第22話.死人
「——とまあ、私に分かるのはこの程度ですね」
羽宮は満足げに、心の底から笑みを浮かべた。
一時間に満たない会話だったが、そこから得られた情報は何物にも変えられないほど貴重なものだった。これを現世に持ち帰ればこれまでの常識はひっくり返るだろう。
あとはやるべきことをやるだけだ。
この怨霊——病沢光博は確かに強い力を持っている。
恐らく正面から戦ったら除霊することは難しいだろう。
だが、こちらにはまだ切り札がある。
その切り札を使うための秘策——この怨霊はまだ気づいていない。
「ではお約束通り、サインをお願いします」
怨霊はボールペンを取り出した。
どこにでも売っていそうな何の変哲もないボールペン。それを受け取った後、羽宮はワザとらしく咳ばらいをした。
「まあ、待て。サインはするが、その前に何か忘れていないか?」
「……何がです?」
羽宮は契約書のサイン欄をトントンと指で叩く。
「君は生前の仕事でこういう機会がなかったから知っていないかもしれないが、こういうのはまず自分の名前を契約書にサインするのがマナーなんだ。もちろん自筆で」
渡されたボールペンを相手に返して、契約書を反転させた。
何ら疑うこともなく「そうなのですか」と言いながら、怨霊は紙に自分の名前を記入する。紙の上でペンを走らせた。返ってきた契約書のサイン欄。そこに書かれた名前を見た時、羽宮は満面の笑みを浮かべた。
病沢光博。
怨霊の名前が自筆で記入されていた。
怨霊の正体がはっきりと宣言された。
条件が整ったのだ。
羽宮は今一度契約書に目を落とす。
そしてボールペンを握りながら言った。
「俺は現世に知識を持ち帰る。その代償としてお前に関する記憶を忘れる……。いい取引だと思う。お互いにとってメリットのある。だが、お前は一つ勘違いをしているな。こうすれば……ここであったことを忘れずに知識を持ち帰ることができるじゃないか?」
羽宮は手に握ったボールペンをカウンターの上に置かれた病沢の手に突き刺した。
霊力を使い加速させた手の動きは、目にも留まらないほどの速さで、正確に手の甲を突き刺さり、固いカウンターに突き刺さった。
「なにを!!」
ボールペンを突き刺した直後、唯一自由に動かせる左手を振りかざす。
直後、羽宮はパイプ椅子に座った状態から、強い力に襲われ、後ろへ大きく吹き飛ばされた。
パイプ椅子の背もたれが床に接触した時には、平均体重を大きく超えた肥満体がカウンターの遥か後ろ、ドリンクが冷やされているまでショーケースに衝突する寸前だった。
ガラスへと衝突するかと思われた。
しかし、吹き飛ばされガラスに衝突する直前で衝撃が和らぐ。まるで体とガラスの間に大きなゴムボールでもあったかのように反発。霊力を消費し、前方にはじき出された羽宮は無傷のまま次の行動に移る。
すでに拳銃は抜かれていた。
吹き飛ばされている最中、懐にあった特別性のナンブは引き抜かれていたのだ。受け身と次の攻撃への布石は済んでいる。両足が床に設置し、両手で拳銃が構えられたのは同時だった。
——この距離なら当たる。
羽宮は確信していた。
もし咄嗟に病沢がカウンターの下に身を隠そうとしたのなら、弾丸は当たらなかっただろう。
しかし、ボールペンは彼の手に突き刺さったままである。そこには少なからず霊力を込められており、一時期的にも動きは鈍るはず——。
後は狙いを定め、引き金を引くだけだった。
だが、ナンブの銃口のブレが直り、指に力を入れ始めた刹那、羽宮は目撃する。
身動きのとれない病沢の右斜め後ろ、電子レンジの蓋が音もなく開いていたことに――。
怨霊はこちらを恐ろしい形相で睨みつけながら、電子レンジの中に手を伸ばした。
羽宮がそれを目視で確認した時、金属の衝突音。
銃口が跳ね上がった。
——バンッ
店の中で発砲音が響く。
しかし、狙いは大きく逸れ、発射された弾丸は天井にめり込んだ。銃そのものに力が加わり、銃口が上に向いたのだ。立ち昇る硝煙は空調に吹かれ、煙の匂いが室内に循環する。
