第19話.末日②


「あんなことを言われたら断れる訳ないだろ!!」


 結局、大樹に辿り着いてからグレイからの誘いを承諾してしまった。


 死期が迫る友人の願い。

 断り切ることもできずにノウマンは頷いてしまった。

 だが、返事をしてしまった後でジワジワと焦りのような感覚が心の中から這い出てきてしまったのだ。恐らく、参加を承諾したことは倫理的には正しい判断だったはず。それは分かっているのだが、参加を承諾した瞬間から、本当にこれで良かったのだろうかと迷いが生れてしまう。


(クッソ、これでいい!! これでいいに決まっているだろ!! ナイトさんの最後のお願いだぞ? 聞いてやるのが友達ってもんだろ!!)


 ジャケットのポケットの中に突っ込んだ両手をギュッと固く握る。

 病沢は義理や人情を重んじる性格ではない。

 それでも最低限の倫理や感情は持ち合わせている。この場合は、何としてでも大会への参加を承諾するというのが人間として正しい判断のはずだ。だが、頭の中の利己的な部分が「それはよしておけ」と肩を叩いている。


(今からでも断った方がいいのか……? いや、しかし……)


 大会に参加するとなると、確実に仕事を休まなくてはならない。

 代替可能な社会の歯車たる病沢は——最悪、会社から仕事を打ち切られてしまうかもしれない。


 今の安定した暮らし。

 決して豊かではないが、貧しいながらも生活を営めているのは事実である。今の仕事がなくなったらアパートの家賃や年金や健康保険料、介護保険料は支払えるだけの収入が無くなってしまう。そうなれば、これから先どうなる? このまま社会で生きていけるのだろうか?


 そんなことを考えてしまう——いや、仕事か仲間かという葛藤を抱いてしまった自分自身に嫌悪感すら抱いている。あまつさえ約束をした後にも関わらず、この期におよんで自己保身に走ろうとする自分が心の中にいるのだ。


 参加を承諾した瞬間から、ノウマンは押し黙ってしまった。

 ナイトとグレイが会話を弾ませる一方、ノウマンは沈黙することになってしまう。


 気持ちの整理がつかなかったのだ。


 だが、新年を祝う花火の打ち上げが始まる直前、ちょうどグレイが年越し蕎麦の話題を切り出した時、ノウマンはなぜか蕎麦を買い忘れたことを思い出した。

 これ幸いとコンビニ行くことを理由にゲームからログアウト。こうしてコンビニにカップ麺を買いに行くという名目の元、気持ちの整理をつけるための時間を作ったのだ。


「はあ……」


 この日、何度目か分からない溜息をつく。

 仕事のこと、上司のこと、大会のこと、グッドナイトのこと、グレイのこと——いろんな考えが浮かんでは頭の中で消えていく。


 寒さに体を震わせながら、歩道を歩いていると、ふと耳障りな音が聞こえてきた。

 除夜の鐘が鳴るのを待ちわびる静寂な夜。それを無粋にも、どかの馬鹿がバイクを乗り回し、改造マフラーから汚い爆音をひねり出しているのだ。信じられないことに電動式のバイクではなくガソリン式のバイクである。


 病沢は思わず眉間に皺を寄せて苦笑いした。

 別段、バイクに乗るが悪いことだとは思わない。何に乗ろうが本人の勝手であり、病沢が関与すべき問題ではないからだ。ただし、それは他人に迷惑をかけないことが前提である。迷惑。そう迷惑だ。


(迷惑か……。俺が仕事を辞めても誰も困らないだろうなあ)


 労働者は社会の歯車である。

 機械と同じく、古くなったり摩耗して使えなくなったら交換してしまえばいい代替できる都合のいい存在。低賃金労働者だけではない。政府は外国から奴隷を輸入したり、児童労働を解禁したりと労働力の確保にやっきになっている。


(仮に俺が仕事を辞めたとしても、他の誰かがそこに入ってくるだけ……。誰も困りはしないし、俺のことなんて誰も必要とはしないだろう。でも、ゲームの中の世界でも、自分のことを必要としてくれる友達がいるなら——そっちを優先してもいいかな)


 一応の結論はそれだった。


 ジャリリ、ジャリリと音が鳴る。

 足の裏でアスファルトの礫が砕け散り、夜の帳を抜けて、彼はやってきた。


 それまでほとんど見えることがなかった己の足元が見えた。

 下を向いてあれこれと考えながら歩ていた時、ふいに明るい場所に出たのだ――。


「早いな。もう到着か……」


 考え事をしていたら、時間はあっという間だった。

 目の前にはお馴染みのコンビニエンスストアが見えた。名前に反して年中無休24時間営業している近所のコンビニだ。

 見上げれば、このコンビニの電飾看板が光り輝いている。

 一瞬も絶えることなく、電気の明かりが大晦日の夜を照らしていた。その背後の空には真冬の澄み切った空気のなかで星々が瞬いている。


 病沢は正面に目を戻した。

 折角だからと、ポケットからスマートフォンを取り出す。歩道からコンビニの写真を撮り、


『コンビニなう。今から年越しそば買っちゃいます!!』


 とだけ、写真つきで投稿。


 普段ならコンビニの写真などわざわざ投稿したりしない。

 だが、SNSの投稿がなかったら、途中でOOをログアウトしたことをナイトやグレイに不審に思われてしまうかもしれない。特にナイトはこうういったことに目敏い。


 彼のことだ。

 花火を見る前に途中抜けしたもの何かしら気まずくなって抜けたということも薄々は察しているだろう。それをあえて指摘しなかったのは、大人としての器の大きさか、それとも重い話を切り出してしまったことに負い目を感じてしまったからか――。


