第18話.everyday

『本日も当店をご利用いただきありがとうございます。またのご来店をお待ちしております』


 店の放送が聞こえた後、背後でドアが閉まった。

 凍えるような冷気と敷地の外から呑み込まんとする暗闇。

 永遠に続くかと思われた地獄の終わりが見えたような気がした。


「羽宮さん……ですか?」


 やっとのことで喉から絞りだした声はひどく擦れていた。

 

「来てくれたのか……」


 ホッとしたような肩の荷が降りたような気分だった。

 そこにいたのは紛れもなく真っ当な人間のように見えた。少なくとも、頭から脳髄を垂らしたり、執拗に自分を攻撃してくる悪霊でもない。

 

 気を抜けば、今すぐにでもその場にへたり込んでしまいそうなほどに安堵している自分がいた。


 羽宮は目を細めて、自分のことを無言で見つめていた。

 自動ドアの真正面からやや後ろに下がった位置に立っているせいで、背後から煌煌と差し込むコンビニの明かりが自分の体に遮られている。逆に、羽宮は自らの体で背後の電飾看板を遮っていた。


 自分の足元から伸びる薄っすらとした影が、正面にいる羽宮をちょうど覆い隠そうとしていた。

 

 霊媒師羽宮。

 自分が想像した姿とは大分イメージが異なっていた。てっきり神主さんのような袴姿やお坊さんの法衣のような宗教色の強い服装をしているのかと思ったが、見た目はビジネスマンそのものだ。


 黒いネクタイに黒いスーツ。

 白いシャツは汚れや埃一つない純白。

 霊媒師というには、あまりに現代的な服装をしている。 


 服装は整っている一方、体型は——普通体型とは言い難い。

 ふくよな体型という表現が似合うよう体つきだ。

 だが、ぴっちりとしたスーツにはガタイのよい骨格が見え隠れてしている。筋肉質な男性が後から脂肪を体につけた時にありがちなスモウレスラー体型だ。若いころにはスポーツか何かをしていたのだろうか。相当鍛えられた跡がある。


「あの……羽宮さん……?」


 羽宮は無言を貫いていた。

 不安げになる病沢をよそに、彼がようやく口を開いたのは、自分のつま先から頭までじっくりと舐めまわすように見られた後だった。


「……そうだ。私が羽宮だ。君は病沢君で間違いないかね?」


 良かった、と病沢は大きく息を吐き出した。

 あの電話も本当にかかってきたもので、羽宮という男も自分の妄想ではなく現実に存在することが分かったからだ。

 体からどっと力が抜けていく。これまで張り詰めたピアノ線のような緊張から解放され、今にも地面に座り込みたくなる。ただし、それをしないのはまだ完全に助かった訳でないことを理解しているからだ。


「良かった……。助かった……」


 そう呟くのがやっとだった。

 最後にいつ顔に浮かべたか分からない安堵の表情を浮かべながら、病沢は屋外に目を走らせた。


 駐車場の消えかかった白線、店舗への乗用車衝突防止のためU字型ポール、自分のすぐそばにはタバコの吸い殻。外に設置されたカラフルなゴミ箱からはコーラの空き缶が顔を覗かせ、入りきらなかった空き缶がアスファルトの上で転がっている。

 

 やや遠くに目をやれば、月や星の代わりに空で輝くコンビニの電飾看板がある。

 時折、フッと明滅することを除けば、敷地の外に広がる暗闇を常に遠ざけていた。


 外には病沢と羽宮だけしかいない。

 病沢は自動ドアの前から羽宮に向かって近づこうとした。

 ところが病沢が近づく素振りを見せた途端、羽宮は一歩後ろに下がったのだ。


「え……あの?」


 その動きを不思議に思った時、羽宮が手で病沢を制止させた。

 その所作に、妙な胸騒ぎのようなものを覚える。

 訳が分からなかった。なぜ自分を遠ざけるような——拒絶するような真似をするのか、と。


(一体どういう理由で——ああ、そうか)


