第11話.交信
放送から声が聞こえなくなった時、店の中にはピアノの演奏だろうかBGMが流れ始めた。自分に纏わりつくように感じていたねっとりとした視線は消え、店内に蔓延していた嫌な気配が薄くなる。
病沢は一人立ち尽くしていた後、徐々に正気を取り戻した。
——このままではいけない……。
病沢は重い足取りで床に散らばるポテチの欠片を踏みつぶし、カウンターまで戻ってくると、パイプ椅子に腰を落ち着けた。
(外に出るための手段は……ないだろうな)
体を脱力させなが何もない天井を見る。
既に外に出るための出口はさんざん探し回った後だ。
唯一の出口となる正面の自動ドアはどうやっても壊れず、そこから外に出るのは不可能だということも骨身に染みて理解できている。ならば、目下考えるべきは、女が襲ってくるまでの間に自衛するための準備を整ることぐらいしかない訳だが——
病沢は溜息をつこうとして目を細めた。
乾燥した喉のせいで乾いた咳ができそうになる。
(クソッ、暑いな……水分だけでも摂らないと)
激しい運動と緊張、さらには過剰に効かせた店内の暖房のせいで病沢の体は乾いていた。水分が欲しい。この渇きを癒すための。
もうぬるいコーラでもなんでも構わない。病沢は目の前にあるコーラを掴んでプルタブに指かけた。しかし——
—— 商品には毒の類は入っておりませんので、どうぞご安心して口にして下さい。
という、あの女の言葉が蘇る。
「……やられた」
この状況でそれを口にされてしまったら誰が安心して飲食できるというのだろうか?
自動ドアのガラスが再生し、トイレのドアから非現実的な存在が現れて襲ってくる中、どうして店の飲食物が安全だといえるのだろう。
先ほどもポテチの袋が爆散したのを目の当たりにしたばかりではないか。
コーラの中に毒——それこそ何らかの変化が起こっていても不思議ではないのだ。あの一言のせいで、ジュースの一本さえ飲むことができない。怪奇現象か何かが起きて、コーラに口をつけたら、なぜか髪の毛が入っていた——ということさえ起こってしまうかもしれないのだ。
病沢は乾いた唇を舐めると、手に持っていたコーラをカウンターに戻す。
(武器——何か武器があれば……)
自身の渇きから気を逸らすように、別のことを考える。
女は自ら再び病沢を襲うと公言した。
ならば、このまま手持無沙汰のまま待つというのは愚策に他ならない。いずれ襲ってくるのだから、何か武器になるようなものを探すべきだ。さすがに今度もパイプ椅子で戦うわけにはいかないだろう。
病沢はヨタヨタとした足取りで、武器になりそうなものを探し回る。
包丁でも置いてあれば、と従業員が使用するキッチンへと足を運ぶが、期待とは裏腹に刃物は見つからなかった。どうやらキッチンとは名ばかりで、唐揚げやコロッケといった冷凍食品を揚げるのがせいぜいらしく、包丁で材料を切ったりすることはないようだ。
苦労の末、見つけたのは武器と呼ぶにはあまりにお粗末な品物だった。
文具コーナーにあったハサミ。一般的な事務用品として使われるどこにでもありそうなハサミを見つけた。他にまともな刃物、武器として使えそうなものが見つからなかった。文具コーナーにはカッターもあったが刃物として使うにはあまりに頼りなさすぎる。ハサミならば切るのではなく突き刺すようにすれば使えないこともない。そう考えた病沢はハサミをズボンのベルトの間に挟むが——。
(ハサミをベルトの間にハサミ込んだ——って……はあ……こんな時に何を考えているんだか。はあ……喉が乾いた。口の中がカラカラだ。息をするのも辛い)
護身用の武器を探している間はまだ気が紛れていたものの、とうとう自分の渇きを誤魔化しきれなくなった。水分補給がしたい。ここは暑すぎる。火照った体が水分を欲しているのだ。ただ喉を潤したい。この渇きを潤したい——。
