第19話 深い傷を負った少年

 岐志が風呂から上がると、晃の姿がない。

もう寝てしまったのだ。


「まだ21時だっていうのにもう寝てんのか」


 晃は規則正しい生活を送っている。

朝は6時に起き、ちゃんと朝ごはんを食べてから登校する。

そして、夜になれば21時にはもう夢の中。

 ちなみに岐志はというと、夜は深夜1時くらいまで起きている。

もっと遅いことだってある。

そして朝ごはんはほぼ食べない生活を送っている。

 今はまだ21時。

深夜に寝る岐志にとっては、まだまだ夜はこれからといったところだ。


「あら岐志くん、お風呂から上がったのね」


「はい、いい湯加減でした」


「あら、なら良かったわ。これヨーグルト」


「ありがとうございます!」


 茜は家事を終えるとエプロンを脱ぎ、岐志のもとへ。

彼が座っている前に、小さいヨーグルトとスプーンを置いた。

ヨーグルトは岐志の大好物。

岐志は早速ヨーグルトの容器の蓋を開けると、スプーンを手にとってヨーグルトを食べ始めた。

 そんな彼を見ながら、茜はテーブルの上に両肘を置いて腕を組んだ。

すると先程までとは打って変わり、少し重い口調で話し始めた。


「――――岐志くんのご両親は?」


「――――変わらずです。そもそも、もう自宅に帰ってないんで分からないですけど……」


「そう……。そうよね、しばらく帰ってないもんね」


「――――はい」


 茜は岐志の顔を見ると――――明らかに目の開き方が異常だった。

まるで復讐でも企てているかのような様子だ。


「はあ……。岐志くんが幼稚園の時にはそんな人達じゃなかったのに……」


「別に良いですよ。俺は今、晃たちと居られて毎日楽しいですよ。ははっ」


「そう、それなら良かったわ」


 岐志が自分の家に全く帰ろうとせず、晃や蘭の家に行き来して居候している理由……それは、親からの虐待が原因だからである。

 幼稚園に通っていた頃は、どこにでもいる家族内で喧嘩などあるはずもなさそうな、仲の良い家族だった。

 しかし岐志が小学校に上がると、突然父親が暴力を振るってきたことをきっかけに崩壊し始めた。

父親が働いている会社の功績がだだ下がりになり、かなりのストレスを溜め込んでいた父親は鬱憤を晴らすために自分の子供に、ストレス発散の矛先を向けたのだ。

そして数日後、今度は父親だけではなく母親も加わった。

 しばらくの間、岐志は耐えて、耐えて――――忍んだ。

そのせいで、彼の全身は青アザだらけになり、真っ黒になっている箇所もあった。

体育の授業で偶然それを見た担任の先生は心配し、岐志を呼び出して事情を聞いた。

しかし、返ってくる答えはいつも、


「大丈夫です」


 それだけだった。

みんなに心配をかけさせなくなかったからというよりも、この時点で既に話す気力も無くし始めていたのだ。

 そして虐待が始まってから2ヶ月後、それまで我慢し続けていた岐志は遂に耐えられなくなってしまった。

もう生きる気力を無くしたかのような表情を毎日するようになったのだ。

担任の先生が岐志に話しかけても黙ったまま何も答えず、その影響でクラスメイトからも自然と孤立し始めた。

 そして家に帰れば、酒に溺れた父親と母親からの暴力を受けるという日々。

挙句の果てに、岐志は虐待を受けても何も言わなくなってしまった。

自分たちの思いに従っていると勘違いした両親は、さらにエスカレートしていく。

 この影響で、この年齢なら本来は8〜10時間睡眠をとることがベストであるが、岐志はたった4〜5時間程しか睡眠をとっていなかった。

そのため、目の下にはいつも大きな隈を作っていた。

そしてそれと同時に大きなアザ、目のハイライトも次第に失っていった。


「きし、大丈夫?」


 しかし、体も精神的にもボロボロだった岐志が毎日学校へ来れた理由――――それは幼馴染である晃と蘭が、岐志に救いの手を毎日差し伸べてくれたことだ。

幼い彼らでも分かるほどの岐志の変わりっぷりを見て、さらに岐志と交流を深めるようになったのだ。

 そして、岐志の状況は2人の両親にも伝わり、遂に動き出した。

本格的に、彼を保護する手段を選んだのだ。


「今日わたしね、晃の家に行こうと思ってるんだけど……岐志も行く?」


「――――」


 しかし、岐志は問いかけには答えない。

もはや声が出ない、その気力すらない。

口は開くことまでは出来ても、そこから先は体が言うことを聞いてくれない。


「ほら、行こう!」


「きし!」


「――――」


 蘭と晃に両手を引かれ、着いた場所は晃の家だった。


「――――」


 蘭はインターホンのボタンを押す。


「こんにちは! 蘭です」


 元気よく蘭がインターホンに向かって挨拶をする。

しばらくすると、中から出てきたのは晃の母親、斎藤 茜だった。


「よく来たね蘭ちゃん! 岐志くん久しぶりね。とにかく上がって!」


 事情は知っていた茜だが、驚きを隠せなかった。

岐志がこの家を訪れて来たのは、彼の両親から虐待を受ける前だった。

顔が青アザだらけになっていて、一瞬誰なのか分からなかった。

それほど、岐志の見た目は変わり果てていたのだ。


「ほら岐志入ろう?」


「――――」


 何故だろう。

自分の冷たくなってしまった心に、何かに包み込まれて温かみを感じた。

気づけば、岐志はもう忘れたはずの涙を流していた。


「き、きし!? 大丈夫?」


 岐志は泣き崩れた。

こんなに温かいものを感じたのは、助けてくれることはどれだけ心の支えになってくれたことか。

もちろん、幼い岐志には詳しい感情は分からない。

ただ、泣いて泣いて――――泣いた。


「岐志君―――テーブルの上にお菓子あるから、好きなだけ食べなさい。少し落ち着いたら、わたしに何があったのか教えてくれるかな? 岐志君が話せるところまでで良いから」


 岐志は頷いた後立ち上がり、2階にある晃の部屋に荷物をおいた後、テーブルの上にある籠の中に入ったお菓子を沢山食べた。

 その時、蘭の母親を含めた4人がいたリビングには話し声や笑い声が、沢山溢れていた。

そして、岐志の表情は笑っていた。

あの時の元気いっぱいな彼の顔が、再び戻っていたのだ。

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