 羽宮の行動の意味に気づく。

 考えてみれば、霊が巣食うコンビニの中から出てきた人物を警戒するというのは当然のことだ。


 羽宮には事前に自分がコンビニから出られないことを伝えておいた。

 ならば、さも当然のようにコンビニから出てきた自分を警戒するのは当然のことではないか。まして今の自分の姿は返り血だらけで真っ赤に染まっている。


 汗と血の匂いを漂わせながら、ぎこちない動きで足をひきずる人物。

 人間か霊なのか一目で見分けるのは確かに難しいだろう。いきなり近づいて警戒されても仕方がない。


「……大丈夫ですよ。私です。病沢です。幽霊じゃないです」


 警戒心を解こうと、顔に無理くりにボロボロの笑顔を作って話しかけた。

 だが、返ってきた反応は病沢の予想だにしないものだった。


 一瞬、羽宮は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべた後、じわじわと口角が吊り上がり——やがて爆発したように大笑いを始めたのだ。


「アッハッハッハッ!! こいつは傑作だ……!!」


 大きな、大きな笑い声が空虚な駐車場に響く。

 病沢が顔に作った笑みがゆっくりと引いていった。


 腹を抱えて笑う羽宮の姿に病沢は眉を寄せることしかできなかった。

 危険な存在ではないことをアピールしようとしたのだから、ある意味で警戒を解くことには成功したのかもしれない。だが、何が面白くて大笑いをしているのか皆目見当もつかなかった。


 手を伸ばし、何がおかしいのか羽宮に尋ねようとした。

 だが、豪快に笑う様に取り付く島もなく、腕は自然と重力に引かれてゆっくりと下がる。愉快に笑っている理由が分からず、ただただ困惑してその様子を見るばかりだった。


 真冬の冷気が身に染みる。

 だが、病沢の心中では困惑がフツフツとした怒りが湧き上がってきた。

 こちらは立っていられるのもやっとで、いつ倒れてもおかしくないような傷を体に負っている。足を引きずっている時点で重症なのは誰でも想像できるだろう。だというのに、羽宮は笑うばかりで自分の身を案じること素振りそら一切見せない。


 無言で病沢が見守る中、ひとしきり笑った羽宮は膝に手をつき、ぜえぜえと息を整えた。


「ハハハ、悪かった。悪気はなかったんだが……ぷはっ、アッハッハッハ」


 馬鹿にされているとしか思えなかった。

 やっとのことで助けが来たと思ったら——これだ。


「……何が可笑しいんです?」


 病沢は静かに尋ねた。


「何が可笑しいのかって? 分からないのか?」


 膝に手をついたまま、顔をだけを上げた羽宮は、ニチャリという擬音が似合いそうな笑みを浮かべる。そして、その態度がさらに病沢を苛立たせた。話している最中に怒りのボルテージが上がり、最後には怒鳴っていた。


「……私はあなたに言われたとおり、ここでずっと待っていたんですよ? 何度も霊に襲われて、痛い思いをしても決して諦めなかったッ! なのに、どうして笑っていられるんです!? 少しは私の心配をしたらどうなんだ!!」


 自分の頑張りを笑われているようにしか思えなかった。

 実際、今の自分の姿は彼からみればあられもないものかもしれない。血と汗にまみれたオッサンがボロボロの笑みを浮かべたのだから――だからといって、笑われるのは——必死で頑張ってきた人間を笑うのは、いくらなんでも失礼だ。


「そう、怒るなよ。面白いジョークを聞けば誰だって笑っちまうさ。それとも何か? お前はまだ気づいていないのか?」


 顔に気持ちの悪い笑みを浮かべたまま、そういった。


「お前、あれが読めるか?」


 羽宮は病沢の背後に指を差した。

 指先が指し示す方向を追うように、病沢は上半身を捻り、背後のコンビニへ振り返った。指先が指し示していたのは——


 Daily 8


 このコンビニエンスストアの名前だった。

 自動ドアの真上。買い物客が店の中に入ろうとする時に必ず目にするであろう、この店の名前だ。店の名前と共にアラビア数字の8という数字が光っている。


 それがどうした、と病沢は正面に目を戻した。


「デイリーエイト。……このコンビニの名前ですよね? それが——」


 羽宮の顔を見る。

 人を小馬鹿にするような笑み。それが再び、自分に向けられていることに気づき、言葉を吞み込んでしまった。


「分からないのか? お前は今まで、このコンビニの名前を見ておかしいとは思わなかったのか? デイリーエイト? 馬鹿馬鹿しい! 他のコンビニの名前を適当にもじっただけの名前じゃないか。デイリーの頭をとって、イレブンの数字を8に置き換えただけだろう? こんなコンビニ……現実には存在しないんだよ!!」


