第12話.異界


『——頭が半分潰れた女に襲われた……。どんな姿をしていた?』


 霊媒師を名乗る羽宮という男に、病沢はこれまで自分が体験してきたことを話した。病沢が詳しく述べ、時折、羽宮が質問を挟むことで状況を共有。あらかた、話し終わった後も、こうして通話が続いている訳だが——


「……コンビニの制服を着ていたのは見ました。頭の半分が潰れていて、中身が床にずり落ちて——とても生きているようには……」


 脳裏に女の姿を思い浮かべた病沢は言葉を途中で飲み込んだ。

 苦い表情を浮かべ、口の中に溜まった酸っぱくて苦い液体をゴクリと飲み込む。


 口直しに冷たい飲み物が欲しかった。

 だが、飲むことはできないので、せいぜい恨めしそうに冷蔵庫に入ったドリンクに目をやることしかできない。


『霊は基本的に死んでしまった時の姿のままで出てくることが多い。あるいは死んでしまう直前の姿で現れる。お前の話を聞く限りだと、その店員は事故か何かで頭部を損傷……死因は脳挫傷といったところか。その程度の事故なら自然と魂はあの世に向かうはずだ。人を襲うほど怨みを持っているとは思えない』


 魂という言葉が出てきた時、今度は病沢は質問をする。


「幽霊が本当に実在するなんて、やっぱり私には信じられない……。でも、魂? 魂って……。本当に存在しているんですか?」


 自分で魂という単語を口にした途端、妙な気持ちになった。

 科学的な見地で考えれば、霊や魂という単語は、映画や漫画だけに出てくるフィクションを象徴する言葉であって、現実には存在しない概念だったはず——少なくとも、それが今までの病沢にとっての常識だった。


 ただ奇妙なことに納得している自分がいる。

 非現実的な存在に襲われ、実際に本物を目撃した。しかし、こうして霊や魂という単語を改めて口にすると、自分の中の常識がいよいよ崩れていくようで妙な感覚を覚える。肉体的に精神的に霊という存在を肯定しているのに、頭の中の知識が肯定することを拒否している。


『魂は存在する。お前にも俺にも動物にもあるし、その辺りを飛んでいる虫にも存在する。どれだけ科学が発展したとしても、この法則だけは変わらない。本来、人間は死ぬと魂だけの存在となる。肉体から魂だけが抜け、そのままの状態で存在する——これが霊だ。その後、遅かれ早かれ魂はあの世へと旅立つことになっている』


「……なっている?」


 病沢は思わず訊いた。

 霊の存在を断言する一方、なっているという言葉に引っかかりを覚えたからだ。


『そう。なっている、だ。俺は死んだことがないから分からない。あの世がどうなっているかとか、あの世が存在しているのかなんて訊かれても俺には答えようがない。あの世のことを認識できるのはあの世に行ってしまった人間だけだからな。まあ、だが、魂は確実に存在する。あんたも見たんだろう? 成仏していない魂……つまり霊を。もっとも、悪意を持って襲ってきたのなら、そいつは霊じゃなくて悪霊だがな』


「あの、すごく失礼なことをお聞きしますが……霊媒師というのはどういったご職業なので?」


 霊媒師という言葉を聞いた時から、何をする仕事なのか——言葉からある程度予想はつくが——ずっと気になっていた。一抹の胡散臭さを払拭するように、失礼だと思いつつも訊いてみる。


『何だ? 随分と興味があるようだな? まあいい、調度いい質問だ。これについてはお前も知っておく必要がある。俺たち霊媒師の仕事は——言ってしまえば霊的な治安を守ることだ。治安を守るという点では警察と変わらないな。いや、霊媒師も警察のようなものか』