 スマホをポケットに入れると、病沢はだだっ広い駐車場を歩いて、店を目指す。

 目の前に広がるコンビニの駐車場はやたら広く感じられた。

 10台以上の車を余裕で駐車できるだけのスペースがある。店舗の敷地面積よりも駐車場が占める面積の方が広い。田舎特有のやたら駐車場だけが広いコンビニだ。


 いつもなら何台もの車や自転車が停めてあるのだが、さすがに大晦日であるせいか一台も車が停まっていない。代わりに、専用に設けられた駐輪スペースには、クリーム色のフレームが特徴的な自転車が一台だけ停めてあった。


 靴の裏に砕けたアスファルトの礫の感触が伝わる。ボロボロになったアスファルトが剥げかかっているようだ。


 それから——


「おい!! やめろと言っているだろ!!」


 駐車場に怒鳴り声が響いた。

 何事だ、と病沢は駐車場の半ばあたりで思わず足を止めた。


 大晦日の夜の静けさを切り裂くように言い争う声が聞こえる。

 声のする方向に目を向ければ、自動ドアの入口付近で、派手な装飾が施されたバイクに跨る男の姿があった。

 かなり大きなバイクだ。バイクに乗る男が相対的に小さく見える。

 傍らには店員と思わしき壮年の男性。

 店員の男性は顔を真っ赤に紅潮させながら、バイクの男に怒鳴っている。


「店の前でタバコなんて吸うんじゃない。他のお客さんに迷惑だろ!!」


 その一言でおおよその事情は想像がついた。

 目を細めてバイクの男をみれば、口元に赤い点が見える。


 病沢の想像通り、男はバイクに跨ったままタバコを——それも驚いたことに電子タバコではなく紙タバコを吸ってるのだ。


 今や公共施設や飲食店はゆうに及ばず、人気のない屋外であっても喫煙が著しく制限されるのが昨今の喫煙事情である。

 まして、その価格は昔と比べて値上がりする一方であり、レトロ感のある紙たばこに至っては一箱で2000円以上する高級嗜好品。 

 コンビニでも電子タバコのカートリッジと主軸に、紙たばこの販売も行っているが現在ではむしろ取り扱う店舗は減少傾向にある。


 というのも犯罪率の増加に従い、しばしばコンビニ強盗が発生するようになったという背景がある。

 強盗の目的はタバコだ。

 昔ならいざ知らず、今は現金を取り扱うことの方が少なくなった。そのため、そもそもレジには最低限の金しか入っておらず、強盗に入ったとしても実入りが少ない。


 そこで強盗や半グレたちが目をつけたのがタバコである。

 

 嵩張らない。

 需要も常にある。

 換金性も高い。

 一年程度は保存が効く。


 特に価値の保存性は重要だ。

 直近の数値で、現在の日本の物価上昇率は5パーセント。利率のほとんどつかないネット銀行に預け入れるよりも、タバコに換金して持っていたほうが価値の保存が効く。仮に百万円あったとしたら、一年後には実質5万円の減だ。

 再び、日本円に戻したければフリマアプリに出品すればいい。 

 末端価格——店で販売されている相場よりも安い価格でカートリッジや紙たばこが売買されている。大抵の場合はすぐに売れる。


 そのような背景もあって、昨今、コンビニであっても、防犯性の観点からタバコを扱うことは少なくなった。

 だが、それは都市部での話であり、高齢者が多い地方では未だに取り扱っている店舗が多い。


「おい!! 聞いているのか!?」


 店員が再度、怒鳴る。

 しかし、肝心の男は合法麻薬と名高いニコチンを堂々と店の前でキメるばかりだった。今の時代なら副流煙による器物損壊、あるいは店の営業を妨害したと訴えられてもおかしくはないだろう。


 まともな社会人——いや学生や子供でも常識を持っていれば、仕事や信用を失いたくもないため、このような行動に出ることはないだろう。


 それでも男は怒鳴り声に微動だにしないのを見る限り、何も失うものがない持たざる人というような気がした。


 病沢は遠目に二人の様子を窺った。

 コンビニ制服姿で怒鳴る年配の男性。頭が剥げかかっており、バーコード剥げの間からはツルツルとした頭皮が見え隠れしている。わずかに脂ぎった頭は店の中から差し込む光を受けて、テカテカと光を反射している。


 一方で、へらへらとする訳でもなく無言でタバコをふかすのは茶髪の男だ。

 店の自動ドアの正面近くに、バイクのスタンドを下して停車させている。そこに跨いだままタバコを吸っていた。


 いかにもガラの悪そうな男だった。

 病沢のような小心者が関わりたくない部類の人間であることは一目で分かった。

 ボサボサの茶髪とピアス。男が残っているバイクは普通のバイクではなく座席が異様に縦に長かったり、派手な色使いをした塗装が目につく。 


 どうしたものか、と病沢は悩んだ。

 このまま歩いていってトラブルに巻き込まれるのは御免だ。貴重な休み、まして大晦日の夜に自分の貴重な時間を取られたくはない。ただでさえ、さきほど見てしまった上司からの着信履歴で気が重くなっているのだ。これ以上、胃を痛くしたくはない。


 病沢が悩んでいる間にも、動きがあった。

 コンビニ店員が「勝手にしろ」と吐き捨てるように言ったのだ。

 それを最後に彼は店の裏側へと歩いて行ってしまう。どうやら店員は彼に喫煙を止めさせることは諦め、家路につくようだった。


 病沢は家に帰るべきか迷った。

 トラブルに巻き込まれるのは願い下げだ。

 しかし、あの柄の悪い茶髪の男に絡まれるのが嫌で家に帰ったのでは、寒い中、何のためにアパートから外に出たのか分からない。第一、あんな奴のせいで自分が我慢しなければならないというのは納得しかねた。


 病沢は覚悟を決めて自動ドアに向かって歩き始めた。

 店の入口付近でタバコを吸う不良。

 それを見えない存在——つまりは透明な存在として自分の中で扱うことを決める。


 病沢は目を逸らしながら、駐車場を歩く。

 駐車場の消えかかった白線、店舗への乗用車衝突防止のためU字型ポール、窓から見えるブックラックの裏側、外に設置されたカラフルな連結ゴミ箱、窓ガラスには貼り付けられたポスターにはNo Smoking の文字が踊っている。

 

 自動ドアの入口付近まできた時、病沢はつい横目で茶髪の男の様子を窺ってしまう。

 ちょうどタバコを吸い終えたらしく、手慣れた手つきで地面に吸い殻を落とした。そしてブーツでタバコ吸い殻の火を踏み消す。


 真冬の冷たい空気に乗って、ヤニの臭いが鼻腔に漂ってきた。

 それだけではない。

 空気を吸い込んだ瞬間、別の臭いが混じっていること気づく。

 アルコール。

 酒臭い匂いが、ヤニ臭さの中に混じっていたのだ。


(コイツ……飲酒運転かよ!!)


 ここまで来ると逆に驚いてしまう。

 驚きのあまり、反射的に男の方を見ようとしてしまった。その衝動を咄嗟に抑えようとしたが、我慢できず、つい顔を動かしてしまい、一瞬だけ男と目が合った。


 意外にも茶髪の男は若者とは言い難い相貌だった。

 顔の皮膚には若々しさがなく、皺が見える。

 高齢社会の日本でも、おおよそ若者と分類するには疑問符のつくような年齢の人物である。かといとって年寄りとして扱うには若すぎる。いわば中年期に入った男性のように見えた。年齢相応の落ち着きがないだけで、ひょっとしたら自分と近い年齢かもしれない。


 冷や汗が背中から出るのを感じた。

 煙とアルコールの匂いを遮断するように、息をグッと止めて目を逸らす。

 幸い、男に絡まれる気配はない——。


 病沢は無言で男のすぐ横を通り過ぎようとした。

 詰めていた息をホッとするように吐き出そうとした。

 だが、気を抜きかけたその時、バイクのボディに貼り付けられたステッカーが目に映る。


 有二虎ン。


 その当て字の読み方は、すぐには分からなかった。

 ベターな”夜露死苦”とか”走死走愛”といった当て字ではない。


る……? いや、ゆうか? ンはそのまま読むとして…… ゆうとらン?)


 自動ドアが開いた時、およそ正しいと思われる読み方を閃いてしまった。 

 純白のバイクのボディ、前方に取り付けられたよく分からない棒状の金属の出っ張り、白い翼のステッカー……。

 見ようによっては動物の角ようなものに見えなくもないが——あっ……ユニコーン。


「ブフッ——」


 無事に茶髪の男の横を通り抜け、気が抜けた時にやられた。

 緊張が峠を通り越し、あまつさえ安心しきっていた時に、”ユニコーン”はインパクトがありすぎた。

 唐突な不意打ち。

 詰めていた息を吐き出すつもりだったのに、勢いあまって吹き出してしまった。


——まずい。


 吹き出してから、慌てて口を閉じる。

 後ろが怖くて振り向けなかった。

 祈るような気持ちで店内へと足を早める。

 自動ドアが閉まった時、背後から——チッという舌打ちが聞こえた。


「いらっしゃいませー」


 店の入店音と店員の声が病沢を出迎える。

 体の中を通して、ドキドキと心臓の鼓動が体を通して聞こえてきた。

 平静を装いながらカゴを見つける。

 それを手に取ると、店の中に素早く目を走らせた。


 店内にいるのは小柄な若い女性の店員のみ。

 頼りになりそうな男性の姿はない。

 天井には防犯カメラがあるため、襲われたり暴力を振られても証拠は残すことができそうだ。


 防犯ミラーを確認して店の外の様子を窺う。 

 幸い、茶髪の男は病沢に絡んでくる気配はない。バイクにまだがっている姿が鏡で確認できた。


 身を隠すように、店の奥——冷凍食品とアイスクリームが保存されている冷凍庫まで来てから、羽宮はダウンジャケットの前を開けた。嫌な汗を掻いてしまった、と。


(しばらく時間を潰すか……)


 カップ麺を買うだけならば、ものの3分もかかるまい。

 だが、ビニール袋を引っ提げて自動ドアの入口から出た途端、あの男に絡まれるような気がした。外は氷点下。いくらバイクスーツに身を包んだといっても、完全に冷気を遮断することはできない。彼がいなくなるのも時間の問題だろう。こちらは暖かい店の中で、ほんの少しばかり時間を潰せばいい。男が立ち去るまでは、コンビニの中で時間を潰すのが無難か——。 


 病沢は時間つぶしに店の中の商品をゆっくりと見て回ることに決める。

 気になるような雑誌があれば立ち読みをしたり、普段買い物をするスーパーには売っていないような珍しい商品を探したりしていれば自然と時間は経過するだろう。

 

 時間を潰す病沢は、狭い通路で店員とすれ違った。

 すれ違った瞬間、眠そうなあくびを噛み殺しているような表情を確認した。

 よほど疲れているようだ。無理もない。

 本当なら同い年の友人と一緒に除夜の鐘を鳴らしたり、家でゆっくりとしているのが普通だろう。にも関わらず、深夜にコンビニで働いている。


 最近、こうした若い人たちを見る度に病沢の心中は複雑な思いにかられる。

 自分も決して裕福とはいえないような独居老人まっしぐらの独身男性である。だからこそ、自分と同じ過ちは犯して欲しくない。

 働くのはもちろん大切なことだ。

 老人になってからの一万円と若い時の一万円の価値が違うというのも分かっている。だが、若い時にしかできないことがあるのも確かなのだ。できれば、友人と遊んだり恋愛に励んだりと若い時にしかできないことをやって欲しい。


——今の日本は余裕がなさすぎる……。


 病沢は顔を曇らせた。

 力のない自分が若い人にできることなどない。ならばせめて、若い人の足を引っ張らないように気を遣うのが精一杯だ。


 思索にふける病沢を現実に引き戻したのはエンジンの音だった。

 振り返ってみれば、あの茶髪の男がバイクのエンジンをかけているのが見える。店の中にいるというのに馬鹿うるさい排気音がここまで聞こえてきた。


——そろそろいなくなる頃合いか。


 病沢はコンビニに来た目的を果たすべく、カップ麺のコーナーへと進むと、お目当てのカップ麺をカゴの中に入れた。


(蕎麦だけだと味気ないな。ほかにも何か買っていくか……)


 スープの塩っ気を思い出し、喉が渇くだろうことを予見した。

 それに明日からはネットの友人と共にゲームに明け暮れると予定が決まっている。食料は冷蔵庫の中にあるとはいえ、お菓子やジュースはない。どうせならゲームをしながら簡単に摘まめるようなお菓子やジュースも一緒に買っていくべきだ。


「やっぱりコーラだよな。ペットボトルじゃなくて缶が一番旨い……」

 

 ドリンクコーナーにはペットボトルと缶に入ったコーラの両方が冷やされていた。内容量はどちらも変わらない500mlであるが、缶に入ったコーラの方が圧倒的に美味しい。理由は分からないが缶の方が際立ってコーラが美味しく感じるのだ。


 それに嫌な汗を掻いてしまったせいで喉が渇いている。家に帰ってから一本空けるのも悪くないだろう。ここは暖房が効きすぎている。早く、家に帰ってコーラをがぶ飲みしたい――。


 冷蔵庫のドアを開けて、何本かコーラ缶を買い物カゴに入れていく。他にもソフトドリンクやチューハイ缶といったものが売られているが、コーラ以外に浮気をするつもりはない。手がべたつかないお菓子をいくつか手に取ってから、レジ台の上に買い物カゴを乗せた。


「ふむ……」


 病沢はチラリと自動ドアのある方向を見た。それなりに時間をかけて買い物をしたつもりだったがトイレから店員が戻ってくる様子はない。


——暇だな。

 

 自動ドアがある方向に目を向ければ、バイクが今まさにバイクが走り出そうとしているところだ。   

 

——ぶおおん、ぶおおおん。


 ユニコーンの不快ないななきが聞こえてくる。

 外に出れば耳を塞ぎたくなることだろう。


(店員さん遅いな……)


 手持無沙汰で待つのは暇だった。

 少しでも店員さんの手間を省こうと商品のバーコードがある面を上にして並べる。

 が、それが終われば、本格的にやることがなくなってしまった。こんなにも時間を持て余すのなら、雑誌でも立ち読みしていればよかった。かといって、今から立ち読みをするために雑誌コーナーに戻る気にもなれない——


(ネットで暇つぶしでもするか……って、もうこんな時間か)


 病沢がポケットからスマートフォンを取り出して画面を見た時、12月31日23時55分という数字が目に飛び込んでくる。気づけば新年が目前に迫っていた。店員が戻ってくる頃には新年を迎えていることだろう。


 ブックマークしてあるサイトを閲覧しようと、画面を指でタップした。閲覧するサイトはTD の攻略wikiである。トップページに飛んだ瞬間、ニューイヤーイベントの告知が掲示され、新フィールドと新たな職業、新種族が追加されるらしい。

 

 イベントの内容に目を引かれた病沢は、はやる気持ちで画面をスライドさせた。


 TDでは、レベルシステムというものを採用していない。

 化物の場合、スキルとは別に形質タレントを獲得して強くなっていくシステムがある。同じ化物でもステータスに違いが出たり、使えるスキルに違いがあるのはそのためだ。

 

 ざっくり記事を読むが、拡張パックの発売は来年らしい。

 正月休みに発売されないのが惜しいところが、正月は正月で経験値倍増イベントが発生する


「明日からは経験値が倍? これはお得なイベ——」


 目の前が真っ白になった。

 何事かと思って、そちらを振り返れば外から強い光が差し込んでいる。


「うおっ、眩しい」


 咄嗟に片手をおでこの前に持っていき手庇てびさしをつくる。

 疲労した目が痛みを訴え、病沢はぎゅっと目を瞑った。

 

 病沢が瞼を開けた時だった。

 店の中に轟音が響き渡った。硬質な何が砕け散る鋭い音が聞こえた途端、猛獣が唸るような爆音が病沢の体に打ち付ける。あまりの音の大きさに病沢はギョッとし、手に持っていたスマートフォンを手から落とした。


 ——えっ。


 世界が回転した。

 目の前が真っ白になったかと思えば、体に強い衝撃が走り、天井が見えた。

 二重三重に天井のジプトーンが回転している。

 遅れてやってくる鈍痛と朦朧とする意識。

 自分が床に倒れていることに気づいたのは、二重に見えていた照明が一つに合わさって、目の焦点が戻った頃だ。


(…………?)


 体を起こそうとした時だった。起き上がらない。体が重くて動かないというよりは、そもそも感覚そのものが薄れている。長い間、正座をした後、足が痺れて力が入らなくなるような感覚に似ている。全く感覚がないというわけではないが自分の意思に反して自由が効かない。


 首だけを動かして周囲の様子を伺う。店内は無茶苦茶だった。

 商品を陳列している棚がズレて、お菓子やパンが散乱。

 レジのカウンターに置いてあった500mlのコーラ缶が床で音もなく転がる。ゴロゴロと回転しながら、やがて近くの棚に当たって停止した。


 先ほどまで自分が立ってた場所には大きな塊が転がっている。


 バイクだった。

 入店する前に見たバイク——もといユニコーン号が先ほどまで病沢が立っていた場所に横倒しになっている。ボディはひしゃげてパーツが床に散乱し、エンジンからブスブスとした音がして排気ガスとガソリンが入り混じった臭いがした。

 さらには燃料タンクに穴が空き、ツルツルとした床に可燃性の液体が大きな水溜まりを作っていた。タイヤは弱々しく回転を続け、やがて動かなくなった。


「ヒュー……ヒュー……」


 喋ろうしても喉から声が出てこない。

 擦れたような喘鳴だけが笛のような音を鳴らすだけだった。

 頭をあげ、今度は自分の体に目を向けた。


「あ゛ぁ……ぁぁ」


 胸の部分に何かが突き刺ささっている。正体を確かめるように異物に手を伸ばし、両手で触る。金属の棒が動くと、病沢の肉体の内部——内臓が動いた。

 細長い金属の破片のようなものが胸もしくは腹の辺りに刺さっている。本物だった。幻や幻覚の類ではない。金属を触った手を広げて自分の目の前に持ってくる。鮮やかな赤色で染まり、鉄の臭いがする液体が重力に引かれて腕を伝ってくる。


——パキリ、パキリ。


 床に転がっている無数の結晶。

 ガラスが砕けて形成された粒状の物質が、さらに細かく砕かれる音が聞こえた。音がした方向に目を動かす。ビニールで包装されたジャムパンを踏みつける足が見えた。パンの中から真っ赤なジャムが飛び出している。


「ハハッ、ざまあ見やがれってんだっ!!!」


 頭上から聞き覚えのある声が聞こえた。

 目だけを動かして声の主を見る。


 茶髪の男がいた。額から流れ出る流血を手で拭い、上気させた顔を醜く歪ませて笑っていた。呼吸を荒くし、血走った目で店の中をキョロキョロと見回している。


 病沢は助けを求めようとするが声がでない。

 自分の存在に気づいてもらおうと男に向かって弱々しく手を伸ばすも、彼は店の奥へと行ってしまう。 痛みに悶える中、病沢は冷蔵庫のドアを開ける音を聞いた。


——カシュッ。


 ずれた棚の間から男の動きが見える。

 茶髪の男は無造作にビールを取り出すとプルタブを開けて、喉に液体を流し込んだ。一気に内容物を飲み込み、空になったアルミ缶が軽い音を鳴らしてコロコロと床に転がる。男はアルミ缶を踏みつぶした。


 やがて男は病沢が倒れているレジの前から見えない場所へと姿を消した。

 

 男の姿が見えなくなっても何が起きているのかは悲鳴が教えてくれた。


——ドン、ドン。


 女性の叫び声が店の中にひっきりなしに聞こえ、何かを強く殴打する音が聞こえる。茶髪の男の声が「出てこい」と怒鳴る声が聞こえた。幾度、殴打の音が聞こえただろうか。


 だが、ある時を境として女性の悲鳴がより大きくなった。

 ドアが破られたのだろう。


 悲鳴が近づき、くぐもった悲鳴が急にクリアに聞こえるようになった。

 

――やめて!! やめて!!


 絹を裂くような悲鳴と必死に抵抗を試みているであろう物音。

 茶髪の男の動物のような唸り声が聞こえた。


 死に体となって床に倒れ、声がする方向は陳列棚に遮られているため、そこで何が行われているかは分からない。

 ただ一つ確かのは、良からぬことが……とてもつもなく良くないことが起きているということだった。直接目にするのも悍ましい行為が行われようとしている。


――誰か!! 助けて!!


 悲痛な叫び声が店の中に響き渡った。

 その叫びは病沢の朦朧としていた意識を辛うじて現実に引きとどめる。

 

(助けないと……)

 

 深夜のワンオペ状態のコンビニに他の店員はいない。

 大晦日の夜、耳の遠い老人しかいないような住宅街で、わざわざ外に様子を見に来る者はいないだろう。警察や救急隊が到着するのを待つのはいつになるのか――。


 助けを求める声が再び聞こえる。

 今、このコンビニの中で彼女を助けられる存在は死に体となった病沢以外に存在しないのだ。


 悲鳴が一際強くなった。

 病沢は立ち上がろうとする。

 が、力が入らなかった。


 息をするのも苦しい。

 肺に空気を送り込んでも、どこかへ抜けていってしまう。

 まるで陸にいながら溺れているような感覚だ。


 手を床にやり体を起こそうとするが、突き刺さった金属片が病沢を床に縛り付けた。

 

 茶髪の男が奇声を発し、先ほどの何かを叩く音とは別の音が響いてくる。

 

 ゴンッという鈍い音が何度も打ち鳴らされた。

 その音が聞こえてくる度に、泣き声と悲鳴が入り混じった甲高い声が徐々聞こえなくなる。


 天井を見つめる病沢は目だけを動かして、音が聞こえる方向に目をやった。

 天井には血がべったりと飛び散っている。陳列棚の隙間から見える雑誌コーナーの窓ガラスには、何か肉片のようなものが付着している。


 悲鳴はもう聞こえない。


 茶髪の男がレジの前に戻ってくる。

 男の奇行は続いた。

 

 今度はレジカウンターの上に土足でよじ登り、奇声を発したのだ。


——シャッ!! シャッ!! シャッ!!


 茶髪の男はカウンターで上で何度か飛び跳ねた後、今度はタバコを漁り始めた。


 乱暴な仕草でタバコの箱を掴み、一瞥しては床に落としていく。

 お目当ての銘柄を探し当てた男は、タバコの箱を手に持ったまま、元のようにカウンターをよじ登って壊れたバイクの近くに飛び降りた。着地の際、黒いブーツが水溜まりを撥ね、周囲に水滴が飛び散った。

 

「……——ケテ」


 病沢はやっとのことで声を絞りだした。


 足音が近づいてきた。

 目をやれば、声に気づいた茶髪の男が病沢の傍まで近寄り、しゃがみ込んでいた。


 天井の明かりを遮り、黒い影のさした男の真顔が見える。

 目の焦点が合っていない。震えるように目の瞳が揺れ動き——正気ではない。狂っている。

 

 病沢の体に突き刺さった金属片を見ると鼻で笑った。


「何だって? 聞こえねーよ、バァーカ」


 酒臭い息を吐き出しながら、壊れたように腹を抱えて笑い出した。


「そんな目で見やがって!!! 俺を笑いがったッッッ。俺を、俺をおおおおお!!??」


 かと思えば、カウンターの上に鬼のような形相になって腕を叩きつける。

 病沢は、その様子をただ黙って見つめることしかできなかった。


——これは現実のことなのか?