 吐き捨ているように言われた。


「何を言っているんですか……? デイリーエイトは全国チェーンのフランチャイズのはずだ。そんな訳は……」


 病沢が反論しようとするが、途中で羽宮がそれを遮る。


「ハッ! こりゃ重症だな。じゃあ、訊くぞ? お前は店の中から出てきたが、どうして今まで外に出ることができなかった?」


 病沢はさらに困惑した。


「それは羽宮さんが——」


「違うな! 俺は何もしていない。なのに、なぜお前は外に出てこれた? どうしてだ? うん?」


 羽宮は顎をしゃくる。


「何も知らない無知なお前に教えてやるよ。異界ってのはな、魂だけが訪れることができる場なんだ。俺たち霊媒師は例外的に肉体と魂を一時的に分離させて、ここに来ることができる。分かるか? いわゆる幽体離脱って奴だよ。それだって万全の準備を整えて、細心の注意を払って、ようやく出来るかどうかといったところだ。不備があれば、自分の肉体に戻ってくることができず、そのままお陀仏だ。プロの霊媒師ですら、ここに来るのに死ぬほど神経を使うのに、その辺にいる霊感ゼロの一般人が、と思うんだ?」


 小馬鹿にした顔から笑みが消えていた。

 業を煮やしたように今度は苛立ちが混じりに矢継ぎ早に説明する。


「いいか! 異界は怨霊によって作り出された世界だ。ここを維持するためにはエネルギーがいる。魂のエネルギーだ! つまりは人の感情、恐怖や絶望といった感情がこの異界を成り立たせている。それがお前だ!!」


 人差し指が真っすぐに自分に向けられる。


「お前がここで生きようと必死になればなるほど強い感情を発生させる。それがここの怨霊にとっての、異界を維持するためのエネルギーになる」


 一度は電話で聞いたことがある話だ。

 自分をコンビニ閉じ込めたのは、恐怖や絶望といった感情を多く得るために怨霊がやったこと。それは知っている。

 

「それは電話で話してくれたことですよね……? 霊がすぐに私を殺さないのは、私を怖がらせてエネルギーを得ようとしているからって……。すぐには私を殺さないだろうって……あなたが私に——」


 ボソボソと喋る病沢だが、またしても羽宮が途中で中断させた。


「ハハハ……電話ルビを入力…だと?」


 彼は最初、顔に笑みを浮かた。

 が、すぐに表情を変えてこちらをギョロリとこちらを睨みつける。


「お前は……ここの怨霊にとって、都合のいい消耗品なんだよ。適当に希望をチラつかせれば、勝手にエネルギーを生み出してくれる、いわば連中にとっての発電機って訳だ。『いつかはここから出ることができる。それまで頑張ろう……』とかそんな感じに思ってたんだろ?」


 冷酷な眼差しが病沢のことを捉えて離さない。

 

——何か嫌な予感する。とてつもなく嫌な予感が……。


 目の前にいる男が意地の悪い笑みを浮かべた。

 唇の端が嫌らしく吊り上がり、見下すような目線を投げかける。


「 だが、どんな道具にも使用限度ってものがある。お前の姿を見た瞬間に分かったよ。もう使ってことがな。お前がそこから出ることができたのは俺がお前を助けた訳でも、自力で抜け出した訳でもない。ここにいる怨霊は、お前はもう使えないゴミクズも同然って判断したってだけの話だ。だから、コンビニから外に出ることができた!!」