気づけば、病沢の足は冷蔵庫へとドアの取っ手に手をかけていた。
ドアを開ければ、火照った顔に冷蔵庫の心地よい冷気が吹き付ける。
500mlのコーラ缶。
黒くて甘い炭酸が病沢のことを誘惑する。
病沢の視線はコーラに釘付けとなり我慢の限界が訪れていた。
頭の中では飲まないほうがいいと理性が警報を鳴らしているが、病沢の体は欲望に忠実で、それを飲めと病沢に訴えかけているのだ。キンキンに冷やされていることは手のひらに伝わるアルミ缶の冷気が教えてくれる。これを飲めば自分の渇きが癒されるだろう——。
黒く甘い液体を飲み干す瞬間を想像した時、理性は忘却の彼方へと追いやられた。
——もう我慢する必要はない。
病沢は欲望に負けた。
ただ欲望のままに、無心で液体を飲み干そうとコーラを掴む。アルミ缶のプルタブを開けようと指に力を入れるが、ぬるぬるとしてうまく指先がプルタブに引っかからない。ボンヤリとした視界には爪が禿げた指が映る。
何度か四苦八苦し、ようやくプルタブが人差し指に引っかかってくれた。
もどかしから解放される寸前、病沢が指に力を入れプルタブを開けようとした時——
——ブゥゥゥゥ、 ブゥゥゥゥ 、ブゥゥゥゥ
その時、病沢は正気に戻された。。
自分のズボンの中で振動が起きている。
病沢はコーラ缶から指を離すと、片手でコーラを持ちながら、ポケットからスマホを取り出した。ほとんど画面は見えない。しかし、誰かから電話がかかってきていることは分かる。
病沢はコーラ缶を握り、画面を見たまま固まった。
画面は見えなかったものの、何となくタッチすべき場所は分かる。辛うじて画面の明暗から指でタッチすべきが場所が分かったのだ。
「えっ、困る……」
この状況で真っ先に考えられるのは、さっきの放送をしていた女が病沢を恐がらせるために電話かけてきたという可能性だ。
電話に出た途端、大音量で絶叫や悲鳴が聞こえてきたとしても驚かない。
その時、店内に流れていたピアノの演奏が止まった。
嫌な静寂が生れ、どこからか自分に纏わりつくねっとりした視線が復活している。辺りには邪な気配が漂っていた。
病沢は自分の胃がキリキリと痛むのを感じた。
とうとう女が準備を整えて自分を襲ってくる時がやってきたのだろうか、と身構える。
店の中で、ボッという雑音の後、息を吸い込む音が聞こえた。
放送が再開した。
『あー……えー……、ご来店中のお客様にお願い申し上げます。当コンビニではお客様の迷惑になりますので、店内で携帯電話のご使用による通話はご遠慮ください……困ります』
病沢は迷った。
手の中で震える自分のスマートフォンと店の天井付近に交互に目をやる。
誰かからの着信。
画面をタッチすれば、電話の向こう側にいる人と話すことができるかもしれない。ここから脱出すうるために外部にいる人の力を借りることができればコンビニから外に出ることができるかもしれない。そう考えた病沢だったが——
(——どうせ、また女が自分を怖がらせようとしているに決まっている)
振動するスマートフォンを見つめる。
人が怯える様子を楽しんでいたサディスティックな女。藁を掴む思いで電話にでても、向こう側から聞こえてくるのは女のヒステリックな笑い声だけだろう。どうせこれも女の嫌がらせ行為に決まっている。
人間を最も落胆させ絶望させる行為とは、一度希望を持たせておいてから、それを簒奪することだ。手に入ると分かっていたもの、元々持っていたものが奪われる瞬間に人は強い絶望を覚える。
同じ罪を犯した経験があるからこそ、女の手口が分かってしまう。
一度は大会への参加を断り、グレイを落胆させてしまった自分だからこそ分かるのだ。希望が高くなればなるほど、欲しければ欲しいほど、それが叶わないと分かった時の絶望は深く、人をガッカリさせる。
この女はそれを熟知しているのだ。
このタイミングで外部から電話がかかってくるなど、いくら何でもできすぎている。助けを呼べるかもという希望を見せてから自分を絶望させる気なのだ。これも女の仕掛けた悪趣味な罠としか思えなかった。
『電話に出るな。勝手なことをするな』
無機質な声が店の中に響く。
その反応から、やはり向こうは自分に電話に出て欲しいらしい。あえて、するなと咎めることで都合の悪いことだと演出する常套手段——。
——いいだろう。出てやるよ。
病沢は応答の文字が浮かんでいるであろう場所をタッチした。
そして耳元にスマホを当てる。電話の向こう側にいる相手が喋りだすよりも早く、先手必勝。先に言葉をぶつける。
「俺を一体どこから監視している? 直接、俺を殺しに来たらどうだ? こんなまどろっこしい手なんて使わずにさっさと蹴りをつけたらどうなんだ?」
希望を折ろうとする相手からの一手。
お前の手など分かっている、と電話の向こう側にいる相手に向かって声を張り上げた。
直後、聞こえてきたのは雑音。
昔ながらのラジオの波長を合わせるときに聞こえるような雑音だった。
「…………?」
眉を寄せながら、キーンという耳鳴りにも似た不快な音に耳を澄ませる。スマートフォンのスピーカーからだけではない。店全体、店内放送からも同じ雑音が流れているのだ。
『……て。そ…は……見……って……う』
店の放送から聞こえる女の声は雑音に埋もれて、聞こえなくなった。
やがて、黒板を引っ掻いたかのような不快な雑音が収まっていく。
『——なら、私の呼びかけに応じなさい』
音声がクリアになり、聞こえてきたのは男性の声だった。
電話の着信は、サディスティックな女ではなく、病沢がまったく知らない未知の人物からの電話であった。
(人間なのか? まさか本当に電話が繋がった……?)
目の前には、ここから抜け出すための蜘蛛の糸が垂れさがっている。
八方ふさがりのこの状況で、その糸は今の病沢にとってひどく魅力的に映つる。女が声色を変えて自分を騙している可能性があることを念頭に置いても、「もしかしたら」と電話を切ってしまう気にはなれないのだ。もしかしたら本当に外にいる人間と電話が繋がったのかもしれない、と。
病沢は顔に苦い笑みを浮かべた。
僅かでも可能性があるならば、今はそれに縋るしかない。そのためには、たとえ望みが薄かったとしても、茶番を演じることになっても、決して諦めることはせず、報われると信じて行動しなければならないのだ。
「……う? あっ……も、もしもし!! 聞こえていますか!!」
電話の向こう側にいる人物が息を呑むのが分かった。
『聞こえてる。お前は——』
電話から聞こえてきた声の低さから、相手は男性だということが分かる。
声に幼さや自信のなさは感じられない。壮年の男性のようなしゃがれ声でもない。病沢の予想では30台後半から40台に差し掛かった年齢の男性——という気がした。自分と同じくらいか、近いくらいの年頃だろう。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
一刻も早く自分の状況を伝え、助けを呼ぶことが先決。
この状況では、いつ電話が切れるか分かったものではない。あれこれ言い淀んでいる間に、電話が音信不通となってしまったが最後、今度こそ家に帰るための手だてを失ってしまう。
病沢は相手にどう話を伝えるべきか思考を巡らせる。
頭の中はひどく冷静だった。
要点を絞って、相手に必要なことだけを落ち着いて話す自信はある。だが——
(……落ち着いて、か。そんな態度で信じてもらえるだろうか?)
下手に落ち着いた態度で電話をやり取りしたら……それは信憑性という点で問題があるのではないだろうか?
それが心配だった。命の危機に瀕している人間が、ひどく冷静な口調で話しているのを聞いたら、人によっては首を傾げてしまうだろう。コイツは本当に切羽詰まっているのか、と。
声のみでのコミュニケーション。冷静な口調で病沢が話したら、かえってそれが仇となってしまうかもしれない。最悪の場合、イタズラ電話だと思われて会話を打ち切られた、ということもありえるだろう。
——決めた。
落ち着いた口調で話をすることはしない。
ひどく混乱しており切羽詰まった状況。それが電話越しに伝わるような口調とテンポで話す。焦っている様子を見せなければ、事の重大さが伝わらない。ある程度、演技じみていたとしても必要ならばやるだけだ。
——うまく演じてやる。
病沢は胃がキリキリ痛むのを感じながらも大きく息を吸い込んだ。
ここが一番重要、絶対に自分のことを信じてもらわなければ……。
「助けて下さい!! 今、コンビニにいるんですが外に出られなくて!! 変な奴に襲われて怪我をしているんです。とにかく助けて下さい!! 場所は——」
怯えた声で、相手の返事を待つことなく、必要なことを一気に伝える。
まずは自分が助けを必要としていること。緊急性。そして自分がいるコンビニの場所を手早く伝える。最低でもこの三点さえ伝われば、途中で通話が途切れたとしても電話の相手は病沢を助けるために行動できるはずだ。
ただし、病沢のことを襲ってきたアレのことは口に出さない。「幽霊に襲われた」とでも口にしてしまえば最後、確実に悪戯だと思われる。
コンビニのある詳しい場所を病沢が言い終えると、今度は男が答えた。
『待て……お前は誰だ?』
男は明らかに病沢のことを警戒している様子だった。
「私は病沢……病沢光博です。コンビニに買い物をしにきたら突然誰かに襲われて——助けて下さい。今は誰もいないみたいなんですが、自動ドアが故障しているのか外にも出られなくて……お願いします。私を助けて下さい!!」
声が自然と震えた。
人との会話は久しぶりで、慌てふためくフリをするまでもなく、自然と声が乱れたのだ。早口で支離滅裂なことを言っているように聞こえたかもしれないが最低限の要点は抑えた。
『……なるほど。よし、分かった。詳しく事情を教えて欲しい。まずはもう一度場所の確認をしたい。それからいくつか確認したいことがある』
危ない状況にいることは相手にも伝わったのだろう。
通話は終了することなく今も続いている。少なくとも、イタズラ電話だと思われて通話は打ち切られていない。いや、まだイタズラ電話か否か判断に迷っているとも考えられる。
——絶対に自分のことを信じさせてやる。
向こうは半信半疑の段階でまだ病沢のことを信じ切っていない。
無理もないことだ。コンビニで襲われて怪我をしているから助けを呼んで欲しいと言われたら、誰だって不審に思うだろう。
そもそも、
「今、お前が手に持っているスマホで警察に連絡したら?」とか当然の疑問を思い浮かべるに違いない。だが、今はこちらの事情を逐一教えている暇はないのだ。
——とにかく一刻も早くこちらに来てもらわないと困る。
「いいから、警察に連絡してください!! いつまた襲われるか分からないんです!!。とにかく助けを呼んでください!! お願いです!!」
スマホを耳に当てながら空いた片手で自分の顔を撫でる。
汗ばんだ額から吹き出す汗が不快に感じるのに、手に持っていたコーラ缶は冷たい。
——邪魔だ。
病沢は居ても立っても居られず、通路を行ったり来たりする。コーラを元の冷蔵庫に戻さず、適当にアイスクリームや冷凍食品が押し込められている冷凍庫に放り込んだ。
『助かりたければ質問にちゃんと答えろ。助けようにも詳しいことが分からないことには助けられないだろ?』
電話の男は強い声遣いでそういった。
藁にも縋る思いで助けを懇願する病沢に対して、電話の向こう側にいる男は焦る様子がない。
「す、すみません……。焦っていて、それで、その——」
病沢は手についた汗をズボンで拭った。
男の態度が怖い。やはりイタズラ電話ではないかと疑っているようで、嘘をついていないかジャッジを下さそうとしているように感じられた。口の中に溜まった唾液をゴクリと飲み込み、相手の言葉に耳を傾ける。