 ほんの数秒前までは、穏やかに日常が続いたのに今は死にかけている。

 すでに体の痛覚が曖昧になり、ダウンジャケットとその下の服が血を吸って重くなっていた。こうして床で仰向けになっている間にも、体から命の流出が止まらない。このままの状態が続けば自分は——。


 ジリジリと体から命が失われていく中、助けを求めようと残った力を振り絞って手足を動かす。無駄だと分かっていても、目の前の怪物から逃げようとしていた。誰かに助けを求めようとしていた。 


 その様子を見た茶髪の男は、さらに大笑いをする。地面でバタバタと手足を動かしている様子は、まるで地面に打ち上げられた魚のような動きのように見えたのだろう。あるいは芋虫が地面を這って進むように見えたのかもしれない。


 死力を振り絞った無駄な足掻きのように思えた。

 だが、足掻かずにはいられない。


——死にたくない。


(まだだ。俺はまだ——)


 走馬灯のように今までの人生が蘇る。

 恵まれた人生ではなかった。

 会社で出世した訳でも結婚して子どもを授かった訳でもない。狭いアパートでの1人暮らし、老後のために月5万円ほどの貯蓄ができることを喜ぶような生活。最悪とは言わないが、満足できるような生活ではなかった。

 仕事ではストレスを貯め、理不尽に耐えるだけの毎日。

 やりたいことができず、やりたくないことを強制される人生。

 やりたいこと——


(そうだ。俺にはまだやるべきことが残っているじゃないか――)


 不幸続きの人生だったが、それでも全く暗い人生だった訳ではない。

 唯一の趣味を通じて素晴らしい友人と知り合った。

 人生が、どんなに長く暗いトンネルだったとしても、闇の中でキラリと光る何かを病沢は見た。その輝きのために今までの辛い人生を何とか耐え忍んできた。そのために生きてきた。


――ここで死ぬわけにはいかない。


 友人との約束があるのだ。それを果たすまでは、絶対に死ぬことなどできない。


 その場から逃げようと手足を動かしていた病沢の手に、ふと固い物が当たった。それは片手で掴めるサイズの赤い長方形の電子機器。病沢が落としてしまったスマートフォンが床にあった。


 助けを呼ばないと。

 今なら救急車を呼べば、まだ自分の命が助かるかもしれない。


 病沢は体に残った最後の力を使って、スマートフォンに手を伸ばす。客観的に見れば、その動作は伸ばすというよりも床に手を這わせるような動きだった。緩慢な動きのミミズが地面を這うように、床に赤い痕跡を残しながら目的を目指す。

 血で汚れた手。その指先がスマートフォンに届こうかという時——病沢の期待は文字通り踏みにじられた。


 ドンっと黒いブーツが上から降ってきた。

 今、赤いスマートフォンは男のブーツの下にある。タバコの火でも消すかのように体重をかけて、つま先で左右に動かし、ようやく足を避けたかと思えば、その下には画面がバキバキに割れたスマートフォンがあった。


 上を見上げて、茶髪の男を見る。影で真っ黒に染まった男は、口角を吊り上げて、表情がぐちゃりと歪む。


 人形のようにぐったり仰向けになった病沢の体から力が抜けていく。

 せめてもの延命に傷口に手を添えるも、視界に霞がかかり、周囲の物音が遠のいていく。痛みはほとんど感じなくなった。代わりに、吹き曝しになった自動ドアの間から吹き込んでくる外気が寒い。吹き付ける風は体から容赦なく体温を奪う。


 茶髪の男は病沢が動かなくなったのを見届けると、つまらなそうな顔をして立ち上がった。

 ポケットに手を突っ込みながらレジカウンターに体を預けて寛ぐ。そして先ほど店から盗ったタバコのビニール包装を破ろうとする。

 だがパッケージの薄いフィルムが破れない。震える手で開けようとしていたが、ついに痺れを切らしたらしく、タバコの箱そのもに齧り付くように、顎の力を使って強引にパッケージを開けた。

 そして紙タバコを一本取り出し、慣れた仕草で金属製のライターのフタをピンっと弾く。口に咥えたタバコに火をつけて一服。

 時折、足元にある壊れたバイクを見つめながら、満足げな表情で口から煙を吐き出していた。


 薄れいく意識の最中、病沢は見た。

 ニコチンを堪能した茶髪の男は、短くなった吸い殻を床に放り捨てた。駐車場でもそうしたように、彼が普段からそうしているように——マナーなどお構いなしに紙たばこを床に落としたのだ。

 いつもなら、ご自慢の黒いバイクブーツで火を揉み消したことであろう。だが、この時は違った。


 使い古した鉛筆のように短くなった紙タバコ。

 紙と灰の境界線には、未だ燻る牡丹色の余炎が渦巻き、その時を待っていた。

 その小さな種火の温度は約1000度。溶岩と変わらない熱を秘めた着火点は、空中をクルクルと回りながら、やげて床に広がる大きな水溜まりへと誘われた。


 店の中で小さな音がする。

 例えるなら、それはガスコンロに火をつけた時の音に酷似していた。透明な揮発性の高い燃料。そこに棒状に丸められた麻薬がダイブした瞬間、ボッという音と共に火の海が生まれた。燻っていた火は瞬く間に体を大きくし、水面に赤色のさざ波が立つ。


 火が燃え上がった瞬間、茶髪の男は鳩が豆鉄砲を食ったような呆けた顔になる。

 そして自分の足元に火がついていることに気づくと、ギョッとして火の手から逃れようとした。

 しかし、遅い。燃料タンクから漏れ出したガソリンは黒いブーツに付着し、そこから這いよるように彼の足元から身を焼いていく。


「熱い!! あっつ!!」


 ガソリンの水溜まりに突っ込んでいた片足を抜くも、足にしがみついた炎は消えることがない。言葉にならぬを悲鳴をあげて、体を振り回すように火を消そうとする。だが、可燃性のガソリンが燃えているのだ。


 そう簡単に消せはしない。

 それどころか片足にしがみついた炎は、彼の片足を徐々によじ登ってくる。

 

 ここが広い場所であるならば地面に転がって消化を試みることもできただろう。

 しかし、ここはコンビニの中。

 

 狭い店内で体を転げられるスペースなど存在しない。もとより狭い通路しかなく、人とすれ違うのがやっとの通路なのだ。

 しかも、バイクが店内に突入したせいで商品を陳列しておく棚がずれ、体を横にしないと通れない場所もある始末。それはちょうど、貴重な水源となるお手洗いの前にある洗面台と法令によって設置が義務付けられた消火器への道を閉ざしていた。


「お前!! 俺を助けろ!! 何してんだあァァァァあ゛あ゛あ゛!!」


 咄嗟に火を消す手段を見けることができなかった男は助けを求めた。

 瀕死の病沢に助けを求めたのだ。無理に決まっているにも関わらず、男は明瞭でない罵詈雑言を吐き出しながら、体が感じてるであろう痛みに悶えて体を大きく振った。


 ぼんやりとした意識の最中、病沢は男の行動を見守ることしかできない。すでに彼の下半身は真っ赤な炎に纏わりつかれている。


 誰にも助けてもらえないことを悟った茶髪の男は、外に出ようと吹き曝しになった自動ドアを目指そうとした。

 距離にして、ほんの数歩。

 何の問題もなしに外に出られるかと思われた。


 しかし、彼はあまりにも焦りすぎていた。

 一秒でも早く苦しみから逃れるため、彼の視線は出口にしか向いていなかった。


 バイクが店の中に突っ込んだことで商品が散乱した床。

 そこには元から棚に陳列されていたパンやお菓子の袋といった商品の他に、会計のために病沢がカウンターの上に置いておいた物も床に転がっていた。


 円柱状の物体は、緑色のカップ麺の物陰からクルクルと音もなく転がった。


 ちょうど、茶髪の男のブーツが床に接着する瞬間のことである。彼が外に出ようと一歩大きく足を踏み出した直後、彼のブーツの裏に500mlのコーラ缶がタイミングよく差し込まれた。


 勢いよく踏み出した一歩は、前進しようとする慣性の動きを殺しきれず、茶髪の男は前のめりに派手に転倒。カウンターや陳列棚に手を遮られて、体を庇うために手を床につくことすら許されず、彼は顔面をクッションにして固い床に着地した。炎が燃えさかる音に混じって、ゴンッという鈍い音が店内に響き渡る。


 ついに彼はついに出口に到達することができなかった。

 地面に倒れ伏した折、赤い炎が一気に彼の上半身を吞み込んだのだ。


「 あ゛ー熱い!!! あつっ!! あつっ!! 助けろ!!! 助けろ!! あああああああああああああああああああああ」


 コンビニの床で彼が生きたまま焼かれ、のたうち回りながら、悍ましい断末魔をあげた。形のある言葉はではなかったが、声を聞いた誰しもが戦慄し、そこに籠もった感情を理解できただろう。


 茶髪の男が着用していた黒いライダースーツには、一部に合成皮革やゴム、あるいはポリエステルや樹脂が使われているようだった。


 それらは熱によって溶解し、黒くドロドロしたものに変質した。その高温の半物質半流体は彼の首から下を包み込む。

 

 苦しみ悶える姿に、病沢は目を背けるように天井へと目を向けた。

 バイクを中心として燃え上がる炎は、天井へ到達するほどの大きな火柱へと瞬く間に成長した。ガスバーナーのように猛烈な勢いで天井を焼いていく流炎は、火山の噴火のように勢いがある。有機物無機物を問わず、触れたもの全てを燃やし尽くし、溶解させていく。


 その頃には店内に煙が充満し、天井のジプトーンすら煙のせいで何も見えなくなる。視界に映るのは激しい音を立てて燃え上がる炎と煙。そして煙の隙間から差し込む、天井のLED照明だけだった。


「アア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛」


 炎は天井や壁を伝い、店全体を包み込む。天井の照明は熱で破裂し、雨雲の中を走る稲妻のように火花を散らした。遠くでガラスが硬質な音を立てて割れる。外からは消防車のサイレンの音が聞こえるが——それはもう必要のないものだった。


 意識が途切れる間際、最後に聞こえるのはガサリと何かが壊れ落ちる音であった。その音が聞こえた直後、この世で最も黒い闇が病沢のことを包み込んだ。


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