「ならいいじゃないですかッ! このまま私を現実に帰してくれれば!!」


 病沢はやけくそ気味に声を張り上げた。

 怨霊にとって自分が無用の長物だというのなら、それでも構わない。コンビニから外に出ることができたのは事実だ。理由などどうでもいい。

 霊媒師がいる今、恐らく現実の世界に帰ることはできるはずだ。ならば長いは無用。一刻も早く、ここから立ち去りたい。もうこんなところにいるのは御免だ。


 病沢はそう訴えようとしたが—— 

 

「あのなぁ!! 俺がここに来たのはお前を助けるために来た訳じゃない。そのコンビニの中に巣食っている怨霊を除霊するために来たんだ!! お前はあくまでも、ついでだ。こっちとしちゃあ、お前のことなんかどうでもいいんだよ!!」


 抗議の声を上げようと口を開いたが、羽宮の怒声がそれを阻んだ。


「大体、俺がこんなところに来る羽目になったのは、お前のような無能な働き者がいるからなんだぞ? たくっ、こっちの身にもなってくれ。現場に来るなんざ俺だって御免なんだ。大体、お前がさっさと諦めないのが悪い。そうすりゃあ、ここを封鎖して立ち入り禁止にするだけに済んだのによ」


「な、何を言って——おれはあなたをまっ——」


 怒声が病沢を追い詰めた。


「まだ言うのかッ!!! 察しの悪い奴だなぁ! ここまで言ってなぜ分からない!!! いい加減、現実から目を逸らすのは辞めろ!!」


 病沢はフリーズした。

 相手を凝視し、そこで立ちすくむしかない。わなわなと震えながら、どうすることもできなかった。相手が言わんとしていることが全く理解できない。話の内容を理解しようと努めるが、何も思いつくことができなかった。


 いや、思いついてた。

 しかし、それは、自分が考え得る最悪の、あってはならない、それだけは——。



「まだ何を言いたいか分からないって顔をしているな? じゃあ、ハッキリ言ってやるよ。お前は————————————



 

        もう死んでるんだよ。とっくの昔にな。







 静かな夜だった。

 しんと静まりかえった夜の駐車場で、自分の呼吸が聞こえてくる。不規則に呼吸が乱れ、ドクドクと心臓が力強く脈を打つ。血流が全身を駆け巡り、血液が全身の管を通して流れる音がホワイトノイズのように耳に押し寄せてくる。


 頭の中で羽宮の言葉が何度も何度もループして児玉する。

 壊れたレコードのように何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も——


——もう死んでいる。


 病沢は自分の手のひらを見た。

 光が当たらないせいで、手のひらは黒く見える。自分の血液、他人の血液、それが黒く自分を染めていた。手を閉じたり、開いたり……残っている爪を肌に食い込ませる。神経を通じて、確かに痛いという感覚が感じることができた。


 病沢はゆっくりと顔を上げた。


「嘘だ……!。何でそんな嘘をつくんだ……」


 病沢は羽宮を睨みつけ、詰め寄った。

 折れた足に体重がかかると激痛が走る。だが、それが逆に自分が生きていることを教えてくれているようで、自分の生を肯定することができた。


——俺はここにいる。確かにここで生きている。


 羽宮のスーツの胸元を掴む。

 だが、憔悴しきった体に力などほとんど残っていない。病沢はすぐに突き飛ばされ、氷のように冷たいアスファルトの上へと突き飛ばされた。


「気安く触れるな、地縛霊ッ!! スーツが汚れるだろ!!」


 羽宮は倒れこんだ病沢には一目もくれず、手で埃でも叩き落とすかのようにスーツを軽く叩いた。白いにシャツには染みができていた。

 

「俺は生きているんだ……。折れた足だって、こんなにも痛いんだ……。俺は生きている……」


 羽宮への反論ではない。

 自分に言い聞かせるように言ったのだ。

 すると、それを聞いていた羽宮はまたしても笑った。

 爆笑といかないまでも、明らかにコチラを馬鹿にするようなニュアンスで笑ったのだ。


「そうか。足が折れているんだったな。足は痛むか? うん?」


 羽宮の言葉を無視し、病沢は苦痛に顔を歪めながら、冷たいアスファルトから起き上がろうとした。

 だが、折れた足を庇い、病沢が片膝をついて立ち上がろうとした時、今度は羽宮のキックが上半身に飛んでくる。

 肺の中の空気が強引に吐き出された。

 そして再び、病沢は仰向けになって地面に倒れる。


 真っ黒な空が見えた。

 黒くて、底知れぬほど深い漆黒。零下の地面と接した背中からは体温が奪われていき、冷気が全身を蝕んでいく。


 視界の端に羽宮の顔が映った。

 店の明かりがぼんやりと羽宮の顔を照らしていた。

 顔にはニヤニヤとした不敵な笑みが生まれ、頬についた肉が重力に引かれ垂れさがり、口からは茶色い歯が見え隠れしている。

 