『いいから落ち着け。で? お前はコンビニにいるんだってな。それは確かか?』
「……は、はい。コンビニの中です。外に出るための自動ドアは壊れていて……店には他の出口もないようで、怪我もしているし、ここから動くことができないんです」
そこから男からの質問が続いた。
まずはコンビニのある詳しい場所と店の中の様子、入店した思われる時刻を問われた。さらには病沢の年齢と生年月日はゆうに及ばず、病沢の名前を再度問われた時に至っては、使われている漢字を一文字ずつ正確に質問された。
『変わった名前だな。字はどういう字を使うんだ?』
「ええっと……病院の病に、さんずいの沢で病沢。光るという字に博士の博で光博……です」
『コンビニに来た目的は?』
「えっ……目的……? ああ……買い物です。年越し蕎麦を買いに。あの……ほらカップ麺の」
『年越し蕎麦?』
意外そうな声で問い返された。
「ええ……大晦日なので蕎麦でもと思ったんですが、今の時間帯じゃあスーパーはやっていませんから。アパートの近くにあるコンビニでカップ麺の蕎麦でも買おうと思って——」
『ああ、そうだったな。仕事は何をしている? 職場はどこにある?』
「仕事ですか? 工場の製造現場で働いていますが……」
自分が働いている会社の名前と住所を伝えるが、病沢の表情は怪訝なものになるばかりだった。
質問の内容は重要ではない——実にどうでもいい——としか思えないものばかりだったからだ。イタズラ電話だと断定した男が、自分のことを馬鹿にするためにどうでもいい質問をしているのではないかと疑ってしまう。
『一人暮らしか? 家族はいるのか?』
「えっ……? いや、その独身寮で一人暮らしを……」
『いない……? そうか。なら、交際中の女性はいるか?』
「はい? いや、あの……いないですけど」
病沢は顔をしかめ、不機嫌な声で否定する。
恋人の有無を訊かれた辺りから、やはり不信感ばかりが募っていく。
どうでもいい質問に終わりがない。
痺れを切らした病沢は、自動ドアが今も開かないことを確認するようにドアの前まで歩いていく。なぜかセンサーが直って外に出られた——はずもなく、やはり入り口は固く閉ざされていた。
『他に誰かと一緒じゃないのか?』
「……私一人ですよ。お店に入店してから店の中には私しかいなくて。店員さんもいませんでした」
自動ドアの前、ガラスには薄っすらと自分の姿が映っている。
『そうか。他にお客さんはいないのか?』
「あの……!!」
ついに苛立ちを抑えられなくなり、病沢は語気を強めるのと同時に、自動ドアのガラスを拳で叩いていた。衝撃でガラスが揺れ、薄っすらとガラスに映った自分が揺らいでいる。
「いつまでこんな質問をするんですかっ! これはイタズラじゃないんです!! 頼むから警察を呼んでくれ!! こっちは本当に困っているんだ」
病沢は声を荒げた。
数秒の間、電話の向こう側にいる男は押し黙る。微かに呼吸する音は聞こえるので、通話は切られていないはずだが——
『そうだな。悪かった。次の質問で最後だ』
柔らかい声で謝罪の声を述べられた。
『襲われたと言っていたな。誰に襲われたんだ?』
病沢の表情が固まる。
今の病沢にとって最も都合の悪い質問をド直球に投げかけられた。
「…………」
病沢は唇を噛みながら、その質問にどう答えるべきか迷った。
襲われたなどと聞けば、一体誰に襲われたか疑問に思うのが普通だ。
アレ——幽霊に襲われたと言っても信じてもらえるだろうか?
(……駄目だ。絶対に信じる訳がない)
ここで馬鹿正直に自分が見た怪奇現象のことを言ってしまえば全てが終わりだ。逆の立場だったら、病沢はイタズラ電話だと思って速攻で通話を終了するだろう。しかし、ここで答えなければ、それはそれで悪戯だと思われてしまう可能性が高い。
(……強盗の仕業といって誤魔化すべきなのか?)
強盗の仕業という回答をするのが一番自然な答えだと思われた。しかし、それだと強盗はどこからやってきたのかという質問が飛んできそうで怖い。店には出入口が自動ドアしかないのだから、強盗は動かないはずの自動ドアから出ていったことになる。店の中から出られないという自分の発言と矛盾することになってしまう。そこを指摘されてしまったら、どう言い繕えばいい?
