと同じくらいの年頃のヒト族に見える、ウィノ少年と同じ髪と瞳の色をしているから、おそらく話に出ていたウィノ少年のお姉さんだろう。
「もう戻って来たの?どうしたのよ。」
少年達の姿を見て驚いている。ウィノ少年が慌てて間に入った。
「姉さん!…大魔女様だよ。」
「!」
瞬時に状況を悟ったお姉さんは、無言で深々と頭を下げた。パロマさんがしたように両手を体の前で重ねて暫くそのまま動かない。挨拶だということはわかっているので、私も礼をしようとして竜が邪魔になることに気が付いた。
風呂敷がゴソゴソ動いて、煉瓦で出来た道の上に小さな竜がゆっくりと、奇妙な速度で落ちる。
「!」
「あ、その人が、雷の竜です。」
仕方なく挨拶を返しながら紹介して、頭を上げた時には驚いて口に手を当て竜を見つめるお姉さんの姿があった。
お姉さんの方はウィノ少年とはまた違った、濃いめの印象を受ける美人である。カチューシャのような髪飾りで前髪を上げ、広い額を綺麗に見せて、後ろに流れる金髪は腰に届く程に長かった。キリリとぱっちり開いた瞳には問答無用の目力が宿り、高い鼻と広い口が表情豊かで、親しみやすい雰囲気を感じさせた。
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