第21話.怨霊
その怨霊は非常に落ち着いてた。
怯えや恐怖、事実を知って絶望する様子は微塵もみられない。
「そんな物騒なものは仕舞ってください。それじゃあ、おちおち話し合うこともできないじゃないですか?」
無言で佇む羽宮に、その人物が声をかけた。
真っ黒な霊な視線は羽宮が持つナンブへと向けられていた。
「それとも何ですか? 強盗でもなさるおつもりで? ……何の価値もない。あるいはタバコを強奪しようとお考えで?」
羽宮は自分が構えていたナンブにチラリと目を向ける。相手の正体が分からなくなった今、仮にナンブを撃って特別性の弾丸が命中しても効果は薄い。いざ本当に使用する場面になって弾切れになったのでは話にならない。ならば今は相手の正体を見極めるまでは温存すべきか——。
羽宮は自分のスーツの内側にナンブを収納する。
そして一呼吸おいてから、ゆっくりとカウンターの席に向かって歩き始めた。
まずは相手の正体を見極めてからだ。
——おちおち話し合うこともできないじゃないですか?
相手は自分と話し会うことを臨んでいるらしい。
店の中で病沢だと思っていた人物に背を向けた時、言わずがもな大きな隙はできていた。こちらを襲うとするのならいくらでもできたはずだ。それをしなかったということは、話し合うというのも満更、嘘ではないのだろう。
すぐに襲ってくるつもりは向こうにはない。
ならば相手の誘いにのって、会話の中で、この霊が何者なのか確かめるチャンスだ。それが分かり次第、除霊を開始する——。
羽宮はレジカウンターまでゆっくりと歩みを進めた。
途中、商品の棚の死角から襲われないか警戒するのを忘れない。
いきなり横から襲われてもいいように心構えだけはしておいたが、その心配も杞憂に終わり、何事もなくパイプ椅子のところまで辿り着く。
「いらっしゃい」
落ち着いた口調。優し気にすら感じられた。
「お前は何者なんだ? 病沢光博か? それとも――」
羽宮は言葉を飲み込んだ。
頭の中で資料で確認した病沢光博の顔と容疑者の顔を交互に思い出しながら、この真っ黒な怨霊の顔を確認する。
「いきなり突っ込んだ質問ですね。そんなに焦らなくても私は逃げませんよ。ずっとここにいましたからねぇ……」
怨霊は目を細めて言った。
その視線の先には何もない。どこか遠い過去のことを思い出しているような――。
ふとした瞬間、怨霊の視線が羽宮を捉えた。
「さて……問題です。黒か白か、熊か猫か、曖昧な生き物はなーに?」
真っ黒な怨霊が笑みを浮かべた時、羽宮の背筋に冷たいものが走った。
その顔に込められた感情は、これまで自分が見てきた、どんな霊よりも邪で純粋なものだったからだ。
「私はナゾナゾ遊びが好きなんです。誰かと距離を縮めるのに役に立つ。いわばツールですよ。会話の幅を広げるのによく使うんです。考え抜いて答えに至ると、何というか……スッキリとした感覚があるでしょう? 発見や閃きです。相手に考えてもらってから正解してもらうと好印象を持ってもらえる」
羽宮は答えに窮した。
見かねた怨霊が手でパイプ椅子に座るように促した。
「立ったままで話すのもなんでしょう? どうぞお座りになってください。襲われるのかと警戒しているのかもしれませんが、襲う気なら、さっき背中を見せた時に襲ってましたよ。争う気はありません。あくまで話し合いをしたいだけなのです」
またしも笑った。
それが分からない。理解不能だ。
「…………」
相手に促されるまま羽宮はパイプ椅子に腰かけた。
相手から目は離さないし、警戒も決して解かない。不審な動きがあれば即座に距離をとって、ナンブを使う。
「汗を搔いていますね? 額に汗が滲んでいる……。暖房弱めますか? すみませんね。私は冷え性で、暖房を効かせないと寒くて仕方がないのです。おしぼり要ります?」
手慣れた手つきで薄いビニールに入った使い捨てのおしぼりを取り出して、手渡そうとしてきた。
「いや、結構だ」
霊はつまらなそうな顔になると元の場所に戻した。
それから言われもしないのに電子レンジのタイマーを設定して、中身を温め始めた。
「では、何か飲み物はどうです? 喉が乾いたでしょう? お酒は全て捨ててしまったのでアルコールの類はありませんがソフトドリンクならいくらでも……コーラ冷えてますよ? お菓子やおつまみもご用意できますが……どうします?」
どこからかアルミ缶に入ったコーラを取り出した。
アルミ缶の側面には薄っすらと雫が見えたことから、確かにコーラは冷えているらしい。だが、それを飲むわけにはいかない。そもそも異界にあるものを口にするなど誰がどう考えても危ないし禁忌事項だ。
さも気を使ってくれているかのような態度だが、やっている行為は正反対だ。
笑みを浮かべたまま、こちらを陥れようとする素振りには、やはり悍ましさしか感じない。
「御託は結構、さっきのナゾナゾの答えもどうでもいい! はやく、その本題とやら入ったらどうだ?」
またしてもつまらなそうな顔になると、コーラをレジの近くの脇に置く。
背後で電子レンジがオレンジの色の光を灯しながら唸っている。
「そうですか……。警戒しなくても別に毒なんて入っていないのですが……。折角、外から人がやってきたから軽食や飲み物を用意していたのです。まあ、そういうことなら仕方がありません。分かりました。早速、本題に入りましょう」
怨霊はワザとらしく肩をすくめる。
「私がこうして席を設けて話し合いの機会を作ったのは他でもありません。取引のためです」
「取引だと?」
羽宮は思わず訊き返した。
「ええ、羽宮さんのお仕事は霊媒師なのでしょう? 怨霊や悪霊を除霊する命がけのお仕事だ。そこで、私からお願いなのですが、どうでしょう? このまま何もかも忘れて帰って頂けないでしょうか?」
「……なんだと?」
あまりに突拍子のない話に羽宮は目を白黒させる。
「そのままの意味ですよ。お互い何も見なかった、何もなかったことにしませんかって意味です。あなたは何もかも忘れて現実に帰る。私はここいられてハッピー♪ それでいいじゃないですか?」
羽宮は思わず、口を半開きにしたまま固まった。
そしてすぐに怒りの感情を露わにする。
「貴様……!! 俺を馬鹿にしているのか!?」
——何もせずに帰れ。
そう言っているのに等しい。
異界が現実の世界にまで影響を与え、現に霊障を引き起こしている。その霊障を何とかするために、こうして羽宮が怨霊を除霊し、異界を閉じにきた。だというのに、この霊は何もせずに帰れと言っているのである。
舐められている。
そうとしか思えなかった羽宮は思わず椅子から腰を浮かした。
同時、スーツの内側に手を突っ込む。
「焦らずに。説明を最後までさせて下さい」
霊は両手の手のひらを正面に向けて、手を上げた。
制止されるまま、羽宮は浮かした腰を再びパイプ椅子に降ろし、しぶしぶ相手の言葉に耳を傾ける。
「もちろん、異界が現実に影響を与えたことは知っています。ですが、外に影響を与えるつもりがあった訳ではありません。こちらとしては異界の中だけで、内々に準備だけをするつもりだったんですよ。そうでもしないと……ほら、関係のない他の人に迷惑がかかるでしょう? 外に影響が出たのは私にも予想外のことだったんです」
「ほう? 周囲一帯から霊が消えたのはワザとではないと? 白々しいぞ!!」
現実のコンビニの焼け跡から半径数キロに渡って、あらゆる霊が消失していた。どう考えてもこの場所が原因であることは明らかだ。霊力を吸い取って、自分のものにしたとしか考えられない。
「うーん……確かに、すぐに信じろって言われても難しい話かもしれませんね。あれは故意によるものではなかったのは本当ですが、それを証明するような証拠は何もありませんからね。どう説明したものか……。うーん……あっ! 羽宮さんは、長い間、このコンビニがあることに気づかなかったじゃないですか? あれは私たちがひっそりと活動していたからです。もし外に影響を与えようとしたのなら、もっと大々的にやってますよ。だから、故意にやった訳じゃない」
「ふざけたことを……。俺たちに見つかりたくなかったからヒソヒソと身を潜めていたんだろう?」
吐き捨ているように言った。
「あっ……そう言われてしまったら反論の仕様がない。困ったな……」
腕を組んで、顔を歪めた。
考える仕草をした後、霊が口を開く。
「羽宮さんは……異界についてどのくらい御存知ですか?」
いきなり話題が切り変わった。
「話題を変えて、言い逃れしようとするつもりか?」
すぐさま首を振って霊が否定する。
「いやいや、とんでもない! 関係は大ありです。ここの維持には非常に大きなエネルギーが必要なんです。こうして光を灯し続けないと非常に不味いことになる」
霊は一瞬、天井の照明に目を向けた。
その様子を見た羽宮は眉を寄せる。
特に霊の口から発せられたエネルギーという言葉。恐らく呼び方を知らないだけで霊能力者が使う霊力と同列の意味で使っていることは予想できる。
ただし、維持という言葉に関しては別だ。
羽宮が知っている霊能力者界隈で使われる専門用語の中には、維持という言葉に当てはまりそうな概念や単語が見つからなかった。
(……これはチャンスか?)
いかに霊的な治安を守る霊媒師であっても、異界について知っていることはほとんどない。
死力を尽くして異界を閉じるのが関の山。内部に入って調査をする、成り立ちの仕組みを知ろうとする研究行為はほとんど行われてきていない。
内部に入った霊媒師が生きて帰還できれば、それだけで偉業。
異界を閉じることができれば、確実に後世に語り継がれるような実績になると言われているのが霊媒師の世界だ。
だが、もし異界を閉じるだけでなく異界の仕組みについて明らかにすることができたらどうだろうか?
そんな人物が現れたとなれば、自分の名は日本中に轟くことになるだろう。それだけではない。現役を退いても新たなポストを上層部が用意してくれるかもしれない。富だけでなく名声も地位も手にすることができる。いや、霊媒師の世界において歴史に名を残す偉業だと称えられてもおかしくないだろう。
羽宮は自分に落ち着くように言い聞かせた。
「それで?」
さらなる情報を聞きだすことに決める。
どのみち除霊を確実に行うには相手の本名が知ることが必要になる。そのついでに異界について知ることができるのなら大きな成果だ。
ある意味で、ここで長い期間過ごしてきた怨霊ならば誰よりも異界の仕組みについて詳しいはず。異界にいる怨霊と落ち着いて話し合うことができた霊媒師など過去にいただろうか?
「知っての通り、霊の状態では寿命が限られています。霊となって彷徨っているだけではいずれは成仏する運命……ですが、他に寿命を伸ばす方法は存在してます」
「……近隣の霊の魂を取り込むのか?」
見せてもらったタブレット端末の画面を思い出す。ピン付けされた霊が事故のあったコンビニを中心として円形状に消滅していた。
「それも一つの方法でありますが、あまりに持続性がなさすぎる」
怨霊はニヤリと笑った。
「その方法だと周囲の霊を狩りつくしてしまったらお終いです。霊障を引き起こすことによって、事故を引き起こし、間接的に生きた人間を死亡させることも同様。現実に影響を及ぼせば羽宮さんのような霊媒師が気づくでしょう? なにより、他の人に影響を及ぼすというのが気に食いません。確かに、いくらかはエネルギーを奪い取りましたが、それだって意図せずにやってしまったことですし、全部は奪っていません。そんなことをしたら殺人になってしまいますよ。人を殺すのはよくありません」
顔に笑みを張り付かせたまま続けた。
「では問題です。エネルギーを持続的に生み出す方法とは何でしょう?」
まるでクイズでも出題するような口調だった。
「感情だろう? 強い感情を引き起こして、それをエネルギーとする……」
病沢光博という男は記憶を消されて、何度もここで殺されていた。
彼の記憶が消されていたのは、殺すごとに精神が摩耗し、感情そのものを無くしてしまう恐れがあったからに他ならない。記憶を消すことによって常に新鮮で強い感情を生み出せるよう怨霊が工夫した——少なくとも、羽宮はここに来る前はそう考えていた。
答えを口にした時、「ピンポーン」という効果音が店の中に響いた。
店の店内放送から効果音が流れたのだ。
「正解!! もう一つの手段とは感情による発電です。自家発電といっても差し支えないでしょう」
黒い人差し指が静かに立てられた。
「羽宮さんも御存知だと思いますが、人間の発する恐怖や苦痛、絶望といった強い感情もエネルギーとして回収できます。対象が苦しみ続ければ、事実上無限にエネルギーを得ることも不可能ではありません。ただ、まあ問題なのは発電量の少なさで、正直なところ、寿命の延長と建物の維持だけで精一杯です」
目の前の霊はワザとらしく溜息をついてみせた。
「異界の維持にエネルギーが必要? 異界は霊力の消耗を抑えるために作るものだろう?」
羽宮の知っている知識では、異界とは霊が魂の消耗を抑えるために作るものであって、異界そのものを維持するために霊力を使うものだとは聞いたことがない。
「それは違いますね。確かに素の状態で霊となって彷徨うよりは圧倒的に消耗は抑えられます。ですが、このコンビニの維持をするのもエネルギーを常に消費するので、素の状態と変わりありません。それに厳密に言ってしまえば、異界という表現にも齟齬があります」
「齟齬? どこがだ?」
「羽宮さんはこの世界そのものが私によって作り出されたものだと思われているのかもしれませんが、実際には違います。厳密に言えば、敷地を間借しているといった方が正しいかもしれません。土地を借りてコンビニを建てた。元から真っ暗な異界があって、そこにコンビニが建てたようなイマージですね。ですので、敷地の外にはいけませんし、行ったこともありません。私がこうして無事に存在していられるのも、生み出した霊力で光を灯しているおかげです。店の灯りと外の電飾看板。その2つですね。この灯りを点灯させ続けることが家賃ってな具合です」
自動ドアの方に顔を向け、霊は目を細めた。
その視線の先には駐車場にある電飾看板へと向けられている。
「……光?」
「ええ、決して絶やしてはいけません。光が弱まると闇に呑み込まれます。そうなれば無事ではいられません。意識を向けないと分からないと思いますが、外に出て暗闇に近づくと分かるんです。何かの気配が常に敷地を取り囲んでいる。以前、灯りが消えそうになった時がありました。その時は——いや、話は止めておきましょう。思い出したくもありません」
ゴホゴホと痰が詰まったような咳をした。
「失礼。なにぶん声帯が焼けていて喉が細くて。それで……そう。発電だ。エネルギーの発電には——」
「待て。それよりトイレの中にあったアレは何だ?」
聞きたいことはたくさんあった。
だが、最優先はこの怨霊が何者であるかを確かめることにある。目の前にいるのが容疑者なのかそれとも被害者なのか、まずは身の安全を確保する意味でも確認する必要があった。
羽宮が言葉を遮った途端、霊は笑い始めた。
最初は「ククク」という押し殺したような笑い声だった。だが、すぐに堪えきれなかったのか口を大きく開けて笑い始めた。爆笑という言葉が似合いそうな大笑いで、しまいには体を後ろに仰け反らせ、腹を抱えた。
霊とは対照的に羽宮は真顔でその様子を見つめる。
背筋に走っていた冷たいものが、徐々に広がりを見せ、今では羽宮の全身を包み込んだ。
「そうそう。アレですよ! アレ!! ちょうどそれを話そうとしていたんだ!! あれこそ当店が誇る発電機!!!
笑いが落ち着いた頃、目元の涙を拭いながら話を再開する。
「さっきも言いましたが、外にいる無関係の人を巻き込むのは私のポリシーに反します。ですが……私を殺したクズは別です。簡単な話ですよ。人を殺したのだから殺した分の責任をとってもらっているんです。ほら、よく言うでしょう? ”自分のケツは自分で拭け”って。だから、ああやって責任を取らせているんですよ」
再び、腹を抱えて怨霊は爆笑した。
「…………」
その様子は羽宮は黙って見てることしかできない。
そこからは怨霊の独壇場だった。
肌を通して伝わる感情は異常に強い。これ以上にないくらい強い。
伝番する感情は怒りと喜びという二つ感情が入り混じった、これまでに羽宮が経験したことのない感情。その激烈な感情が自分の意思とは別に湧き上がってしまう。
――気分が悪い。
「初めて異界にきた時は訳が分からなかった。死んだと思ったら、同じくコンビニの中で死んだはずの他の二人も一緒だったんだからな。混乱しながらも、俺はすぐにアイツの胸倉を掴んで聞いてやったよ。『なんであんなことをしたんだ』ってな。そしたらアイツは何て言ったと思う? 『むしゃくしゃしてやった』って笑いながらぬかしやがった……!!」
興奮気味に早口でまくし立てる。
あまりの剣幕に口を差し挟む間もなく、羽宮は押し黙るしかない。そこに込められた感情はコールタールのようにドロドロとしたものだ。怒りや後悔、殺意、悲哀——それらが混ざり合って真っ黒にどす黒く染まっている。
彼の目には怒りを通り越して殺意の色が浮かんでいた。
が、顔の筋肉は弛緩し、満面の笑みがこぼれている。
「すぐに殺し合いになったさ。目の前に俺を殺したクズがいるんだぞ? 殺さなくてどうする? 当然の権利さ!! なんたって殺されたなんだからな。殺し返して何が悪い?」
かと思えば、今度は笑みが消え去ってトーンダウン。
肩を落とす。
「……でも、殺し合っている最中に問題が起こった。コンビニの電気が消え始めた。そしたら闇が——異界がコンビニを俺たちを襲いにきた。もう駄目だと思ったよ。心底、怖くて死ぬほど怖かった……。でも、気づいたんだ。叫びだしそうなほど恐怖した時、店の明かりが強くなっていることに。強い感情がエネルギーってことに気づいちまった……!! なぜだが、分からないが直感的にそう思った!!」
もう十分だ、と羽宮は椅子から立ち上がって、この場から逃げ去りたい衝動に駆られた。言葉を交わしているだけなのに冷汗が止まらない。今になって気づいた。あの時——トイレの中にあったオブジェクトを見た時、手が震えていたのは、怨霊のあまりの激情に自分が感応してしまったことに。
「だから、俺はアイツを痛めつけた。生きるために必要なことだって自分に言い聞かせながら、何度も何度も何度も——」
その時の光景を思い出したのか、顔に恍惚した表情が浮かぶ。
さらには目元を抑えて、再度、大笑いを始める。
「あの時の奴の顔、羽宮さんにも見てもらいたかったなあ。本当にウケたよ。なんたって『助けてくれ』だの『もう殺してくれ』とか言い出したんだもんな……!! 他人に対して平然とやっておきながら、いざ自分がやられる番になると、あんなことを言い始めたる!!! アッハハハッ!!!!! だから、俺は言ってやったよ。因果応報だって!!!」
目元を抑えていた手を避け、楽しさに満ち溢れた目で羽宮を見た。
「あの男と殺し合っている最中、おれは偶然にも気づいた。魔法のような不思議な力を使えるようになっていることに——」
霊力のことだな、と羽宮は苦々しい思いに駆られる。
羽宮の使う力も霊が使用する力も根本的には同じ霊力が元となっている。霊はしばしば己の霊力を消費して、物を移動させたり音を発生させる。俗にいうポルターガイストである。
「……電話で俺に教えてくれよな? 霊感ってのは『数字で例えるのなら5以上を知識でなく感覚で捉えることに成功した者のことを指す』って。『生まれつき才能がないものが後天的に霊感を身に付けようと思ったら、まずは感覚的な理解から始めなければならない』って言ってたよな。俺は殺し合っている時にハッキリと分かった。自分の魂の形が。自分が何者であるかを——!! 自分が何のために生きていたかを——!! スピリチュアル体験さッ!! 全てを悟ったんだ!!」
大仰な身振り手振りで加えながら、なおも続ける。
そして手をカウンターの上に置かれた缶コーラに向けた。
中身の入ったコーラがカタカタと揺れ始めたかと思うと浮き上がる。手が触れていないにも関わらず、怨霊の手の内に収まった。
その様子を見て、羽宮はますます顔を青くする。
力を蓄えた悪霊や怨霊。
時として悪霊たちの霊力は除霊を試みる霊媒師のそれを軽く上回ることがある。にも関わらず、一部の例外を除いて、霊力を上回る悪霊の除霊を行い、日本の霊的な治安を守ることができるのは、霊媒師たちの技量によるところが大きい。
厳しい修業は元より、時に霊力の宿った神器を使い、時に入念な宗教儀式を行い、時に外国の宗教の流派を取り入れ、時に複数の霊媒師で協力して除霊を行う——。
単に霊力を使うのではなく、それを使いこなす技量があることで、霊媒師は常に悪霊を圧倒し、除霊を敢行してきた。
だが——。
(今、やってのけたのは明らかに――)
羽宮は我が目を疑う。
驚嘆したのは怨霊が霊力を使ったからではない。そうではなくて、羽宮が驚いたのは怨霊が見せた技量の高さに対して。
ほとんどの霊は自分の霊力を武器として使う場合、技量もなにもあったものではない。ただ己の霊力を力任せに振るうことで、人間や物に危害を加えるだけだ。
だが、今しがた目撃したのは破壊行為ではない。
離れた場所から手を触れずに物を引き寄せるなど、技以外の何者でもない。長年、修行を積んだ霊媒師がやったのことで習得できるような域に達している。それを意図も簡単にこの怨霊をやってのけた。悪霊なら缶を吹き飛ばすか、さもなければ缶がそのものが破裂していただろう。
——不味いな……。
ここにきて、羽宮は自分が異界というものを甘く見すぎたことに気づく。
仮に戦闘になった場合、相手は力任せのゴリ押しではなく、霊力を巧に使って襲ってくる可能性が高い。単なる悪霊ならば、羽宮は己の霊力を使って攻撃から身を守ることができるだろう。だが、相手も自分と同等の技量を有しているのならば——。
羽宮が考えている間も、怨霊の口は止まらない。
「ある時、頭の中に答えが浮かんできた……!! アイデアをパッと閃いたんだ……!! 無意識の中から答えが浮かんで、無意識がやれと命じた。その概念が俺の中に生れた時、俺は思った。『生き返るのも不可能じゃない』って。『またあの世界に戻ることができる』って!!」
まるで自分の夢でも語るかのように顔は明るい。
もし彼の顔に皮膚が残っていたのなら、その顔は希望に満ち溢れていたと感じたかもしれない。
「手始めに、まずは俺を殺したクズに責任を取らせることにした。動けないように骨を折って、皮膚を固定して動けないようにした。毎日のように拷問して、アイツの記憶を消し、エネルギーを発電させた!! ——でも駄目だったんだ。コンビニに光を灯す分だけしか賄えない……。生き返るのに必要な分の力を蓄えることができない。だから、おれは自分を殺すことにした」
その笑みは希望と狂気に満ちていた。
「最も効率よくエネルギーを生み出せるのは恐怖と絶望だ。だから、俺は毎回のように記憶を消して、そのたびに自分を襲わせることにした。そう儀式さ……。ルーは俺を襲わせるの役目をキチンと果たしてくれた。とても長かったよ。何度も、殺されてきたことで、ようやく計画を実行するためのエネルギーが溜まるところだった、あとほんの少し、ほんの少しだけあれば必要量に到達する——」
その時、ふっと顔から感情が消える。
「そんな時に、あろうことか、ここきて——またしても問題が起きた」
羽宮の顔をまっすぐに見ながら言った。
「膨大になったエネルギーは異界にのみにとどまらず、外の世界にも影響を与えるようになってしまった。結果として、霊媒師にここを嗅ぎつけられた」
強い視線を一身に受ける。
お前のことだよ、と強い視線を向けられる。
「いつものように記憶がないまま儀式を行っていたら、いきなり鳴るはずのない電話がかかってくるんだ。ルーは死ぬほどビックリしただろうさ。まさか外から電話がかかってくるなんて思うはずがないからな。俺は記憶を失ったままの状態だったから電話に出てしまった」
「それが私か——」
「そうだとも!! 羽宮さんが電話に出た!!」
最初に霊との交信に成功した時、電話での会話という体で話を進めたと説明された。実際には降霊術を行い、霊との交信を成功させたため電子機器は使用していない。
「でも、結果としてこれで良かったよ。記憶を一時的に失ったまま会話をすることができて。嘘のつきようながないから、疑われることなく信用を勝ち取ることができた……!! だから、こうして顔を突き合わせて話し合うことができる」
そこで初めて気づいてしまう。
これまで自分たちは怨霊を除霊するため、病沢という男を利用し、異界に侵入したと思い込んでいた。だが実際には、自分たちが異界に侵入したのではなく、相手に誘い込まれてここに来てしまっていたことに――。
――騙された。
悪い想像はさらに膨らむ。
予め、来ることが分かっていたのなら前もって霊媒師の襲撃に備えることもできたえだろう。先ほど、この怨霊に背を向けてトイレに行った時のように、この怨霊はいつでも羽宮はを殺すことができた。
にも関わらず、それをしなかったのはどうしてだ?
決まっている。
怨霊の口から語られた言葉の中に発電機という言葉があった。
この怨霊は霊媒師を発電機にするつもりなのだ。
さもなければ活かすような真似はしないだろう。
自分が辿るかもしれない最悪な末路を想像した。
強張る体と心。
羽宮は平静を装って口を開く。
「——経緯は分かった。病沢光博よ。それでお前は俺をどうするつもりだ?」
自分の体に走る怖気を抑え込みながら尋ねる。
すると、急に顔から感情が抜け落ち、無表情になる。
「そうそう。それだよ、それ。ちょっと待ってて」
真っ黒な体がレジ台の横をすり抜ける。
「……!?」
ガタリと急に立ち上がった拍子にパイプ椅子が倒れそうになる。
急に動いたことで襲われるのではないかと羽宮は身構えた。思わずスーツの内側に銃のグリップを握り、後ろに飛び上がる立ち上がる。
戦闘態勢に入ろうかという羽宮を無視して、怨霊はズカズカとカウンターのスイングドアを通り抜けた。
黒い体は自動ドアに向かって移動し、コーヒーサーバーの後ろへ姿を消した。
羽宮は自分の心臓がバクバクと早く脈を撃つのを感じた。現実のバイタルサインを見れば、きっと脈拍が急に上昇したことが分かるだろう。
羽宮の心境を他所に、店の中は何かの駆動音が聞こえていた。
誰もが知っている音だ。
コピー機が紙を吐き出す音。
店のコピー機が一人で動き出し、何かを印刷している。
霊がカウンターに戻ってきた時、手には一枚の紙が。
元のようにスイングドアを通り抜け、パイプ椅子に腰かけた羽宮の正面に戻ってくると、手に持った一枚の紙を手の内で反転させ、カウンターの上に置いた。
「この契約書にサインして欲しいんですよ」
差し出された書類。
契約書?
——これは一体なんだ?
それを目にした時、羽宮は口を噤んだ。
確かにそこには文字が印刷されており、契約書の名の通り、形式が整ったものではある。
文書の内容を示すタイトル、前文、本文、後文、氏名を記入すべきサイン欄——一目見れば確かに契約書であると分かる構成だ。
問題なのは文字である。
文章に使用されていた文字は、およそ羽宮がこれまでに目にしてきた、いかなる言語とも似つかないものだった。幾何学的で左右対称の文字と思わしきものもあれば、曲線が多用された文字と思わしきものもある。唯一、羽宮に理解できたのは数字とアルファベットだけである。日本語は一切使われていない。
羽宮は仕事柄、数カ国語に及ぶ外国語を目にする機会が多い。
英語は元より、ラテン語、ヘブライ語、ヒンディー語と多岐にわたり、日本の霊媒師なら古語とチベット語は必修。羽宮自身、そういった言語に対して造形が深い。
だが、目の前にある文字は羽宮でさえ分からない。
もし羽宮がベトナム語を目にしたのなら、羽宮は文字は読めずとも、ベトナム語であることは分かるだろう。しかしながら、これは文字が読めないとかそういったレベルの話ではなく、言語とすら思えなかった。
(この文字は一体……?)
答えを求めるように、手元の契約書から顔をあげ、怨霊の顔を見た。
「そこにある通り、サインさえして頂ければ羽宮さんの記憶は消えます。現実に帰った時には、ここであったことは忘れ、数十時間ほどでこの異界も無くなるでしょう。お互いに争い合うこともなく、お互いの目的を果たせます。平和的に」
「そこにある通りだと? こんな字読めるか?!」
カウンターの上で契約書を怨霊に向かって押し出すようにスライドさせようとした。
「もっとよくみて下さい。きっと読める」
黒い手が伸びた。
押し出そうとした契約書を抑えつける。
言われるまま、渋々、契約書に目を落とした。
数字意外に知っている文字はない。
目を凝らし、他に羽宮が知っていそうな文字はないか探す。が、やはり知っている言語はなく、とても読めたものではなかった。
羽宮は首を横に振って、再び契約書から目を逸らそうとした。しかし——
「——ッ! 読める!? 馬鹿な……」
紙に印字された未知の文字を眺めた時、突如として頭の中にイメージが湧き上がる。
知っているはずのない未知の言語。
読んだ訳ではないのに、文字を見るだけで自然とイメージが湧き上がったのだ。まるで日本語を読んだ時に、その時の情景が思い浮かぶかの如く。
カウンターの上に置かれた契約書を奪い取るように掴み取る。
「た、確かに……書かれている……!! お前の言った通りに、しかしこれは——」
気持ちの悪い感覚だった。
知っているはずのない知識が頭の中に流れ込んでくる感覚は、まるで強制的に頭の中に知識や記憶を流し込まれているようだ。車酔いや二日酔いを起こした時のように脳がグルグルと回るような酩酊感に襲われる。
しかし、分かってしまう。
目の前の怨霊が言っていたとと同様のことが契約書に書かれていることに。
大まかかに記されていた契約の内容はこうだ。
一、羽宮は記憶を全て忘れ、現世に帰ること。記憶の忘却は現世に帰る直前で実行される。
二、怨霊は期限までに異界を閉鎖し、去らねばならない。
三、契約締結後、一項および二項が実行される過程で両者はお互いの生命を尊重し、不利益を働く行為を行ってはならない。
読んでいないにも関わらず、頭の中で知識が浮かび、目の前の霊が言っていることが噓偽りのない事実であることに納得できてしまう。
「でしょう? お互いに不利益はないでしょう? 現世に戻ったら、あなたここであったことを全て忘れます。あなたがいなくなった後、私も異界から自ずと消えて無くなるでしょう。これでお互いの目的は達成され、争い合い必要はなくなります。ですから、どうかサインを」
もう一度、睨みつけるように怨霊の目を見る。
(……悪い話ではない)
怨霊が言ったことに嘘偽りはない。
それは契約書に書かれている通り——いや、確信できる。原理や法則は分からない。言い知れぬ感覚が契約書に噓偽りがないことを証明していた。分かるのだ。定着した未知の知識がすでに羽宮の頭の中で稼働している。恐らくサインしたら、契約書に書かれているように自分の記憶はなくなり異界も消え去るだろう、と。
(サインをすれば身の安全は保証される。ここでの記憶はなくなるだろうが……まあ、自分の身を守って帰るのなら、それも悪くない条件だ)
ハッキリと言ってしまえば、当初の予想よりも自分たちはかなり不利な立場に置かれている。羽宮たちが武器を持参してきたように、怨霊もまた自分たちと同じように戦うための準備を整えているはずだ。
いくら怨霊と戦う準備を万全に整えていたとしても、自分が戦いの末、死んでしまうことは決して少なくない確率で起こりえることだ。
一方でサインをして怨霊の要求を呑めば、自分たちは無事に現世に帰れるうえ、目的である異界は消滅する。当初の目的を何のリスクも犯さずに達成できるのだ。そう、何のリスクもなく——。
(何のリスクもなく……か。言葉通りならそうだが、何かしら裏があるに決まっている)
話がうますぎる、と羽根は契約書から目を上げた。
「契約書の内容は理解した。だが、サインすることはできない」
なぜです、と怨霊に問われる。
「動機が理解できない。貴様の言ったとおりなら、そもそも俺をここに入れなかったはずだ。なぜ、俺を中に入れた? それになぜ記憶を消す必要がある?」
「もっともな疑問ですね。それに対する答えは……簡単に言ってしまえば儀式だからです」
「……儀式だと?」
儀式という言葉は案外、霊媒師にとっては馴染みのあることではある。しかし、相手は霊である。何も知らない一般人だった人間の霊から儀式という言葉が出てくること自体が異常だ。
「ええ、そうです。私が生き返るための儀式ですよ。儀式を成功させれば私は生き返ることができる。しかし、そのためには条件を2つ……満たさなくてはいけません」
口を固く閉じながら羽宮は耳を傾ける。
決して「不可能だ」などと口を挟むことなどしない。
(狂っている……)
死んだ者は生き返らない。
それは絶対である。この怨霊が狂ってしまったためなのか、それともそう思わないと正気を保てないのかは分からない。ただ一つ分かることは死んだ者は生き返らないという絶対的なルールが世に存在しているということだ。
秦の始皇帝しかり、古代エジプトのファラオしかり、最期には、時のどの権力者も自分の命を惜しむものだ。あれだけ大がかりな宗教儀式を行っても、生き返った人間は誰一人いない。そのことからも分かる通り、それが抗いようのない自然摂理——ルールなのだ。
「一つ目は先ほど説明した通り、莫大なエネルギーが必要なこと。そして二つ目は私の存在を誰にも認識されないことです」
冷ややかな目で羽宮は怨霊を見る。
その儀式とやらの失敗は確定している。
仮に集まった霊力を使っても儀式は成功することはないだろう。もし、失敗したとなればこの霊は今度こそ正気を保てず、周囲のことなどお構いなしに暴れだすかもしれない。
「羽宮さんが私の存在に気づいてしまった時点で、儀式の条件を満たせなくなってしまった。だからこそ、あなたには異界に来てもらい、記憶を忘れて現世に帰ってもらう必要があるのです。これが理由です。お分かり頂けましたか?」
うむ、と羽宮は悩まし気に唸った。
——馬鹿な男だ。サインなんてする訳ないだろう?
すでに羽宮の中では方針が決まりつつあった。
「分かった、と言いたいところだが、この条件ではサインする訳にはいかない」
「何がご不満な点でも?」
「ああ、あるとも。こっちは念入りに準備してここに来たんだ。命がけの仕事だぞ? それが何もなくて帰るというのはあまりに実入りが少なすぎる。割に合わないのだよ」
トントンと契約書を叩く。
「なるほど……。しかし、困りましたね。お金で解決できる問題ではありませんし——」
困ったような顔になる。
「そこで契約書にサインする前に条件を追加したい」
相手から反論がないことを確認して、羽宮は続ける。
「現世に帰る前に、ここの成り立ちについて聞きたい。どのような過程で異界ができたのか。ここで何があったのか。どうして儀式をするようになったのか——まあ、いろいろだ。可能な限りでいい。こちらとしては異界についての知識を現世に持ち帰ることで良しとしよう。異界についての見識を深めることができれば、ほかの異界が発生した時に役に立つだろう。それすらもできないとなれば割に合わない。サインはなしだ」
怨霊は意外そうな顔になる。
それを確認してから羽宮は続けた。
「もちろん、現世に帰ってからもその知識だけは記憶に残るようにして欲しい」
怨霊は羽宮の言葉を聞いてから、軽く頷く。
「分かりました。私の存在を認知できない程度の知識は残すように条項を追加しておきましょう」
契約書に手を添えた。
真っ黒な手。
かざされた契約を上から撫でるように左から右に動かした。
真っ白な印刷用紙に書かれた文字がバラバラに動く。
小さな虫が紙の上を這いまわるように文字が移動し、空いたスペースに新たな文字が浮かび上がる。
「確認を」
差し出された契約書を確認する。
意味不明の文字を見た時、それが噓偽りでないことを理解した。
「確認した。確かに条件が追加されている。そうしたら、今度はお前の番だ。お前が知っていることに教えてもらおう」
契約を締結する前に、病沢の口から様々なことが語られ始めた。
事故があった日に起きたこと、当日の状況、各自の死因、異界が発生した時について、異界でこれまでどのように過ごしたのか――。
長い長い大晦日の夜は続く。
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