おじさんやらかす

 かすかに聴こえたような気がした水の音に耳を澄ませると、やはり水の音? 川の音? のようなものが聴こえる気がする。ちゃぷちゃぷとかそんな感じの音だ。


 このとき私は自分の聴力もちょっと上昇しているかもしれないことを失念していた。


 地形や風向きが水の音を拾いやすい条件になっていたのかもしれない。


 すぐそこに水があると思ってしまったのかもしれない。


 でかい木で遠近感が狂っていたのかもしれない。


 自分の想定以上の速度で歩いたのかもしれない。


 少なくなっていく水が自分の寿命の蝋燭のように思っていたのかもしれない。


 事故から続いた精神的な衝撃と、積み上がっていく死へのストレスが限界だったのかもしれない。


 いろいろな「かもしれない」が重なったのだろう。



 私はやらかした。



 水の音を逃すかと意識をその一点だけに集中して私は音の聴こえる方向に突き進む。


 木に目印を刻むこともなく。


 周囲の警戒をすることもなく。


 急に上がった身体能力で初めて長距離移動していることを気にすることもなく。


 心とは裏腹に軽い身体を気にすることもなく。


 なかなかたどり着かない水の音に、どこだどこだ、早く早く、と辿り着くことに執着し時間の経過を気にすることもなく。



 突き進んでしまった。



 川は見つかった。綺麗な透き通る水が流れ、川の中に大小の岩が点在している。この岩に当たる川の水の音が聴こえていたのだろうか。川幅はかなり広い。川の向こう側は、川に削られたのか緩やかなカーブを描いて小山が崖を作っている。



 水を見つけた安心感から歩いてきた道を振り替える。どこをどう進んできたのか完全にわからなくなっていた。木に目印なんかは刻んでいないし、方角だって日の位置だって気にしていなかった。


 わかるのは「たぶんあっちの方じゃないかな? いや逆か?」程度の引き返すには博打のようなもの、風に散らされたか煙の匂いも自分からしかしない。


「やっちまった」


 その場に座り込んでしまう。後悔してもどうしようもないとわかってはいるのだが、力が入らない。



 しばらく呆然としてしまったが水の心配は消えたと無理矢理自分を奮い立たせ、川に向かってふらふらと歩み寄る。本当に綺麗な水だ。


 そっと手を突っ込んでみると雪解け水なのかとても冷たい。顔を近づけ匂いを嗅いでみるが変な匂いはしない。


 リュックからペットボトルを取り出し残り少なくなっていた水をすべて飲み、二回すすいでから三回目に汲んだ水をペットボトル越しに光に当てて見るが、細かなゴミや小さな虫が漂ったりしていないし油のようなものも浮いていない、変な色もしていない。


 ペットボトルの水を飲み込まないようにほんの少しだけ口に含んでみる。軟水だと思う、ひんやりしていて口当たりもいい。


 それでも生水は怖いので煮沸の準備をすることにした。ここで上がった身体能力が大活躍する。石は大きくても簡単に持ち運べ、落ちている乾いた枝は火が着きやすいようにボキボキと折ったり握り潰したりして、すぐに着火し火が大きくなる。ガスライターの残量が気になるが、まあ良し。


 枝を追加してペットボトルから片手鍋に移した水を設置して沸騰するのを待つ。


 できれば空のペットボトル全部に、煮沸した水を入れたいがいつ日が落ちるかわからない。ペットボトル三本をいっぱいにするには、最低でも三回煮沸して冷まして積めてを繰り返さないといけない。


 しかし、日が落ちる前に今日の寝床をなんとかしないといけない。


 今から目印を探していては煮沸もできないし愛車にたどり着ける確証もない。最悪川の位置を見失い水無しで完全に遭難してしまう。自分の計画性のなさに頭が痛くなる。


 寝床はどうする。その辺に雑魚寝は無理だ、いつでかい犬が出てくるかわからない、緑色の小さいのが他にもいるかもしれないし他にも野性動物がいるだろう。


 それにしてもでかい犬事件から他の生物を全く見ないが、どうなっているのだろうか。煙を嫌がったのか? いやそんなことある? 聞いたことないが私が知らないだけだろうか。


 いや今はただの幸運と考えて寝床をなんとかしないといけない。岩や大きな石を積んで周囲を囲うか? 時間的に無理だ。木に登って樹上で宵越しはどうだろうか? ベルトや肩掛け鞄の幅広の肩紐で身体を枝に固定するか? リュックの肩紐を最大まで延長したら、なんとかならないだろうか。


 木登りは小学生以来やったことはないが、身体能力のパワーに任せて木を掴んで抉りながら登れないだろうか。



 なんとかなった。



 木の表面を握るのではなく、指を鉤のように立ててめり込ませ、ブーツも靴下も脱ぎ裸足で足先をめり込ませて登っていくパワープレイが有効でした。


 樹上の寝床も鞄とリュックと自分の身体を上手いこと安定させることができなかったので、腕力で木に穴を開けることにした。


 指の間隔を少しだけ空け熊手のようにちょっと曲げてあとはどんどん抉って穴を掘る、砂山に穴を空けていく感覚に近いだろうか。


 爪が剥がれたり細かい木屑が刺さることもなく丸まれば身体だけは収まる大きさの穴がすぐにできたので、リュックと鞄は枝に引っかけ落ちないようにベルトで固定することにした。


 どうなってんだ私の身体は? こういう状況ではパワーが全てを解決するのでは? いや、慢心良くない。さっき愛車までの帰り道を見失ったことを忘れるなよ権蔵!


 そんなこんなで樹上から降りた頃には一回目の水が沸騰していたので、川の水が入らないように片手鍋を慎重に川に半分ほど浸し熱を取る。


 ノートの表紙がラミネートされたようなペラペラな水を通さないものだったので、丸めて漏斗の代わりにしてペットボトルに熱を冷ました水を注いで一本完了。


 片手鍋に少し残った水を飲んでみたが、めちゃめちゃうまかった。


 二本目の分を冷ましているときに暗くなり始めたので焦りながらではあるが、二本目のペットボトルにも煮沸した水を無事に入れ、しっかりと荷物を全部持ったことを確認してから樹上に空けた穴に避難を開始した。


 ブロック栄養食を少し食べ初めての車外での野宿のため、熟睡しないように気を張りながら長い夜に突入した。


 お腹減ったなぁ。

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