 そう前置きして、話を続ける。


『さっきも言った通り、人間は死ぬと魂だけの状態になる。肉体という器がなくなり、そこから中身の魂が抜け出すのを想像して欲しい。魂だけが漂って存在している状態が霊だ。ほとんどの霊は自分が死んでしまったことを受け入れて成仏、あの世へと旅立つ。だが、なかには死んでしまったことを受け入れることができず、周囲にいる人間を恨むようになる霊が稀に出現する。そういった悪霊や怨霊を除霊、あるいは封印することを生業とするのが俺たち霊媒師の仕事だ。警察が生きた人間を相手にするのなら、霊媒師は死んだ人間を相手にする治安維持機構だ』


 説明の中に出てきた「俺たち」という主語に病沢は反応した。


「『俺たち』っていうことは羽宮さん以外にも霊媒師がいるってことですか?」


『もちろんだ。全国津々浦々、霊媒師が配置されている。といっても人数は少ない。霊媒師としてやっていくのは特殊な才能が必要だからな』


「霊感?」


 病沢が知っているのはネットに上がっている嘘が本当か分からないようなオカルト話だ。生まれつき霊感のある寺生まれの人だったり、イタコや霊能力者の話とかそういった類の話である。誰もが生きていれば一度は目にするような話であるが、いずれにせよ創作物という側面が強い。そういった話にはいかに霊感という謎の力を持っている登場人物が必ずといっていいほど登場するのだが——。


『霊感か……。その呼び方もあることは知っているが、実際は霊感と呼ぶべきものではないないかもしれないな。言葉では表現しにくい。ただ俺のように特殊な才能に恵まれた人間は、そういった目に見えない霊の類を認識することができるのは確かだ』


 珍しく羽宮は言い淀んでいた。

 ぶつくさと言った後、ようやく考えが纏まったらしく病沢に説明を再開する。


『霊感を言葉で説明するのは難しい。あえていうのなら霊感とは気づく力だ。事象に対する感覚的な理解だといってもいい。そこにあることに気づく能力のことだ』


 そうだな、と羽宮が何かを考えるように唸る。


『——お前はこんな話を知っているか? ブラジルのある先住民族は5以上の数字を数えることができない。何故なら、その民族には5以上の数を現わす言葉が存在していないからだ。これから分かることは人間が感覚的に理解できる数は4までが限界で、それ以上の数は言葉として知っているだけに過ぎないということだ。4までは認識。5以上は知識だ。霊感という才能は、その数字で例えるのなら5以上を知識でなく感覚で捉えることに成功した者のことを指す。』


「えっと……?」


『例えが難しいか? それなら雪という言葉を思い浮かべて見てくれ。お前は雪という言葉を思い浮かべた時、何を連想した? さらさらとした雪か? それともシャーベット状の水分を含んだ雪か?』


 羽宮の説明はさらに続く。


『東南アジアのように熱帯地域に住んでいる人間が雪という単語を思い浮かべても、雪を体験していない人間には、触った時の冷たい感触も肌の上で溶けていく雪の冷たさを連想することができない。それと同じように魂や霊の存在を感じ取ったことのない者には、その存在に気づくことができない。だから魂を感じ取ることができない人間は霊の存在を感じ取ることはできない。あるいは自転車に乗れない人間に自転車の乗り方を聞かれても形式知ではなく暗黙知だから答えようがないだろう? それと同じことだ』


「……???」


『4と5の間にある壁を超えることができるかどうかが分かれ目だ。6や7といったそれ以上の概念も5を体験してさえいれば知識次第で感覚として理解できるようになるだろう。生まれつき才能ある者は初めから壁を超えて5というものを知っている。だから、特別な訓練をしていなくても霊能力が備わっている。稀に前世の記憶を持っていたりする人がいたり臨死体験をした者が能力を会得するスピードが高いのはそういった事情のせいだと考えられている』


 病沢は考えることを放棄した。


『生まれつきの才能がないものが後天的に霊感を身に付けようと思ったら、まずは感覚的な理解から始めなければならない。ある種のスピリチュアル体験が必要ということだ。自分の魂や他の魂の存在を感じ取れるような——。多くの人は魂だけになった時、つまり霊になったから初めて5の壁を超える。そして自然の流れに沿ってあの世に旅立っていくというわけだ。死んでしまえば誰だって霊能者……という訳だ。まあ、当然だ。魂だけだからな。嫌でも感覚的な理解をするだろうよ』