「残念ですね」
カウンターに突き刺さっているボールペンを引き抜き、適当に放り投げた。プラスチックがカラカラと音を鳴らしながら転がる。
カウンターを軽々と駆け上り、床に転がったボールペンに向かって着地する。体重をかけて踏みつぶし、踏み砕いた後も、体重をかけながら粉々になるまで足で踏みにじる。
「人を殺すのはよくない。だが、正当防衛なら仕方が……ないよなあ……!!!!」
顔がこれ以上にないくらいに醜く歪んだ。
決して満たされることのない飢えを満たそうとする強い欲求が目に浮かんでいる。
正面に立った怨霊。
羽宮は相手の様子を窺う。
怨霊と羽宮の間には数メートルの距離。自分のすぐ近くにペティナイフにも見える小さな刃物が転がっている。柄の部分はガムテープでグルグル巻きにされており、明らかに切れ味の悪そうな刀身には血と脂がベッタリと付着していた。
恐らくは発砲の直前、怨霊が刃物を羽宮の投げたのだろう。それがナンブに当たり狙いが上に逸れた——。
「……何が正当防衛だ。知っているか? 日本の刑法はあくまで生きた人間が対象だ。死んだ人間は対象じゃない。お前はもう死んだ人間なんだよ!! もう法律の適用対象外だ!! 無理矢理成仏させても法的には何の問題もない。なんたって人間じゃないからな!!」
その言葉を口にした途端、空気が変わった。
怨霊が纏っていた雰囲気が——いや、店全体から強い圧迫感を感じる。
「……黙れよ。クソ野郎!! お前も発電機にしてやろうかぁ゛゛ぁ?」
「やれるもんならやってみろよ!!
羽宮はナンブの引き金を引く。
弾指の間、病沢はすぐに横の棚に身を隠した。当然、弾は当たることなく空を切る。
羽宮自身、今の一発を当てるつもりはなかった。初撃は防がれ、狙っていた不意打ちは失敗に終わっている。今の一発は向こうの動きを抑制するための脅し。
(……弾は残り3発。一発でいい。当てさえすれば、それで奴は終わりだ)
ナンブに装填された特別な弾丸は、命中すれば霊を問答無用で成仏させる効果を持っている。いくら怨霊が強い霊力を蓄えていようと関係ない。相手の本名を知るという条件をクリアした今、制約はなくなり、当てさえすれば強制敵に除霊が執行される。
「どうしたぁ!! 病沢ぁ!! 怖くて出てこれないのか?!」
ナンブを構えながら霊の名前を叫ぶ。
激昂して身を晒せば弾を命中させるチャンスになると考えての挑発。
「そうだよなぁ……!! コソコソと身を隠すのはお前に相応しい戦い方だぁ。どうせ正面から戦えるほど強くないんだろぉ? ほら、出て来いよ!!」
ナンブを両手で構えながら、羽宮はゆっくりと前に進む。
カウンターの横、身を潜めていると思われる陳列棚の角に向かって一歩一歩距離を縮める。
額に汗を滲ませながら羽宮は顔に笑顔を浮かべる。
頭の中で病沢光博に関する資料を思い出しながら、相手を挑発する言葉を次々と口にした。
「俺は知ってるぞぉ? お前はいい歳になっても結婚すらしていないんだってなぁ……。まあ、当然だよなぁ……。死んでもグチグチと未練がましい奴が女に好かれる訳がないよなぁ。俺には分かるぞ? お前みたいなクズは今まで何人も見てきたからなぁ」
陳列棚からバッと一気に体を出し、銃口を向けた。
いない。
「おいおい逃げ回ってばかりでどうする? 姿を表して戦ったらどうなんだ?」
実際のところ、姿をくらませられたら困るのは自分である。
時間をかけられた挙句、異界に閉じ込められるというのが最もやって欲しくないことだ。だから、相手を挑発し続ける。
「お前に関することは何だって知っているぞ? 会社の人間にも事情聴取したが、お前と親しくするような同僚はいないんだってな。ハッハッハ、それにあれだ。お前んとこ上司が言うには、『仕事に対して著しく熱意に欠ける人間だった』って聞いたぞ?」
自分で話を窺ったわけではないが、報告書を読めば、羽宮光博という男がどういう人物なのかはある程度、予測がつく。