 突然の暴力に混乱する間もない。

 気づいた時には、喉が張り裂けそうなほど叫び声をあげていた。

 

「痛いか? ああ?! どうなんだ!!」


 神経が焼き切れるほどの強い刺激。

 あまりに激痛に、これが痛みという感覚と捉えていいのかとさえ分からなかった。ただ、本能のまま叫び、バタバタと手足を動かした。

 大きく痙攣するように上半身が飛び跳ねる。

 すぐさま、痛みが発生している己の折れた足へと目を向けるが——


 雑誌とガムテープで固定された足の上、そこには黒い革靴の姿があった。

 誰のものか確認するまでもない。羽宮のものだ。


 羽宮は病沢の折れた足に体重をかけている。


「おい! 痛いのか? 痛いくないのか? 訊いているんだ!! 答えろ!!」


 再び、怒鳴るように質問された。

 見るからに痛がっているのに、痛みに叫びをあげているのに、それでも羽宮は痛みの有無を質問するのだ。


「痛い!!!!!???? 止めてくれ!! 足をどけてくれ!!!」


 苦痛からの解放を求めて、黒い革靴に縋りつくように手を伸ばす。


「そうか、痛いのか? 幽霊なのに痛みを感じる? 信じがたい。どれ、確かめてやろう――」


 羽宮の視線が病沢の顔から折れた足に向けられた。

 確かめてやろう? まさか——


「おい!! よせ!!! よせッ!!!! よ———」


 黒い革靴がググっと足に沈み込む。

 そして病沢の体の中だけに聞こえるポキリという子気味よい音が聞こえた。


「———————————————!?!?!?!!??!?」


 次の瞬間、声にならぬ叫びが真っ黒な空に響き渡った。

 形のある言葉ではなく、あまりに痛みに病沢は悲鳴というよりも雄叫びに近い叫びを轟かせる。

 肥満体の男の体重。

 そのほとんどが折れた病沢の足に圧し掛かったのだ。


 何も考えれない。

 そこにあったのは苦痛のみだった。

 耐えがたい、とてつもない苦痛——


 視界が真っ白になり、全ての感覚が麻痺した。

 消え入りそうな意識の中、病沢は確かに見た。


 自分に拷問のごとき苦痛を与える羽宮の顔を——彼は笑っていた。


——なぜ笑っていられる。

 

 病沢には理解できなかった。

 普通の人間なら、他人を思いやったり、例え何らかの事情でそれをやらなくてはならなかったとしても、顔を背けたり、嫌な表情を浮かべるものだ。だが、この男にはそういった他人を思いやるような素振りがまるでない。自分をいたぶり、絶望するのを楽しんでいるような気さえする。

 奇しくも、自分を襲ってきた霊と同質の何かを感じざるをえなかった。


——そうか、この男は……。

 

 真っ白になった視界が徐々に黒く塗りつぶされていく。

 失いかけていた意識が何とか踏み止まったようだ。


「おーい、死んでるかー?」


 つま先が倒れた病沢の上半身を小突く。


「うる…さい。あく……りょう……おれ……い……きて」


 呆れたような溜息が聞こえた。


「あー……そうかよ! 強情で愚かな馬鹿が!! とっとと死ねよ。おっと、もう死んでたな。何でそう自分に都合よく何でもかんでも解釈するのかね。いい加減、認めちまえば楽になれるってのに。いいさ、それならこっちにも考えってものがある」


 せせら笑いながら、羽宮は自分のスーツの内側に手を入れる。

 内ポケットから片手で掴んで取り出したのは小さな円形の物体だった。


「ほら鏡だ。見てみろよ。本当の自分の姿をなぁ」


 羽宮は腰を屈め、仰向けになっている病沢の顔に小さな鏡を突き出した。


 羽宮から逃れようと上半身を起こした病沢は目にする。

 埃一つない滑らかな鏡面。

 そこに映っていたのは————————化物だった。


 全身が真っ黒に炭化し、ひび割れた肌の表面からは赤い肉が露出。

 ジュクジュクとした液体が染みだしていた。

 着ていたであろう上着は燃え、その残りが皮膚と癒着している。焦げた布地と一体化し、全身が炭化することで墨を被ったように黒く染まっていた。頭髪は全て燃え、唯一眼球だけが白の色を残しているが、黒い部分がなく眼球全体が白くブヨブヨと濁っている。


「………………………」


 病沢は無表情になって右手を動かした。

 同時、鏡の中の化物も動く。

 頬を触る右手の動きに合わせて、化物の黒い腕もまた動いた。


「なんだ……これ……?」


 自分の声は擦れていた。

 寝たきりの老人が何とか声を絞りだした時に聞こえるような弱々しい声。


 病沢は鏡から目を移し、自分の体を見た。

 そこにあったのは、やはり真っ黒な体だった。

 血で濡れていたはずの肌は黒くなり、焼け焦げた服の繊維が肌に張り付いている。


 病沢はパニックになって立ち上がった。

 

「これは……、なにかの、何かの間違いだ……!!」


 悲鳴に近い声を上げた。


「そうだよなぁ……。ショックだよなぁ……。自分が死んでいることを忘れていたんだからなあ……」


 ワザとらしく同情する真似をすると、羽宮は内ポケットに鏡を仕舞った。

 病沢はその様子を見ながら、ジリジリと羽宮から後退する。折れた足を庇いながら——。


「……俺は死んでなんかいない!? そんな鏡、おれは信じないぞ!! 俺は生きているんだ! 折れた足だって、こんなに痛い!! これは俺が生きている証拠だろうが!!」


「折れた足がそんなに痛いのか?」


 羽宮が訊いた。


「痛いに決まってる……!! お前が踏みつけたせいで俺の足は……」


「そうか。折れた足が痛むのか? 腹の方はどうした?」


 たるんだ肉をつけた顎をクイッと動かした。

 病沢は顔を下に向け、自分の下半身を見るが——


「な、なんだ……なんなんだよ……。これ――」


 自分の腹部には何かが突き刺さっていた。

 金属の破片としか形容のしようのない鋭利な棒状の物体が自分の腹に突き刺さっている。


 それが実在することを確かめるように黒い両手が金属片を握りこんだ。

 言葉にならない激痛が神経を伝って病沢の脳を焼いた。

 痛みと手の感触がそれが本物の物体であることが知覚できてしまう。


——いつからこんなものが突き刺さっていた?

 

「違う!! 違う!! これは……違う!! これは!? これは!!」


 慌てふためく病沢の姿を見て、羽見は再び爆笑した。

 屈託のない笑みは、まさしく純粋で、まるでテレビのお笑い番組を見た時のように無邪気に笑っている。


 ただただ恐ろしくなった。

 背後から聞こえてくる耳を塞ぎたくなるような男の笑い声。

 気づいた時には、羽宮の前から自然と体が引けて、その場から逃げ出していた。

 体を店の方向に向け、痛む足を引きずりながら、自動ドアへ――デイリーエイトの中へ逃げ込もうとする。


 擦れたような、か細い自分の呼吸。

 呼吸がしにくい。まるでストローのように喉が細くなっている。わずかに吸い込んだ空気もどこかへ抜けていってしまう。息を吸い込む度に、自分の腹に激痛が走った。痛みが共鳴した。

  

 アスファルトと店の間の段差に躓いた時、自動ドアの入り口でうつ伏せになるような形で倒れ込んだ。それでも腹部の金属は一ミリも動かない。まるで強固に固定されているかのように。


 センサーが反応、自動ドアが開いた。

 倒れこんだ時に、またして気が遠くなるほどの痛みに襲われ、頭が真っ白になる。


『いらっしゃいませ!! ご来店、誠にありがとうざいます。当店、Daily 8は24時間365日、休まず営業中です♪ いつでもルビを入力…お客様をお待ちしております!!』 


 来客を知らせるベルの音。

 腕を使って這いずるように店の中に入り込んだ。

 背後でドアが閉まり、店の中の温かい空気が自分を迎え入れた。


 コーヒーメーカーが設置されているカウンターに手をつき、立ち上がる。


——どこに逃げれば……。俺は一体どうすればいい……?


 病沢はパニックになったまま店の中に目を走らせた。

 真夜中でも決して消えることのない蛍光灯の光、ツルツルと光沢のある床。陳列棚にはお弁当や食料品、お菓子やジュース、果ては歯ブラシや洗剤といった日用品までもが整然と並んでいる。

 ATMという名の無人銀行とバリスタ不要のコーヒーメーカー。24時間、自分を監視する天井の監視カメラ——何もかもが元に戻っている。


 店のLED蛍光灯に目をやった時、病沢の目が眩んだ。

 世界がグルグルと回る。

 カメラのフラッシュライトが連続で焚かれた時のように、脳裏に次々と記憶が浮かび上がった。


——霊は基本的に死んでしまった時の姿のままで出てくることが多い。あるいは死んでしまう直前の姿で現れる


——死んでしまったことすら自分で忘れてしまっている。


 羽宮の声が耳の中で蘇った。

 病沢はハッとして洗面台がある方向に顔を向けた。

 電球の弱々しい暖色の光で彩られた薄暗い空間、トイレのドアの前にある洗面台

。薄汚れた洗面台の上に備え付けられていた鏡は汚れ一つない鏡だった。


—— いくら目を背けても現実は変わらない


 遠くの鏡に、化物になってしまった自分の姿が映り込む。

 腹に金属の破片が突き刺さり、全身が炭化した人の成れの果て。

 鏡の中の自分が真っすぐ自分を見ていた。


 病沢は洗面台から、背後の自動ドアに体を向ける。

 曇り一つない自動ドア。

 そこには化物になった自分が映っている。


「——俺は誰なんだ?」


 自然と口から漏れた疑問は、まるで向こう側にいる自分に問われた気がした。

 ガラスに薄っすらと映り込んだ自分の背後には、煌煌と輝くデイリーエイトの電飾看板が見える。


 Daily8


——このコンビニの名前を見ておかしいとは思わなかったのか?


「デイリーエイト……。デイリー、エイト……でいりー、でいりー……毎日」


 このコンビニエンスストアの名前を口ずさむ。

 何かが引っかかっていた。それが何かは分からない。

 何かを忘れているような、何か大切なことを——


 疑問の答えはすぐにそこにあった。

 

 ふと、レジ台の前にある液晶画面に目が吸い寄せられた。

 年齢確認や支払い方法を選択するにタッチするための画面。今は何の操作もされていないため8の数字が表示されている待機画面だ。


 8


 8の数字をなぞるように光がクルクルと移動している。

 立体的な8の数字は帯のようで、その上を発光体が移動。表と裏を移動しながら、一周するとやがて最初の地点に戻っていく。永遠に光がループしていた。

 

 永遠に終わりのないループ構造。


 病沢はふいに首を傾げた。

 首を傾げると視界も真横になる。

 

 ∞

 

「はち、はち……ループ?」


 病沢は傾げた首を元に戻すと、無表情で店の中に目をやった。

 天井の監視カメラを見上げる。


……?」


 その質問に答える声があった。


『たっくさんですよ♪』


 ルーが返事をした時、病沢はその場に崩れ落ちた。

 体中に残っていた最後の力がすべて抜けていった。体温がすべて抜け落ちていき、全身が凍てつきそうなほどに冷たくなる。

 代わりに、ある感情が心の中に満ち溢れた。

 それは間違いなく絶望という感情で、人生で二度目に経験した感情——二度目……そう二度目だ。


 その時、病沢は思い出した。




             ——そうだ。私は死んでいた。




 病沢の脳内で遠い過去の――あの夜の晩の出来事が蘇った。

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