「??? 分かったような分からないような……」


 病沢の言葉に羽宮が反応する。


『今は理解できなくて構わない。頭の片隅にでも置いておいてくれ。時が来れば理解できるだろうさ。だが、忘れないでおいてくれ』


 そういうものなのか、と病沢は強引に自分を納得させる。

 それよりも今は先に本題に入る必要があった。


「あの本当に助けて貰えるんですか? ここは異界だっていいましたよね? それって一体何なんですか?」


 羽宮が霊媒師であり、それを生業にしていることは分かった。

 問題は自分が置かれている状況だ。


『今回の一件で厄介なのは、お前さんが異界に引き込まれてしまったということだ。異界とは現実から切り離された世界——神隠しという言葉が聞けば、おおよそどんなものか見当はつくんじゃないのか?』


「それって、人が忽然と姿を消すっていう——」


『そうだ。ある日、いきなり人が消える。世間では迷信だと思われていることだが——ほとんどのケースでは口減らしだったり子殺しだったりを隠すために神隠しだと称しているものが多い。だが稀に、本当に人間が他の世界に迷い込んでしまうことがある』


「……ここで?」


 病沢は店の中に目を走らせた。

 24時間営業し、お弁当やお菓子といった食べ物や飲み物はいうに及ばず、いまや衣類や日用品、ATM、コピー機、タバコ、本や雑誌といったあらゆる商品やサービスまで取り扱うコンビニエンスストア。

 

 利便性と大量消費文化を突き詰めた現代のコンビニで神隠しというのはあまりに似合わない。


 神隠しというからには、神社とか人気のない山の中とか、もっと雰囲気のありそうなところで起こりそうなものだ。荘厳で清浄な雰囲気がある、いかにもパワースポットだと感じるような神社がある山奥なら分からないでもないが——。


『今回の神隠しは神が起こしたものではなく、その異界を作った怨霊が引き起こしたことだ。そこは現実のコンビニとそっくりだが本物ではない。その証拠に、お前が外を見た時、敷地の外には何もなかっただろう?』


「…………」


 病沢はチラリと屋外に目を向けた。

 遠くでデイリーエイトの電飾看板がぽつんと光っているのが見える。他に目立った光源はなく、神庭を除けば周囲には先が見通せないほど濃い闇が広がっているだけだった。


『意外に思うかもしれんが、魂だけになった霊には寿命というものが存在する。生きている間は肉体が蓋となっているおかげで魂はすり減らずに済んでいるが、死んだあとは魂を守る方法がない。露出した魂は数日もすれば摩耗して、強制的に成仏してしまう。本人の意思とは無関係にな』


 病沢は電飾看板を見た。

 コンビニのロゴマークを表す8のアラビア数字がチカチカと明滅している。


『だが困ったことに霊には感情がある。大抵の人間は死んでしまったことを嘆きはするが、それを受け入れて自然と成仏する。だが、これには例外がある。悲惨な死に方や強い怨みを持った霊、強い後悔の念を抱いた霊は、復讐を果たそうとしたり、生前の未練を引きずって、そこに留まろうとする。挙句、生きた人間に害を成すことも厭わないようになり霊障を引き起こす。お前がここに囚われてしまったのがいい例だ』


 自動ドアのガラス映った自分の姿を見つめる。


「こんなことが日本ではしょっちゅう起こっているんですか?」


 途方もない話に、病沢は少なからず驚いた。

 自分が知らないだけで霊がそこら中にいるのなら、これまで平和だと思っていた日本という国は表向きだけで、実際は常に危険と隣り合わせだったのではないだろうか? 

