第5話
二週間ほど経った頃、以前行った新宿のママの居る店に行きテーブル席で待っていると久ヶ原が店内に入ってきて飲み物を注文した後に乾杯をした。
「先日はみっともないところをお見せして申し訳なかったです」
「いえ。今日もあまり飲み過ぎないようにしてくださいね」
しばらく会話をして、改めて医師をやめたことを伝えていくと久ヶ原も残念だと肩を落としていた。
「そうでしたか。では、もう医師としてはお父様のところも継がずに今の職務で働いていくことに?」
「ええ。父には申し訳ないことをしたのですが、どうにかして相談をしたら今の医院のところで働いてみなさいって背中を押してくれたんです。一応医療事務の資格も取ったんですよ」
「剥奪なんてとんでもないですよ。あの病院がそこまでブラックだったなんて思いもしなかったな」
「まあもう過去の事だし自分には関係なくなった。今の方が肩肘張らずにいられて気が楽なんです」
「確かに医師は四六時中ずっと気を張っている職務ですからね。我々営業担当も今も東明にいくこともありますからね」
「あの時よりは医師も変わったでしょう。新たな体制が組まれたとも後輩からききましたし」
「もう、戻ろうとはしないのですか?」
「あのことがあって色々袋叩きされたような感じでしたし、僕にとってはきっぱりと縁を切った世界。心残りもないんです」
グラスの氷が解けて音が鳴ると走馬灯のように医師として在籍していた当時の事を思い出した。同僚や患者、職員のこと。あの頃の自分がどれだけ医師としての意義を課せられていたか、もう僕の事を知る人間などいないのだと考えると少しだけ胸の奥がつかえる気にもなっていった。すると、久ヶ原は持っていたハンカチを僕に差し出してきた。
「涙、出ていますよ。こちらも色々話し込んですみません。使ってください」
次第に目頭が熱くなり堪えていた心情が今にも零れ落ちそうになっていき、両目をハンカチで押さえて声を殺しながら涙を流していった。
「川澤さんはずっと惜しみなく努力をされてきたことでしょう。あのことがあって一気に崩れてしまって失ったものも大きかったと思います。僕が言う事じゃないけど、一番辛かったのは紛れもなくあなた自身です。お気持ちを察しています」
「いえ。こちらもせっかく誘っておいてこんなところを見せてしまって申し訳なかったです。ハンカチちゃんと返しますので……」
「処分しても構わないです。まだたくさん持っていますから」
ママからウィスキーロックをもらい彼女も交えて三人で会話をし出した。
「そう。お医者様も大変でしたね。でもね、今のあなたはなんだかすっきりしていて現職の方が
「やってみたい事か……」
「気晴らしに行きたい所とか、新たに挑戦したい事とか考えたらたくさんあるわ。その中で自分の本音と向き合えていけたら、良い余裕も出てくるわよ」
「そうですね。あとは、自分を解放してみたいことっていうのかな……」
「思い当たる事でも?」
「まだ思いつきませんが、これから時間をかけてじっくり自分と向き合いたいなって思っています」
「真面目な考えもいいけど、思い切って踏み外すこともいいのよ」
「踏み外す?」
「良い女の子がいるわ。知り合いにね、彼氏探ししている子がいるの。紹介しましょうか?」
「ああ、そういうことか。いや、間に合っていますので……」
「あら、そのあたりは意外と困っていらっしゃらないのね」
「モテてうっとおしいくらいです」
「あはは、自分で言っているし」
僕は思いきり嘘をついた。本当は男性がメインなんだと告げると、今度は男を紹介しようかと言われそうで正直重石をかけられそうになり余計面倒な気もしたからだった。
すると久ヶ原が呑み直しをしたいので他の店に行こうと告げてきた。店を出て新宿駅から山手線に乗車し、車内でどこに行こうかと話をして来たら、咄嗟に僕は昔の行きつけだったゲイバーに行きたいと伝えると躊躇わずそこにしようと返答してきた。
「ゲイバーってどんな所か知っているんですか?」
「ええ、何となく想像はつきます。どんな所か以前から興味があって。とりあえず連れていってください」
上野駅で下車し、アメ横商店街からほど近い裏路地の繁華街に行くと、ここだと告げて店の中に入っていった。ちょうどカウンター席が空いていたので椅子に座ってジンジャーエールの焼酎割を注文した。
「色んな人が僕らを見ている。面白いところですね」
久ヶ原はどこか興味津々に店内を眺めていた。僕はまさかと思い彼にある事を訊いてみた。
「ここの店男ばかりできつい感じしないんですか?」
「どちらかというと緊張はする。でも、色んな視線を送られてくるとこっちも優しく送り返したい気分になるな」
「あの……もしかして恋愛の対象って男性ですか?」
「ええ。大学の頃からなのでここ十五年の間は女性に眼中がない感じです」
「ご結婚されていたんじゃないんですか?」
「数年前に離婚したんです」
「久ヶ原さんが女性の対象じゃないのがバレて?」
「元々当時の妻も合意で一緒になったんですが、やはり男といる方が気が楽だと話したら、別れを切り出してそこに至ったんです」
「つまり、あなたも男性がいいと?」
「はい。川澤さんのこと、以前から気になっていたんです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます