おじさんキレる

でっっっか!?



 え、猪ってこんなでっかくなるの? 軽トラよりでかいんじゃないのこいつ。


 しかもなんか知ってる猪と違う。猪ってでっかいつるはしみたいな殺意高い牙が大小4本生えてた? なんか微妙に黒くなってるのそれ血じゃね? 足そんなに太かった? 額に金属みたいな光沢の甲殻だか皮膚だかあった? 背中になんか刺さってるけど、それどうなってんの?



 なによりもその口に咥えてるのは人間か?



 完全に脱力しているから、咥えられている人の人相はわからないが、たぶん男性だよな? 灰色のリュックのようなの背負ってる。薄い茶色の上下に黒褐色の革のジャケットと手足に同色のプロテクター?


 いや、あれジャケットじゃなくて鎧? 腰にはポーチと鉈と鞘? 猪にぶっ刺さってるのはこの人の武器か? どれもこれも血塗れで元の色なのか血の色なのかわからないが。


 この人は最後まで戦って敗れたのだろうか。こんなでかい猪に挑むなんて勇敢な人だったのだろうか。狩猟? 娯楽? それとも誰かを守るため?



 そして何で私はこんなに冷静に観察しているのか。



 たぶん走馬灯のようなものだと思う。時間は一瞬なんじゃないかな? 視線は動かせないし、風が吹いていたはずなのに周囲の草も揺れていない。


 ほら、家族の顔や思い出が今ぶわーって過ったもの。これが走馬灯かぁ。



 咥えられている人が私に重なった。



 ふざけんな



 なにかが切れた。


「あああああ!」


 背負っていたリュックを投げ捨て、絶叫しながら巨大猪に全力疾走していた。


 急な絶叫に驚いたのだろうか、猪は咥えていた人を落とす。


 こちらと相対するリズムや間のようなものだろうか、ゆっくりと映る視界に猪が出遅れたような気がした。


 全力で猪のつるはしのような牙を掴んで腰を落とす。



「ああああああああああ!!」



 勝つためのプランがあったわけじゃない。


 弱点なんてわからない。


 猪の狩猟なんて見たこともない。


 ケンカだってしたことがない。


 ただ衝動的に牙よ折れろとばかりに掴んでいた。


 小さい子のケンカで感情をぶつけるように、殴る蹴るではなく相手の髪や服を掴むようなものだろうか。



 走馬灯はまだ終わらない。



 父と母と祖父と祖母と兄と妹と兄嫁と妹旦那と、今まで出会った人達。善い人も悪い人もいた。


 遭難してからは生還することを考えるため、身内のことは考えなかった。


 不思議なことは多かったが、帰れると信じて今まで耐えてきた。


 創作の世界で似たような現象があることも知っているが、目を背けるように考えなかった。


 突然不自然に急上昇した人間の範疇を越える身体能力、見慣れない土地。


 異世界転生とか転移とか神隠しとか。


 帰れないなど考えたくなかった。


 でも、限界だった。


 遭難生活は本当に苦しかった。


 救助を期待するがどこか諦めている自分がいた。


 最初に緑色の小さいのを殺したときには、知らないふりを始めたのかもしれない。


 この猪と咥えられていた人の格好を見てしまった。


 帰れるのかもしれないが、それにかかる労力や気力を、自分の年齢を考えてしまった。


 その瞬間心が折れたのだろう。


 巨大な猪と咥えられている人が、現実的な死を認識させ走馬灯を見たのだろうか。




 猪の牙を折ろうと全力で握る。折れない。潰れない。


 振り回そうと全身に力を込める。動く。でも猪も踏ん張ったか膠着。


 それなら捻って首を折るかひっくり返す。猪も力を込める。折れない。



 猪が振り払おうと力を込める。譲らない。身体からギチと音がする。


 猪がさらに力を込める。譲ってたまるか。身体からギチギチとイヤな音がする。


 猪が押し込もうと力を込める。足を地面に叩き付けめり込ませる。譲ってなるものか。


 でっかい猪の牙を掴みながら命がけでやっていることは、小さい子のケンカだ。



 走馬灯を見ながら、もう会えないであろう身内のことを考える。


 ここで私は死ぬだろう。


 この猪には八つ当たりにしかならないだろう。


 いい迷惑でめんどくさいだろうな。


 歯を食い縛ったほうが力は入るのだろう。


 体勢だってもっと効率的なものもあるだろう。


 でも、そんなもん知らんし関係ない。


 衝動的ではあったが、これは命がけの八つ当たりだ。



 猪が徐々に押し込んでくる。


 地面にめり込ませた足が、土を抉りながら後退する。



「あああああああああああああああ!!!」



 目を見開き猪を睨み付ける。


 涙を大量に流し絶叫する。


 私には猪が、この理不尽な世界の象徴に見えていた。



 ここまでかな。



 走馬灯もとっくに終わっている。


 私に勝ちの目は皆無だろう。


 あとは私の体力が尽きるまで、付き合ってくれ猪よ。


 しっかし、これがキレるってことか。初めての体験だったわ。


 絶叫して、号泣して、開き直って、全力で掴みかかって、なんかスッキリした。



 ありがとうな猪。



 でもな? 猪よ、身体を洗え臭うぞお前。あと息も臭い。



 猪の首の上に、赤髪の女神が降り立った。


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