「事情聴取でお前んとこの会社の人間にも話を聞いたが、笑っちまったよ!! 誰もお前のことを悲しんでいないんだからな。驚いたよ。なかには、『そんな奴いましたか?』って言う奴までいる始末だ。ダッハッハッハ!!!」
雑誌コーナーがある場所から物音が聞こえた。
——動揺しているな。
羽宮はなおも言葉で挑発を継続する。
「しかし、分からんなぁ……。お前のように家族もいなければ出世も見込めないような”終わった人間”がどうしてそこまで必死になる必要がある? とっと死んでしまえば楽になれるだろうによ!!」
周囲を警戒しながら、店の中を歩く。
いつでも引き金を引けるようにナンブを構える。
「お前はもう社会に必要な存在じゃないんだ。うーん? 違うなあ……。元から不要な人間だったな。大人しく死んで成仏してくれば良かったんだ!! そうすりゃあ、俺もこんなところに来る必要もなかった!! お前の存在自体、日本社会にとっては害悪なんだよ!!」
吐き捨てるように羽宮は言う。
陳列棚に挟まれた通路を歩く。商品の隙間から向こうを窺いながら、場合によっては隙間から弾丸を撃ち込むつもりで——。
「子供を産んで社会に貢献する訳でもなく、生産的に日々を過ごすわけでもない。今の日本にゃあ、昔のように余裕はないんだ。俺も含めて必死に頑張って社会を支えている。毎日精を出して働いて、税金を収め、年金を支払い、国のために働いている。なのに、お前ときたら……どうして他人の足ばっかり引っ張ろうとするかね? お前のようなクズのせいで日本が駄目になるんだよ。だから、俺が殺してやるよ。悪い奴は殺さないとなぁ」
カップ麺が所狭しと並ぶのを横目に見ながら、棚の向こう側を警戒する。
通路のなかばまで来た時だった。
ふいに天井の光が弱まった。一瞬、天井のLED蛍光灯に気が逸れた。
(殺意……!! 上かッ!!)
銃口を咄嗟に上に向けた。
羽宮の霊感が殺気を感じ取ったのだ。
だが、天井にナンブを向けた瞬間には、すでに殺気がなくなっていた。
(しまった!! 今のは病沢ではなく——)
意図的に感じさせた殺気は病沢のものではなかった。
そのことに気づき、上に向けた銃口を元の胸の位置まで下げようとするが——。
羽宮の霊感にさらなる反応があった。
銃口を向けるよりも先に、羽宮の視線が先にそちらに向く。窓側の陳列棚の向こう側から、とてつもない殺意が突き刺さる。
目が合った。
商品の隙間から殺意を持った両目が自分を睨みつけている。
凄まじい形相をする病沢の真っ黒な顔。歯を剥き出しにし、瞬き一つせず憎しみに満ちた目で見ていた。
直後、陳列棚そのものが自分に向かって倒れこんでくる。
——チッ。
舌打ちが聞こえたのは、咄嗟に飛び込むように倒れてくる棚を避けてからだった。
商品が崩れて床に散乱。
こちらを睨みつける病沢はすぐに倒れた棚から体を起こす。
前のめりに飛び込むような形で回避したためナンブを構える暇がない。体を起こしつつ、すぐに態勢を整えようとする。
ナンブを構えた時には、すでに隣の陳列棚に身を隠した後だった。
(舌打ちをしたいのはこっちだ……!!)
戦うの屋外であったのなら、身を隠す場所もないため命中させるのは容易だっただろう。これだけ狭い店内で障害物も多いとなると、かえって狙いをつけるのが難しく、遮蔽物も多いため、撃ちにくくて仕方がない。
撃てる隙があったとしても引き金を引くのは心理的にハードルが高い。
除霊するために持ち込んだ必殺の武器とも呼べるナンブを撃ち切ってしまえば、この怨霊——病沢光博を除霊するのは困難になる。
あれほど挑発した今、そう簡単に異界から逃してくれるとは思えない。何より、記憶を忘れるように依頼してくるほどだ。まず、ここから逃すつもりはないだろう。
ナンブを構えたまま、どう動くべきか考える。
(このまま決定的なチャンスが来るのを待つか……? あるいは対処が不可能ならば、いっそのこと——駄目だ!! 除霊するチャンスがあるのならアイツはとっくにやっているはず……! クソッ、役に立たない奴だ!!)
頭を回転させながら、次に打つべき行動を考える。
が、先に動いたのは病沢の方であった。
自分の背中——ドリンクを冷凍するショーケースの方から音が聞こえた。
一瞬だけ背後に振り返る。
そこはショーケースのガラスドアにヒビが入り始めていた。
(——まずい)
次の瞬間、硬質な音を立てて、ガラスが爆散した。
細かなガラスは一つ一つの破片が非常に鋭利で、散弾のように羽宮の背中に突き刺さる。スーツの布地を貫通し、皮膚に無数のガラス片が突き刺さった。
顔を正面に戻すのが精一杯で、避けることができなかった。
あまりに広範囲に飛び散ったガラスは避けようがない。
「くそおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
痛みと怒り。
喉がつぶれるほど叫び、顔の血管が切れそうになってもナンブは構えたままだ。
「ふー……ふ—……ふー……!!」
歯を食いしばり、呼吸を落ち着ける。
今ここで動揺すれば相手に付け入る隙を見せることになる。
——落ち着け、落ち着け。大したことじゃないさ。
その時、姿を隠した病沢の嘲笑うような声がした。
「汗を搔いていますね? 額に汗が滲んでいる……。どうかしましたか?」
ナンブを握る手に痛いほど力が入った。
「すぐにお前をぶち殺してやるよ……!! たっぷり痛めつけてな……!!」
またしても天井の蛍光灯がチカチカと瞬いた。
明るい店内が一変。
蛍光灯の明かりが弱まり、不規則な点滅を繰り返すようになった。
一見すると大したことがないように見えるが、これは厄介だ。チカチカと明滅することで狙いをつけて、引き金を引くまでの判断に若干のロスが生れる。これではますます撃つことに躊躇することになってしまう。まして全身が黒く焼け焦げているのだ。薄暗くなった店内ではなおさら——。
目の前で黒い影が素早く横切った。
倒れていない陳列棚から陳列棚へ素早く病沢が移動したのだ。
(……早い!)
引き金を引き切ることができなかった。
銃口をそちらに向けるだけで、踏ん切りをつけて攻撃に移ることができない。
さらに状況は悪化する。
店の陳列棚が独りでに動き出したのだ。
一斉に陳列棚が動き出し、床と擦れて軋むような大きな音を立てる。倒れていた棚は自然と起き上がり、縦横無尽に向きを変え、不規則に位置を変える。
そして隙間を縫うように移動する黒い影があった。
黒い影が動いた先を追いかけるようにナンブの銃口を向け続ける。
始めの内は棚の動きに合わせて移動する影を追いかけることができた。
しかし、何度も棚が移動し、向きを変えるごとに影が追うことが難しくなる。
それだけではない。
蛍光灯が一瞬だけ消灯するようになった。一秒に満たない暗転。そのわずかな一瞬の隙に、ついには姿を見失った。
ついには病沢がどの棚に隠れているのか分からなくなった。
静寂が訪れる。
不規則に動いていた棚の動きが完全に止まったのだ。
「…………」
自分の呼吸とカチャカチャと小さな音を立てるナンブの音だけになった。
(どこにいる病沢……!)
銃口を左右に揺らすように狙いを変える。
息遣い一つしない。
そもそも病沢は死者。
心臓はおろか肺さえも動いていない。当然と言えば当然だが、呼吸などしていないのだ。
ドリンクのショーケースを背に、羽宮は立ち止まる。
自分の持つ霊感を頼りに、気配を探り、相手の居場所を見つけようとする。
肌に突き刺さるような強い殺意。
それを感じることはできた。だが、店全体から自分に向けらる殺意はとめどなく、どこからか一方からやってくるのではなく無数の方向から——いや、コンビニ全体から感じられた。これでは殺意があるなしに関わらず、相手の位置を探ることができない。
(どこにいるんだ……!!)
動くに動けなかった。
相手のいる場所が不明である以上、物陰を覗き込めば必ず隙が生じるものだ。銃口をそちらに向けて、そこに病沢がいれば問題ない。だが、そこにいなければ自分に死角ができるのは必定。そこを襲われれば致命となる。
撃つか死角から襲われるかの二択。
そんな危ない橋を渡るのは馬鹿のすることだ。
従って、ナンブを構えたまま動くことができない。
「…………」
正面にある陳列棚は横になり、商品が陳列したままになっていた。
最も近くにある棚にはお菓子が棚一杯に陳列され、羽宮の正面に向けられている。ポテトチップスのように袋に入ったスナック菓子が多い。
そのスナック菓子の袋の中身がガサガサと揺れ始めた。いや、揺れているのではない。電子レンジの中のポップコーンが跳ねまわるように、スナック菓子の袋の中身が跳ねている。
——来る。
袋が破裂した。
無数のポテトチップスやスナック菓子が自分に目掛けて飛来する。
武器の狙いを定められないようにする病沢の妨害行為だ。
薄暗い店内と視界を覆うスナック菓子に、ほとんど何も見えない。
だが、羽宮は狭まった視界の中に病沢の姿を見た。
意識を集中し、霊感を働かせることで、より強い視線を捉えた。
一点に意識を集中。
暗がりと同化しかけた怨霊を発見した。暗がりから姿を表した影は、陳列棚の影から素早く移動し、距離を縮めにかかる——。
ほぼ何も見えない視界の中、ついに引き金を引いた。
撃鉄が起こり、火薬が燃焼。
発射された弾丸はスナック菓子を貫通し、その先にいる怨霊目掛けて進んでいく。
だが——外れた。
命中の有無を確認するまでもなく、自分の下半身に強い衝撃が加わった。
病沢が身を屈め、自分を床に引き倒したらしい。
「ガハッ!!」
受け身をとることができず、背中から体を打ち付け、肺から強引に息が抜ける。背中に突き刺さったガラス破片がさらに自分の奥深くへと突き刺さる。
引き倒された自分の体の上に馬乗りになった病沢が自分の腕を掴んだ。
受け身をとることを放棄したのは、両手に握っていたナンブは手放さないため。
病沢の警戒心は強く、武器の無力化を最優先している。
掴まれているせいで、病沢に銃口が向けられない。
それどころか手に握っているナンブを奪おうとしてくる。
その時、ナンブが暴発した。
奪われまいと抵抗した際、不可抗力で指に力が入ってしまった結果だった。
残った力を振り絞るように叫び声あげながら、ナンブを投げる。
揉み合いになれば先ほどのように再び暴発するだろう。そうなれば自分たちは生きてここから現世に戻ることはできない。
——早く、俺の代わりにやれ!!!
心の中で叫ぶも彼は意図をくみ取ることはしなかった。
あるいはできなかったのかもしれない。
揉み合いになった二人の視線は放り投げたナンブの軌道に向かっていた。
その軌道は正面にあった陳列棚にぶつかり、比較自分に近い場所に転がるはずだった。しかし——。
強い霊力が発せられたのが分かった。
皮膚が自分の意思とは関係なく逆立つ。
ぶつかるはずだった棚が動き、揉み合いになっている二人の近くから遠く離れた場所にナンブが消えた。その動きはあたかも飛んできたナンブを避けるかのようだ。
両手首を掴まれ、自分の体の上に病沢が圧し掛かる。
激しく抵抗し、呼吸をするたびにガソリンと人が焼けた臭いが体の中に吸い込まれていく。
喉が狭くなるような感覚を覚えた。
瘴気。怨霊と接触したことで体が蝕まれていく。このまま自分が取っ組み合えば、喉が焼け、肌が爛れるだろう。この病沢が辿った末路と同じように。
自分と病沢の揉み合いは拮抗しているように思えた。
自分のほうがガタイがいい。体重も身長も向こうより圧倒的に上回っている。
いくら霊力を集めて強化されているとはいえ、肉体面では自分の方が勝——
その時、目の前にあった病沢の顔の口角が吊り上がったように思えた。
違う。口が大きく開かれ、焼け爛れた口の中が覗いたのだ。
次の瞬間には自分の手に噛みついていた。
「———————————!?」
あまりの激痛に叫びを上げることさえできなかった。
たまらず体に霊力を込める。
体の内から出た霊力が体の外側を伝わり、スーツの布地の裏に縫い付けた御札に流れ込む。
霊力と共振し、除霊効果のある御札の力が発動。
体を伝って、病沢の体に流れ込む。
病沢の体が痙攣し、力が弱まった。
しかし依然として自分の手を掴んで離さない。
隙を見せたのを見計らって、相手を蹴り上げる。
人体で最も大きな筋肉を持つ足。
その一撃を受けて、病沢を後方を大きく吹き飛ばした。
「畜生……!! よくも……!!」
痛みに歯を食いしばり、自分の手に目をやる。
自分の右手の小指と薬指が欠けている。
喰われた。
御札の力を使ったことで一時的に病沢を怯ませることはできた。
本来は憑依による乗っ取りや精神障害を防ぐために服に縫い付けておくものである。ただの悪霊なら憑依はおろか近づくことさえできない。自分の霊力を流すことで一時的に効力を強化。結果として、病沢の動きを抑制することができたが、あくまで一時しのぎに過ぎない。
すでに足元に転がる病沢の体から痺れが抜け始めている。
痙攣する体。
しかし、顔だけはなおも自分に向け、怒りの表情を浮かべている。
背中でスーツに縫い付けた御札が消失するのを感じながら、最後の一発が込められたナンブを探す。
(早くナンブを……!! クソ! どこにある!! 確かにこちらに飛ばされたはずだ!!)
頭の中で飛ばされていったナンブの軌道を思い出しながら、病沢を倒せる唯一の武器を探す。しかし、見つからない。確かにこちらに飛んでいったのにナンブがない。
慌ただしく、あちらこちらへと視線を向けるが、床に散らばったコンビニの商品のせいで何も見えない。どこかに埋もれているのか、それとも——。
その時になって気づく。
わずかに脳裏に残ったナンブの軌跡。その時に商品が並んだ棚が動いていたのを思い出す。
——まさか棚が動いてナンブを動かした?
一気に体温が抜けて愕然とした。
だとすれば、ナンブはさながらサッカーボールように棚によって動かされ、どこかに隠されてしまったのではないだろうか?
地面に転がった商品の山を掻き分けながらナンブを探す。
しかし、すでに病沢は仰向けになった状態から体を起こしつつあった。
「くそったれ!! ナンブが見つからない!! 俺には無理だ!!」
除霊するのに必要なナンブは見つからない。
探すにしても時間が足りなすぎる。今、自分に出来るのは——
自分の手に霊力を一点集中。
閉ざされた自動ドアから外に出ようとする。
手のひらをガラスに押し当て、一気にガラスを割ろうとする。
「これでも駄目かッ!!」
とんでもなく固いガラスだった。
多量の霊力を消耗し、確実に割れるほどの威力を込めた。にも関わらず、自動ドアのガラスは粉々にヒビが入るだけで決して割れない。どれほど頑丈に作っているんだ?
「これほど強固に作るとは呆れたな」
目の前でひび割れが直っていく。
時間を巻き戻したかのようにヒビが修正されていき、数秒後にはひび割れ一つない自動ドアに逆戻り。
『申し訳ございませんが、店の外の出るのはお勧めできません。どうか店の中でごゆるりとお過ごしください』
敵は病沢光博だけではない。
さきほど天井から感じた視線はコイツのものだったか——。
『もう少しで目標に届くのです。あと一人分。あと一人分エネルギーがあれば閾値を超えます。ですから、どうかここで——死ね』
すでに病沢はフラフラになりながらも、立ち上がろうとしている。
近くに棚を引き寄せ、手をついて今まさに立ち上がろうと手を添えている。
(……やむを得ない)
羽宮はナンブを収納するホルスターとは反対、スーツの内側に手をやり、予備の札を取り出した。
それをドアに貼り付け、再び力を増幅。
今度こそ、霊力を使いドアを粉々に破壊することができた。これで武器となるものは全て、自分の懐からはなくなった。
すぐさま外に出た。
既に入口に散らばるガラスの結晶は宙に浮き始め、自動ドアの再生が始まっている。
だが外に退避することができた。
これならば距離をとって怨霊と戦うことができる。
屋外にあるのは駐車場と入口からやや遠くになる電飾看板。
周囲には病沢が利用できるような障害物がない。これならば環境に左右されずに戦うことができるだろう。店の中で戦うよりは有利になる。あとは時間を稼いで、その間にナンブを——。
自動ドアを正面に捉えつつ、コンビニから遠ざかるように後退する。
店の奥から病沢がゆっくりと足を引きずりながら自動ドアの入口にやってくるのが見えた。ぎこちない動きで歩き、真っ黒な影が窓ガラス越しに移動している。
(ナンブを探し出すまでの時間を稼ぐ……!! いくら力があるとは言っても所詮は一般人の霊。逮捕術や空手! 体術はこちらが上だ……!!)
コンビニの入口からやや離れた場所で相手を待ち構える。
(さあ出てこい!! お前がそこから出れば、あとは——)
しかし、彼が外に出てくることはなかった。
「…………?」
怪訝な顔になった羽宮は、相手の動きを観察する。
病沢は自動ドアの前まで足を止め、完全に閉まり切ったドアに手の平をついた。
真っ黒な手の平が自動ドアのガラスに押し付けられ、撫でつけるように動いている。
その動きはどこかで見たことがあるものだった。
トイレの中に押し入り、そこにあった発電機の頂点にあった手の動きに似ている。
コンビニの店内の明かりが元の光量に戻った。
真昼のように明るいLED蛍光灯の照明。
現実のコンビニの光量と遜色ない強さになる。
手の動きを見ている時、病沢の口が動いた。
声はガラス越しで距離もあるため何と言っているかは分からない。
だが、唇の動きから何と言っているのか分かってしまった。
——さようなら。
答えに至った時、コンビニの外観に変化があった。
店舗の上部、このコンビニの”デイリー8”という文字を照らす明かりがフッと消えたのだ。それに伴い、自分が立っている場所に差し込む光が弱くなる。
続いて、店内の雑誌コーナーを照らしていた一列目の明かりが消灯。
(なぜ追ってこない……?)
あれほど自分を殺したがっていた病沢は自分の元から遠ざかっていく。
顔にはすでに怒りに満ちた表情は消えている。
口角を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた病沢はこちらを見ながらゆっくりと自動ドアから後ろに下がっていく——。
自分を殺しにこちらにやってくると思っていた。
だが、その気配がない。
胸騒ぎがした。
何かを見逃しているような胸騒ぎ。
何か自分は忘れていないだろうか?
何か大切なことを——。
致命的なことを——。
コンビニの中央にあった蛍光灯の明かりが消えた。
それまで店の中から差し込む明かりによってできていた人口の影。ふくよかな自分の体のシルエットが薄くなり、闇に溶け込んでいく。
その時、気配を感じた。
店の中からではない。
むしろ逆だ。
敷地の外——そこにあった無限の闇の中から気配を感じた。
強い視線だった。
無数の人間がこちらを見ているような不特定多数の視線。
その時になって病沢の言葉を思い出す。
——————————————————————————————————————
「……光?」
「ええ、決して絶やしてはいけません。光が弱まると闇に呑み込まれます。そうなれば無事ではいられません。意識を向けないと分からないと思いますが、外に出て暗闇に近づくと分かるんです。何かの気配が常に敷地を取り囲んでいる」
——————————————————————————————————————
後ろにゆっくりと振り返った。
遠くで電飾看板が光っている。
コンビニと電飾看板の間には、真っ黒な深い闇が広がっている。それはコンビニの明かりが消灯されるまでにはなかった闇だ。
そしてその中には何者かがいる。何かは分からないし、恐らく霊媒師である自分にすら理解できないもの。いや、理解してはいけない何かがだ。
店の明かりが弱まると深い闇が自分に這い寄ってくる。
羽宮は暗闇から逃げるためにコンビニを目指した。
自動ドアの入口へ走るが、ドアは閉ざされている。
ドアにへばりつき、中を覗く。
病沢はすでに奥のカウンターの前にいる。倒れていたパイプ椅子を拾い上げ、カウンターの前に座った。こちらには目も向けずに手にコーラを握っている。
入口から対角線上にある店の角の照明が消えた。そこを皮切りに一つずつ蛍光灯から明かりが失われていく。一つ、また一つ。そしてついには病沢の頭上にあった照明が消えた。
残ったわずかな明かりは、キッチンで輝く蛍光灯のみ。
店内は暗くなった。
キッチンがあるレジの一角だけが明るい。
自分の背後に深い闇が迫りくる。
闇の中から聞こえたのは無数の足音だった。一つや二つではない。まるで渋谷のスクランブル交差点のど真ん中にいるかのようだ。想像もできないほどの数の足音が雪崩のように聞こえてくる。
靴がアスファルトを叩く音はない。
全員が裸足で走り回っている。暗闇の中にいる無数の存在の足音は様々で大人が走り回っているものもあれば子供が走り回っているような軽い足音もある。誰もが全速力で走り回っている。激しく呼吸をする息遣いがここまで聞こえてくる。
心臓を鷲掴みされたかの如く、恐怖という久しく感じていなかった感情が吹き出した。
もはやなりふり構っている精神的な余裕はない。
再び、自動ドアを破ろうと霊力を込めた手のひらを押し付ける。
自分に残存する全ての霊力を使い、自動ドアに挑むが——。
ひび割れすらしなかった。
目の前に立ちはだかる透明な壁は決して壊れない。それどころか以前よりも強度を増しているようにすら感じられた。
霊力を使い果たしてもなお、諦めることができなかった。
——ここで死んだらどうなる?
現世で死んだのなら魂は成仏する道を辿るだろう。
病沢に殺されたのなら自分の魂を霊力として彼の儀式に使用されるだろう。
だが、ここにいる言い知れぬ存在に殺されたら——。
羽宮は——金満は発狂した。
背後から迫る存在に恐怖し、彼の精神は崩壊寸前になる。
呼吸のリズムが荒れ、全身震わせながら、ドアを叩いた。
拳の骨が折れ、骨が剥き出しになって真っ赤な血潮がガラスに付着しても叩くのを止めない。
「開けて!! 開けてくれ!! 俺を殺してくれ!! 頼む!!」
カウンターにいる怨霊はこちらに目を向けない。
手に持ったコーラ缶のプルタブを開けてラッパ飲みしている。
「嫌だ死にたくない!! 俺が悪かった!! だから助けて!! 助けてくれ!!」
病沢は微動だにせず、コーラに口を付けるばかりだった。
金満は言葉にならない叫びを上げた。
彼が叫び声を上げたのはキッチンの照明がパチパチと明滅を始めたからだ。
曲がりなりにも白色の強い光を放つLED蛍光灯。
それが点灯していることで、何とか自動ドアの外まで明かりが差し込んでいた。わずかな明かりが敷地の外から迫りくる何かを遠ざけていた。だが、あれが消えてしまえば恐らくここまで明かりはこない。背後に迫る存在たちが、やってくる。やってきてしまう——。
羽宮は一瞬だけ背後に振り返った。
そこには何もない。
ただ暗闇だけが広がっている。
自分の足元には店の中の明かりによってできた影が伸びていた。
足元から膝、太もも、胴体と影が伸びていき——頭の部分は暗闇と同化している。
金満の涙と鼻水を流しながら、ドアを叩き続けた。
左右に開くガラスドアの間に爪を食い込ませ、力任せにこじ開けようとするが爪の方が先に剥げた。
ドアの向こうでは電子レンジが稼働。暖色系の明かりを放ちながら何かを温めている。
——ドン、ドン。
ふと気づく。
羽宮はドアを叩くのを止め、ドアをこじ開けようとしていた。
にも関わらず、ドンドンというガラスを叩く音が聞こえてきたのだ。
(……な、なんだ?)
音が聞こえたのは自身の左からだ。
音の聞こえ具合からして、ちょうど雑誌コーナーの端っこにある窓ガラスからだ。ここからは暗闇に吞まれているせいで見えないが、何者かがガラスを叩いていた。
——ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。
ナニかが窓を叩いていた。
まるで羽宮が自動ドアを叩くのを真似するかのように。何かがガラスを叩き続けている。
遅まきながら気づいてしまう。
このコンビニ。デイリーエイトのドアが固く閉ざされていたのは中に入った人を外に逃がさないためではない。そうではなくて、外にいる脅威から身を守るためにドアが閉ざされていたのだ。己を殺した男を嬉々として拷問する怨霊すら、恐れてやまない暗闇の中に潜むもの——。
今、自分は外に出てしまっている。
ついに羽宮の目の前でキッチンの蛍光灯が消灯した。
「あ……ああ……」
急速に光が失われていく。
透明な壁の奥には、暖炉の火を思わせる暖かな電子レンジの光が灯っている。ボンヤリとした薄明りはカウンターの前にいる病沢がいる場所を薄っすらと照らしていた。顔をガラスに押しつけ、少しでもその光の元に向おうとする。
が、決してそこに到達することはできない。
外と中を隔てる透明な壁に阻まれてしまう——
間もなく、羽宮は——金満の体は闇に吞まれた。
直後、体に誰かが触れた。
激しい運動をした後のような荒々しいゼーゼーとした息遣い。
何かが自分の体を掴んでいる。
氷のように冷たい手。
スーツの袖を掴み、ズボンの裾を掴み、腕と足の骨が軋むほど強く掴まれ、髪の毛を鷲掴みされ、目を抉るかのように両手の爪を目元に押し付けられ、腹に誰かがしがみつき——。
そして——
「あ—————ああああああああああああああああ。やだ!! やだ!! 俺を連れて行かないでくれ!! たすけて!! たすけて!! やだぁぁぁ!! ママ!! ママ!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛————」
金満の体を引きずられていく。
ドアにへばりついていた体が強引に引っ張っられ、冷たく固いアスファルトの上で彼の体は引きずられた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛———」
暗闇の中に断末魔が響き渡った。
何かが折れる音とぴちゃぴちゃという水音。男の悲鳴はどんどん遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
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