 そう深刻そうに尋ねる病沢に対して羽宮は笑いながら答えた。


『まさか。ここまで大事になるケースは稀だ。俺も自分のことを霊媒師だと名乗ったが、普段はそんな大それたことはしていないさ。どちらかという日々の課業は営業車に乗って、訪問介護に近いことをやっている』


 頭を疑問符を浮かべる病沢に、羽宮が捕捉する。


『霊媒師と聞けば除霊する様子を思い浮かべるかもしれんが、今日日、悪霊や怨霊と対峙する霊媒師なんて極稀だ。日本人の死因は大抵が病気や老衰で、事故や他殺なんてのは少ない。言い方は少々荒っぽいかもしれんが、その程度の死に方で成仏を渋るなんて真似はしないのさ。みんな何だかんだで死を受け入れて成仏する。……大抵の場合はな』


 そう前置きする。


『俺はこの地域一帯を管轄として霊の動向に目を光らせている霊媒師だ。死んだ人間がいれば、そこに行って連中の様子を見守る。成仏を渋っているのなら未練をヒアリングすることもある。簡単な未練なら、その解消を手伝ったりすることもあるしな。死んだ人間が成仏して初めて一つの仕事が終わる』


 カウンセラーみたいだなと病沢が思う傍ら、思い出したかのように羽宮は軽く笑った。


『最近メインとなっているのは……大抵老人どもの世話だよ。脳梗塞や心筋梗塞が死因なら霊の意識もハッキリしていて成仏に手間もかからないんだが、認知症を患っていたご老人の場合は——まあ、無害なんだが、少々手間がかかる。そもそも頭がボケているせいで話は碌に通じないし……死んでしまったことすら自分で忘れてしまっている。認識することもできない。これじゃあ、自分の死を受け入れる以前の話だ』


「それで介護って言ったんですか?」


『そうだ。ボケ老……用水路に落ちた徘徊老人の元へ、毎日のように様子を見に行ったりとかな。本人が納得して成仏することができないのだから、魂のエネルギーが尽きて自然と成仏するのを待つしかない。と、まあ、あれだ。日本の高齢化に伴って霊媒師も介護の仕事する時代ってことだな』


「揺り籠からあの世まで?」


 どこかで聞いたフレーズを口にする。

 それがウケたらしく、またしても電話の向こう側で羽宮の笑い声が聞こえた。


『そういうことだ。この国は本当に手厚いよ。おっと話が逸れたな」


 羽宮が一呼吸置いてから、溜息に近い嘆息を吐き出す。

 和らいだ空気が再び重くなるのを感じた。


『普通の霊が悪霊化するにしても段階ってものがある。霊になったばかりの時は茫然自失として、状況がよく分かっていない。だが、時が経つにつれて死んでしまったという事実を否応なしに突きつけられる。いくら目を背けても現実は変わらない』


 やや声を穏やかにして羽宮が説明を続ける。


『その時、死を受け入れて成仏する人間とそうではない人間に分かれる。そうでない人間は、自分が死んだのはアイツが悪いとか、こうなってしまったのはアイツのせいだとか他責思考に陥る。そうなったら危険信号だ。さっきも言った通り、霊にも寿命がある。納得していようがいまいが成仏することになるのが自然の流れだが、他責思考の強い霊は、手段によらず自分を魂の寿命を延長して復讐や未練の解消を試みようとする』


 そう言うと羽宮は鼻から大きく息を吐き出す。


『例えば、自殺スポットで自殺した人間が霊となって、他の人間を自殺するように誘いこんだりとかだな。誘い込み、そこで自殺した人間の魂を自分のものに……つまり魂のエネルギーを己の糧として寿命の延長を図るようになる。君が囚われているその場所も、霊が糧を得るために形成された異界だ』


