第24話.ノウマン
病沢光博は死を迎えた。
冷たいアスファルトの上で魂が離散していく。
完全な死を迎えようとする直前、彼の魂は走馬灯らしき光景を写しだそうとした。が、何も見せずに消えてしまう。
病沢光博という男の人生は、特段記憶に残るほどの経験や記憶が何も無かったのだ。
何者でもなかった。
何かを成し遂げた訳でもない。
会社と自宅を往復。
社会の歯車となって身を擦り減らすだけの毎日。
病沢光博の人生は取り立てて特別な経験や記憶がなかった。
いわば無味無臭の人生。
ゆえに、走馬灯と呼べるほどの過去のフラッシュバックは起きなかった。
撃ち込まれた法則が病沢光博という人間を分解していく。
その大部分は本人とってどうでもいいものばかりだ。失われていく記憶は毎日の焼き増しのようなもので惜しむ気にすらならない。最後に残ったのは搾りかすのようなものばかり——。
だが、残ったものの中には病沢の搾りカス意外のものが存在していた。
その光景は病沢として体験したものではない。
病沢ではなかった時の記憶が突如として蘇る。
「——夢が見たいんじゃ」
あの時、ナイトがそう言ったのを思い出した。
「お主に参加を強制する気はない。じゃがな、ノウマン、お前は違う……まだ間に合う。儂のような老害にはなるな。死ぬ間際になって『自分は誰だ?』なんて自問自答するような生は送って欲しくない。孤独な老人の最後など悲惨ものだ……。結局のところ、自分が何者であるかは周囲にいる人間が決める。人間関係がなければ儂はただの死にぞこないよ。お前たちと繋がっておるから儂はここにグッドナイトとして存在できる」
遠い昔に聞いた、懐かしい声がする。
「今いったことを踏まえて儂は問う。お前は誰だ? 社会の歯車か? それとも死にかけている友人を救ってくれる
それを皮切りに次々と過去の記憶がフラッシュバックした。
共に戦い、苦楽を共にし、勝利を分かち合った。
そこには惨めな人生を送る病沢という男の姿はなく、ただ一匹の化物がいるのみ。
居場所があった。
そこで自分は自分として存在することができた。
まどろみの中にあった意識が目を覚まし、撃ち込まれた法則に反旗を翻す。
生と死を繰り返し、疑似的な輪廻の中にあった霊魂は、本来の輪廻に戻そうとする力に抗い、抵抗を試みる。だが、あまりに強大な力の奔流は捻じ曲げることができなかった。
異界で儀式を行ったのは自身を蘇生をするため。
撃ち込まれた法則は輪廻へ自分を引き戻そうとする。
どちらにも抗わない。ただ彼は解釈を変えた。
――今こそ、本当の自分になる時だ。
その時、彼は息を吹き戻した。
感覚が蘇り、冷たい空気が肺を満たした。
背中に伝わる氷のように冷たいアスファルト、胸の痛みと腹部の違和感——。
顔を横にすれば、コンビニに向かう羽宮の背中が見えた。
――やめて!! やめて!!
ルーの声が聞こえたような気がした。
(助けないと……)
息をするのも苦しい。
肺に空気を送り込んでも、どこかへ抜けていってしまう。
まるで陸にいながら溺れているような感覚だ。
だが、彼は——ノウマンはむくりと体を起こすことに成功する。
体から徐々に痺れが抜け、手足に自由が戻ってくる。
血だまりの中でそれは蘇った。
上体を起こした時、痺れの残った腕が赤い水面を叩いた。
ぴちゃん。
自動ドアの前に立った羽宮がハッと息を呑んでこちらを振り返った。
目を丸くし、今しがた体を起こした自分に目を向けている。
視界が霞む。
水面は鏡面のように自分の姿を映し出した。店の明かりを反射し、波紋を立てる水面には一匹の化物が映っている。カメラのピントが合うように、視界がクリアになる。
白目のない真っ黒な両目。
向こう側から自分に視線を投げかけていた。
「ヒュー……ヒュー……」
死人は手をついて静かに立ち上がった。
もう体は痛くない。
老人のようにゆっくりとした動作で立ち上がった。
その時、羽宮が叫ぶ。
「——お前は何者だ。なぜ弾が当たっても成仏しない……!」
奇しくも、それは遠い昔、自分の友人から訊かれたものと同じ質問であった。
あの時は沈黙でしか答えることができなかった。
だが、今なら胸を張って答えることができるだろう。
死人は羽宮の目を見て、誰にも聞こえない声で自分の名を口にする。
「私は————————」
羽宮は即座に体を反転させた。
背後から近づいてくるであろう存在に目をやりながら、閉じかけた自動ドアの隙間に体をねじ込もうとしている。
ノウマンは己の体に目をやる。
浅黒く瘦せこけた体。
骨張りの体からあばら骨が浮き出て、死蝋化した皮膚は擦り傷だらけ。身に付けていたはずの衣類は燃え尽き、胴体がより一層細く見える。
折れた足を庇うような、ぎこちない動きで歩いた。
数歩も進めば、その折れ曲がった足は元の形に再生した。
足を引きずる音から、アスファルトの礫を踏みしめる音に変わる。
足を引きずるような歩き方から、両足を地面につけ、まっすぐに歩けるようになった。
歩きながら、腹に刺さった金属片を片手で握りこむと、それを引き抜いて捨てる。
金属がカンカンという音を鳴らしながら闇の中に消えていった——
もはや自分を縛り付けるものはない。
羽宮は態勢を崩しながらも店の中に逃れた。
そのすぐ後、ノウマンは半開きになった自動ドアに手をかけ、左右のガラスドアにそれぞれ手を添えた。
「待ってろ。今、助けに行くからな……」
細い腕に力を入れた途端、自動ドアはガラス細工のように木っ端微塵になる。
細かいガラスの粒子が周囲に散乱し、入口から化物がやってくる。
ジャリリ、ジャリリとガラスを踏みにじり、それはやってきた。
人の面影を残した一体の化物。
黒い目に映るは遠い記憶。
人なのか化物なのか、生きてるのか死んでいるのか。
曖昧な存在が起き上がったのは何かやり残したことがあったからかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます