第13話.毎日


「う゛ぅ……」


 病沢はパイプ椅子に座りながらカウンターに顔を突っ伏していた。

 意識が飛びかけ、まどろみに入りかけていた時、ズキズキとした痛みが病沢を現実に引き戻す。


——いつになったら解放されるんだ。


 病沢はウンザリとした表情を浮かべながらカウンターの上に伏せていた顔を上げる。

 

 霊の襲撃は長時間に渡って何度も繰り返された。

 幾度となく行われる襲撃は、病沢の肉体と精神を極度に疲弊させ極限状態に追い込んでいた。

 体を休める間などあるはずもなく、少しでも体力を回復させようと、こうして仮眠をとろうとしていたのだが——。


 病沢は体の痛みに顔をしかめた。

 痛みのせいで眠ることも許されない。

 

 眠ることも諦め、顔を上げたはいいが、今度は眩い光のせいで目が眩んだ

 痛みと蛍光灯の強烈な光に目を細めた。


 目が慣れるのを待ってから自動ドアを一瞥。

 何の変化もないことを確認すると、椅子の上で体を滑らせて店の中に目を走らせた。


 店の中は荒れ放題だった。

 まるで嵐が店の中を通過した後と表現しても過言ではないだろう。あるいは巨大な地震が起きた後のような様相だ。商品が陳列してある一部の棚は横倒しになり、床一面にコンビニの商品が散乱している。その商品も踏み荒らされ、パンやおにぎりといった食べ物はペシャンコになり、液体の入ったペットボトルやアルミ缶は潰れて中身が漏れている。


 天井の照明。

 いくつかのLED蛍光灯は配線が繋がったまま氷柱のように天井から垂れさがっている。

 大量のドリンクが仕舞われていた業務用冷蔵庫のショーケースは割れ、透明なガラスにはべったりと黒い血が付着していた。


 ショーケースだけではない。

 店のガラス窓には大量の血痕。

 女の首を搔っ切った時に噴水のように上がった血しぶきによるものだ。あまりに勢いよく吹き出したものだから、壁や窓だけでなく天井にまで赤黒い血が飛び散っている。


 ベットリと固まっている古い血。

 未だにポタポタと雨漏りのように重力に引かれて落ちていく新鮮な血液。食べ物やジュースの臭い、化粧品や人間の血が混ざりあい、脳が揺さぶられるような強烈な芳香が店内に充満していた。


 天井からポタポタと雨漏りのように落ちてくる赤い水滴を眺めながら、病沢は考えた。

 ボーっとする頭に浮かんだのは一つの疑問。

 最後に羽宮と会話をしてから一体どのくらい時間が経過しただろうか——と。


 二日は経過していてもおかしくはない。

 店内に時計はなく、時間を確認する方法はないが、それでも相当な時間が経っていることは確かだろう。コンビニの外は真っ暗なまま。永遠に夜が続いているため日の出を見ることもない。


——喉が乾いた。

 

 食欲は湧かなかったが喉は乾いていた。

 渇きを潤そうと、病沢は左足に体重をかけて立ち上がろうとするが——


「……フゥ……フゥ……」


 病沢の額から脂汗が流れる。

 短い呼吸を繰り返しながら、立ち上がるタイミングを見計らう。


 羽宮との通話が途切れてから病沢は戦い続けていた。

 幾度となく女の襲撃を退けてきた病沢だが、それも限界に近い。戦いを重ねた結果、病沢の体は際限なく傷つけられ、今や傷を負っていない場所を探すことの方が難しくなっている。

 

 特に重症なのが右足だ。

 右足の脛からは乳白色の骨が飛び出ていた。添木を当てるように雑誌とガムテープでグルグル巻きにすることで応急処置をしておいたが、体を少しでも動かせば、ズキズキという言葉では収まらないような激しい激痛に襲われる。


 腕には切創がいくつも。

 大きな傷口は接着剤で止血。片耳は食い千切られたので音の聞こえた方が左右で違う。歯の何本かは揉み合いになった時に砕けた。


 頭からは汗と一緒に血液がポタポタと滴る。

 目の中が痛いのはガラスの破片が目の中に入ったせいだろう。明らかに視力に異常が見られた。


 上着は元より、ズボンからも赤い染みが浮き出ている。

 赤く染まった生地の上から包帯でグルグル巻きにしてあるが、その白い包帯にも血が滲みだしていた。


――胃が痛い。


 立っているのもやっとの状態で病沢は生きていた。

 命からがら。


 今の自分の姿を鏡で見たら、きっと酷い状態で自分でもショックを受けるに違いない。鏡を見たらと思うと、怖くて――。


 乾いた笑みを一瞬だけ浮かべてから、病沢はパイプ椅子から立ち上がる。

 短く息を吸い込み、いきみ——やがて立ち上がった。


 途端、耐えがたい激痛に襲われる。

 痛みに呻き、片足を引きずるようにズリズリと冷蔵庫へと歩いていく。床に散らばったゴミに右足が接触するたびに神経が焼けるような痛みが走った。

 

 冷蔵庫のショーケースは手で開ける必要はなかった。

 ドアガラスが割れ、手を伸ばせばそのままペットボトルを掴めるからだ。


 手が切れないよう、病沢は肘を使って、残ったガラスの破片を砕いた。

 床にガラスが落ちていくが、自動ドアのように再生はしない。手を切らないよう冷蔵庫の中に突っ込んで選んだのはコーラ……ではなくミネラルウォーターだった。


――毒が入っているかもしれない……。


 病沢自身、そう警戒していたのは最初だけだった。

 今では平気でペットボトルに口をつけるようになっていた。重症を負っているうえに、脱水症状にまで見舞われれば、次に霊に襲われた時、そのまま殺されてしまうかもしれない。


 背に腹は代えられない。

 そう観念して水の入ったボトル飲料に手をつけるようになっていた。

 ただし、万が一、毒が入っていても味や見た目ですぐに気づけるようにコーラではなく水を飲むようにしている。無色透明な水であれば、不純物が入っていればすぐに分かるだろうという考えからだ。透明な水に何か一滴でも入ってしまえば、それは何らかの色に染まるだろう——。


 幸い、今まで水を飲んでも体に変化は起きなかった。

 

——まだなのか?


 口元を拭いながら、またしても病沢は自動ドアの方に視線を向けた。

 羽宮は二日ほどで来ると言っていたが、あれからどう考えても二日以上が経過している。このコンビニに彼がやってくるのを想像する度に、病沢は自動ドアに目を向けていた。そして外に誰もいないことを確認すると、そのたびにガッカリと肩を落とす。


 首を長くして、待てども暮らせども彼はやってこなかった。

 最初こそ、期待に満ちた目でコンビニの外を見ていた病沢だったが、今では外を見るために自動ドアまで足を運ぶことさえしなくなった。


——もしかすると……羽宮という男は現実には存在しないのでは?


 元のようにカウンターの椅子へ戻ろうとする最中、そんな考えがふいに浮かんだ。

 実は羽宮という男は現実には存在せず、自分を絶望させるために霊が芝居を打っていたとしたらどうだろう? もしくはここから出る希望を失いたくないがために自分が勝手に作り出した妄想であったとしたら? 無意識の妄想が現実にあったことだと思い込んでいたとしたら?


 手に持っていたペットボトルを落とすと、思わず、足を止めた。


「そんなことはない……そんなことは……絶対に……。羽宮さんはいる……」


 答えを問いただすように無言で頭上の防犯カメラに目を向ける。

 ドーム型のカメラが病沢のことを見ていた。

 ヒシヒシと纏わりつくような視線。

 それを感じるが、ラジオからは何も返ってこない。


 いつもだったら、視線を向ける度に嫌味やクイズを出してきて挑発をしてくるのだが、今晩に限っては何の反応も示さない。


(あれは本当にあった出来事なのか? それとも——)


 店内の静寂が病沢を問い詰める。

 誰も疑問に答えてくれない以上、答えは自分で見つけるしかなかった。


 病沢は自問自答を繰り返す。

 だが、いくら考えたところで、それが本当にあったことなのか真偽のつけようがないことに気づいてしまう。真であると証明できるだけの材料がなかった。着信履歴が残っていたら、あれが現実にあったことだと確信することができるが、スマホが爆散した今、それも叶わない。


 といって妄想であると証明するのも不可能だ。

 いないことを証明するのは難しい。

 仮に本当に羽宮という人間が存在していたとしても、このコンビニに彼が来ないことには現実か妄想かの区別は永遠につかないだろう。従って、現時点で羽宮という男は現実の存在であると同時に架空の存在でもあるのだ。


(そんなことを考えるのは辞めろ! 彼がやってこなかったら、俺は死んでしまうんだぞ? あれが妄想だっていうのか? そんなはずはないっ! 電話は現実にかかってきていたはずなんだ。だから、彼はきっと来てくれる。そうだ……そうに決まっているんだ。疑うんじゃない)


 今の状況では、結局、何も分からない。

 彼の実在性に関しては考えても無駄だ。それは分かっている。しかし——


(生きるか死ぬかの瀬戸際で、そもそも何で俺はこんなに頑張っているんだ……?)


 顔を下に向け、ボロボロになった己の体を見た。

 耐えがたい苦痛に抗い、苦しい時間ばかりが続いている。霊の襲撃から身を守ることばかりに集中してきたが、なぜ自分はこんなにも頑張っているのだろう?


 終わりが見えない拷問のような時間のなかでは、いっそのこと生きるのを諦めてしまったほうが楽なのかもしれない。

 実際、苦しいのは一瞬だけで、苦しみの総量でみれば、ずっとその方が楽なような気さえする。


 病沢は自嘲気味に笑った。

 

——ここまでして生きる理由なんてあるのか?


 そう自分に問う。

 思い返せば、これまで生きてきた人生は決して輝かしいものではなかった。

 高校を卒業してからは仕事を転々とする毎日。仕事で何かを成し遂げたり、誰かと恋仲になって人生伴侶を見つけた訳でもない。

 社会の歯車となって働き、ボロアパートとパワハラ上司のいる職場を往復。誰でもできるような仕事をするだけの毎日を送っている内に、気づけば人生の半分以上が過ぎ去っていた。仮に、ここから生還できたとしても、またあの地獄のような日々が自分を待ち受けている。


——もう死んでしまった方が楽なんじゃないのか?


 病沢の顔から表情が消えた。

 止めていた足を動かすと、元のようにカウンターのパイプ椅子に腰を降ろした。


 思えば、これまで自分が生きてきた人生は決して幸せなものだとは言い難いものだ。いや、客観的に見ても主観的に見ても、それは確かなことだろう。


 例えば自分に家族がいたとしたのなら、ここで諦めずに戦うことにも意味が見出せるのだろう。しかし、病沢は天涯孤独の独り身だ。生きるべき理由。生還するべき意義が見出せない。自分がいなくなっても誰も困らない。誰も悲しまない。誰も病沢光博という男がいたことを忘れてしまうだろう。おおよそ自分の生には価値がない。ならば、なぜ死に抗う?


(……ただ苦しいだけじゃないか?)


 病沢の手が自然とベルトに刺さっているハサミに伸びた。

 使っている内にハサミの刃が分解し、まさしくナイフのような形状になったソレ。グリップの輪っかの部分が割れ、一本のナイフのようになったハサミの亡骸。脂と血で切れ味が悪くなったお手製のナイフはいかにも切れ味が悪そうだが、刃物であることには変わりない。


 病沢は、おもむろに刃を首元に当てる。


 ナイフの刃は冷たくなかった。人肌程度の温もりが宿っている。首の太い血管を切ることくらいは訳もなくできることだろう。ここで首を掻っ切って死ねば、もう怖がることも苦しい思いをしなくもいい……。

 病沢は刃先を突き立てるようにゆっくりと力を込めた。首にチクリとした痛みを感じたかと思うと、赤い液体がナイフを伝わり、ナイフを握る自分の両手を温かく濡らした。そしてカタをつけようと腕に力を込める——。


 だが、力を入れかけたその時、ふいに病沢の頭の中でイメージがパッと浮かんだ。

 頭の中で浮かんだ光景。ゲーム世界で会える友人——グレイとナイトの顔だった。 


 そのイメージが浮かんだ時、奥に刃を突き立てようとしていた力が弱まる。己の喉元の太い血管に到達する寸前で手が止まった。

 そして気づく。ナイフを握る両手がカタカタと震え始めていることに——。


 カラン、とカウンターの上にナイフを放りなげた。

 

——死にたくない。


 病沢は顔を手で覆った。

 血だらけになり、重症を負っても、それが例え傍から見て醜い滑稽な姿であったとしても、死んではいけないと心が叫んでいた。


(まだ……死ねない。死んでたまるかッ! ここで死んでしまったら、あそこに帰れなくなる。俺がいなくなったら誰がバンドのサポート役をするんだ? 俺しかいないんだ!! アイツらと一緒に肩を並べて戦えるのは……!!)


 恵まれた人生ではなかった。

 しかし——


 現実の世界ではなくゲーム世界で自分のことを頼りにしてくれる友がいた。

 自分の実力を正当に評価してくれる友がいた。

 共に戦って欲しいと自分のことを必要としてくれた。


 何より、約束があった。

 ここで病沢が諦めてしまえばグレイとナイトとの約束を破ってしまうことになる。今日、彼らと一緒に大会に参加すると約束したではないか……。


 だから死ぬわけにはいかない。彼らと会うまでは——希望が折れかけても病沢は決して生きることを諦めないだろう。

 

 自分の決意を確かめるように病沢はドアに目を向けた。

 真っ暗な夜の闇が続く屋外。ガラス越しには――。


 その時、視界の端で何が動くのが見えたような気がした。 

 最初は睡眠不足と過労のせいで生じた錯覚か何かだと思った。


 何度も瞬き、そして目を擦る。

 何かが動いているのをハッキリと捉えた時、病沢は表情を変えた。


 これまで何者の姿も確認することができなかった駐車場。

 誰かがゆっくりと動いている——まるでこちらに向かって近づいているかのように。


 病沢は思わず、パイプ椅子から立ち上がった。

 呼吸するのも忘れ、吸い寄せられるように、自動ドアに向かって足を引きずりながら歩き始める。


 一歩、また一歩と透明な壁に向かって突き進む。

 

 病沢が自動ドアに向かってぎごちない動きで近くごとに、屋外にいる人物のシルエットも大きくなった。ここまで来れば、疑う余地もない。誰かいる。外に。


 自動ドアのガラスの表面には、外気との寒暖差によって薄っすらと雲りが生じていた。

 ガラスが曇っているせいで姿は朧気。

 外にいる誰かは自動ドアの前まで来ると直立不動の姿勢のまま、こちらをガラス越しに見つめている。まるで病沢がドアの前に来るのを待つかのように。


 やや遅れて、病沢はあと一歩踏み出せば自動ドアの前という所までくる。

 呼吸をすることすら忘れ、前に踏み出す。


 客の出入りがあったことを知らせるチャイムが鳴り響き、自動ドアのモーターが駆動する音が聞こえた。外から強烈な冷気と風が病沢に吹き付ける。顔がヒヤっとして火照った体の体温が元に戻った気がした。


 風に目を細めながら、そこにいる人物を見つめる。

 恰幅のよいスーツ姿の男は無言で病沢を出迎えた。


『本日も当店をご利用いただきありがとうございます。またのご来店をお待ちしております』


 店の放送が聞こえた後、背後でドアが閉まった。

 凍えるような冷気と敷地の外から呑み込まんとする暗闇。

 永遠に続くかと思われた地獄の終わりが見えたような気がした。

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