「……その話を聞いているとかなり不味いことに巻き込まれている気がするんですか」


 病沢は自動ドアから顔を背けて、洗面台がある方向に目をやった。

 オレンジ色の電球がパチパチと音もなく激しく明滅している。


 チカチカ、パチパチ、チカチカ、パチパチ。


『実際のところ、かなり厄介な状況だ。そもそも異界を形成できるのは力を持った神や妖怪、妖精といった高位の存在に限られる。たかが人間の霊ごときにできる芸当ではない。つまりお前をここに閉じ込めた元凶は悪霊とかそんなレベルに収まるレベルじゃない怨霊ってことだ』


 洗面台がある場所から目を逸らし、苦々しく口調になった羽宮の声に耳を傾ける。


『過去にも怨霊が異界を作り出した例はある。だが大抵の場合、ろくなことにはならない結末を迎えるのは確かだ。一度、そこに足を踏み入れてしまったら最後、何人といえども多大な犠牲を強いられる』


「…………」


『異界はいわば箱庭の世界だ。現実と切り離されているがゆえに、その異界を作り出した元凶の意のまま。元凶が望まない限り、現実の世界から異界に行くため道が閉ざされている状態にある。異界に行くことができない以上、霊媒師は異界にいる怨霊に除霊をする術を持っていない。だから日本には、そういった異界に繋がる場所があるのを知りつつも、どうすることもできずに廃棄、閉鎖することしかできなかった場所もある』


 病沢は急に四方から壁が迫ってくるような圧迫感に襲われた。羽宮の話を聞くほど、自分が非常に困難な状況に置かれていることが否応なしに理解できてしまう。今の病沢は異界の中で孤立無援。ここから抜け出すのは——


『普通ならそこから出ることはできない。だが方法はある』


「……方法?」

 

 思わず、訊き返した。


『君だ。病沢くんが異界にいる。本来、異界を形成した元凶が望まない限り、外部からここにやってくることはできない。だが、その異界と何らかの縁を持った人間や物があれば話は別だ。過去のきさらぎ——いや、過去のケースでは、元凶となった霊と接点を持った人間の協力のおかげで異界に行くことができたと聞いたことがある。君には実感がないかもれしないが、こうして対話を続けることで私と君の間には縁ができている。それを辿れば、君がいる異界に私が助けにいくことも可能だ』


「……本当ですか?」


 目の前に蜘蛛の糸が垂らされたようなイメージが浮かんだ。


『俺が直接助けに行く。だが、すぐって訳じゃない。さすがに異界を作るほどの力をもつ怨霊が相手だと多少なりとも準備が必要になる。急ピッチで準備を進めるにしても時間が欲しい』


「……どのくらい?」


『二日。二日あれば必要なものが揃う。だから、それまでは辛抱してほしい』


 病沢は自動ドアとトイレの間の通路を速足で行ったり来たりする。


「……二日? 待って! もっと早く救助に来れませんか? そんなに長い時間、ここにいるなんて耐えられない。あの女は俺をまた襲いにくるつもりです。その間、私はどうやって——」


 早口で喋る病沢を羽宮の落ち着いた声が遮った。


『確かに私が干渉したことで、その異界の作った元凶は私の存在に気づいただろう。何か仕掛けてくるはずだ。だが、すぐに君を殺すような真似はしないと思う。その異界を作り出した元凶は、君の魂を糧として余すことなく利用するつもりだ。すぐに殺そうとしないのは、君が恐怖したり絶望することによっておこる感情をエネルギーとして利用するためだ。みすみす殺すなんて勿体ない真似はしないだろうさ』


 スマホを握る手に力が入る。

 彼の言うの話は憶測に過ぎず、すぐに殺さないという保証はない


「うー……」


 確かに、すぐに殺そうと思っている訳ではないようだ。

 恐らく、羽宮の判断は正しいだろう。除霊を生業とする霊媒師がいうのだから、彼の言葉に従った方が賢明なのはいうまでもない。

 相手を急かしたり、何か他に方法はないかと羽宮に詰め寄ることもやろうと思えばできる。

 だが、オカルトに門外漢である自分が思いつくアイデアなど役に経たないのは分かり切っている——。


 病沢は自分の唇を強く噛んだ。

 観念したように肩から力を抜き、覚悟を決めたとばかりに病沢は丁寧な態度で取り繕うのを辞める。


「助けてもらう立場で何ですが——頼むから早く来てくれ……! こっちは気が気でないんだ。こんなところに居たら、頭がおかしくなってしまう!!」


『可能な限り早急に準備を整えて、そちらに向かう。それまでお前さんは向こう側に吞み込まれないように耐えて欲しい。お前がやられて向こう側に染まってしまったら、俺にはどうすることもできない』


「……助けに来るのは羽宮さんだけですか?」


『本当なら他の霊媒師の力を借りるところなんだが……それだけの時間はなさそうだ。上層部に稟議を回すような時間はない。俺が独断でお前を助けに行くべきだ。時間がかかればそれこそ連中の餌食になるだろう。直ちに準備を整えて、そちらに向かう。今ならまだ異界は完成しきっていない。一分一秒が惜しい』


 病沢はその言葉を聞いてややホッとした。

 少なくとも自分を助ける気はあるらしい。


『いいか。俺が行くまで何としても持ちこたえてくれ。絶対に諦めるな!! 俺は早速、準備に取り掛かる。だから、一旦これで交信は終了だ。次に会話をするのはお互いに顔を合わせてからになるだろう』


「約束して下さい。絶対に助けに来ると、さもなければ私は——」


 その時、スマートフォンから雑音が発生し、言葉が搔き消された。

 

『気…付けろ!! 妨害——…………——…………——。二日——ザザッ——ザザザザザザザザザザザザ————』


 その一言を最後にスマートフォンから聞こえてくるのは雑音だけになった。

 

「は、羽宮さん……!? 聞こえますか!! こんな時に……!!」


 焦って、耳元に当てていたスマホの画面を見ようとした。

 しかし、画面はひび割れだけで何も映っていない。通話が終了してしまったのか、それとも現在も通話中なのかさえ分からない。


 再び、スマートフォンを耳に当て、羽宮の名前を呼ぼうとした。

 しかし——


『店内でのお電話のご使用はご遠慮願います。お客様』


 女性の声。

 雑音は完全になくなっていた。直に耳元で女が囁いているようにすら感じられる。


 病沢はギョッとして手に持っていたスマートフォンを手から落とした。いや、落としたのではない。病沢は遠くに放り投げたのだ。


 直後、放り投げたスマートフォンは近くの窓ガラスに衝突した。

 黒い煙と白い煙をシューっと吐き出し、次の瞬間には煙は火に変わっていた。ボンっという小さな爆破を起こした後、液晶ガラスや基盤の部品が破片となって爆散。

 病沢は目を瞑り、顔を手で覆い隠して咄嗟に身を守ろうとしたが、一歩遅く、少なくない破片が顔の皮膚に突き刺さった。

 痛みより驚きが勝った。

 小さな叫びを漏らすと、病沢は近くの棚に背中から倒れこむ。

 体重を受けて、商品陳列棚が大きくズレた。


 ヨロヨロと立ち上がり、目を開けた時、はたと気づく。

 ドン、ドン、ドン——


 何かが衝突するような激突音がトイレのある方向から聞こえてくる。

 店の中に流れていたピアノの演奏は終わり、店の放送は再開していた。


『ご来店中のお客様にお願い申し上げます。当店ではお客様の迷惑となりますので、来店中、携帯電話での通話はお控え願います』


 大きな激突音の合間、放送から押し殺したような笑いが甲高い笑い声へと変わった。何が面白くてそんなに笑っているのか——


 再び、トイレのドアが大きく軋んだ。

 

 病沢はおもむろに自分のベルトの間に挟んでいたハサミへと手を伸ばす。

 グリップを掴んだ時、軋む音を立てながら、トイレのドアがゆっくりと開いた。女がトイレからゆっくりと姿を現すのを見ながら——病沢は唇の端に笑みを浮かべた。

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