『誰に襲われたんだ?』
再度、同じ質問をされた。
「それは——その、何ていうか……。ああ……その——」
言葉を失い、病沢は押し黙ってしまった。
頭の中で何と言うべきかのか考えるが、相手を納得してくれそうな答えが見つからない。病沢が答えを見つけるよりも早く、スマホから息遣いが聞こえた。大きく息を吸って、何かを決断するような——
『まあいい。大体の事情は分かった。助けてやる』
——助けてやる。
その言葉に病沢の表情は和らいだ。
思わず、グッと拳を握りガッツポーズをとる。
「本当ですか?! ありがとうございます。外にも出られないし、誰とも連絡できないので、どうなることかと——!! 良かった……」
病沢はホッとして、よりかかるように自動ドアに背を預けた。
そして目を閉じて座り込む。
自分の体から緊張が一気に抜けていくのが自分でも分かる。心なしか胃痛も和らいだような気がした。
「それで警察に連絡をとっていただけるのですね?」
『いや、警察には連絡しない』
「えっ……」と返ってきた男の言葉に、病沢は目をパチクリとさせる。
最悪の事態が起きたのではないかという懸念が頭を過る。それはつまり、タチの悪いイタズラだと男に判断されてしまったのではないかという恐れだ。このまま本気にされず、嘲笑された挙句、通話を打ち切られる——まずい、逃げられる。
病沢の体から血の気が引いていく。
相手は引きとどめる言葉を頭で考えるが、どうやっても相手の気を引くような言葉が出てくるか分からなかった。病沢はまたしても沈黙。そして追い打ちをかけるように男はさらに核心を突く、質問をする。
『お前、まだ俺に話していないことがあるな?』
ドキッとした。
幽霊については話していないのは事実だが、話してしまえば誤解を招くかもしれない。隠し事。それがあることが電話越しにも相手に伝わってしまっている。
「いや、それは——」
図星だった。
どうにしかうまく切り抜けないと。
しかし、何と話せば良いというのだ。「幽霊に襲われました」などと言えるものか。それなら「強盗に襲われました」と主張した方がまだ信じて貰えるだろう。
『分かった。質問の仕方を変えよう。お前、変なものを見なかったか?』
「変なもの……ですか?」
思わず訊き返したが、「変なもの」には心当たりがありすぎる。
頭が半分なくなった店員(幽霊)に襲われたこと。
突き破ろうとした自動ドアのガラスが再生したこと。
倒したはずの死体(幽霊)がなくなっていること。
壊したはずのパイプ椅子が直っていること——少し考えるだけでも異常なことしか起きていない。
「いや、その——何というか……その信じてもらえるか分からないというか……」
歯切れの悪い曖昧な返答でお茶を濁す。
口ごもる病沢の反応に、なるほど、と男が唸った。
『お前——外は見られるか?』
「えっ? あっ、はい。外?」
『外だ。お前はコンビニの中にいるのだな? コンビニなら窓ぐらいあるはずだろう。外を見て、何が見えるか言ってみろ』
病沢は相手の言葉のままに立ち上がると、体を反転させて、それまで背を預けていた自動ドアのガラスを覗き込んだ。
ガラス越しに屋外の様子を窺う。
自動ドアの近くには誰かが捨てたであろうタバコの吸い殻が落ちている。逆U字のポールの向こう側には、やや白線が消えかかっている駐車場の白線が見えた。車は一台も停まっていないため、ひどく殺風景な印象を覚えるが——
特段、変わった様子はなさそうだ。
大晦日の夜は静まり返っている。
「何も見えないですよ? 駐車場には車も一台もないですし、電飾看板が見えるだけ。外は真っ暗です。今日は大晦日ですよ……? 外にはコンビニの看板が光っているだけで——」
『もっとだ。もっとよく見ろ』
怪訝な顔になった病沢だが、渋々といった感じで暗闇の中に目を凝らす。
額をガラスにつけるようにギリギリまで近くによるが——
「あれ?」
病沢は違和感を覚えた。
何かがおかしい。明確に違和感の正体に気づいた訳ではないが、引っかかりのようなものを感じた。
『どうした? 何か気づいたのか?』
「……分からない。だけど何かおかしいような……あっ、真っ暗だ。家に明かりが灯っていない」
そこにあったのは暗闇だった。暗闇しかない。
一台も停まっていない駐車場。
煌煌と輝くただ一つの光源であるデイリーエイトの電飾看板を除けば、他に明かりがなかった。
それが異常だ。
ずっと店内にいたせいで、あまり深く考えてはいなかったし、その異常性に気づくこともなかった。
時間帯も真夜中だから暗いのは当然だといえば当然だが、看板以外に明かりが全く見えないのはどういうことだ?
いくら夜でも一件くらいは家の明かりが点いているだろうし、コンビニの前を通る車の一つや二つ通ってもおかしくない。いや、そもそも街灯がない。ここに来る途中まで街灯の明かりを頼りに歩いてきた。それなのに存在しないのだ。明かりが一つも。コンビニの敷地の外には。
「……何もない。外に明かりも家も街灯も……何もかも消えてしまっている」
病沢は言葉を失った。
コンビニの敷地の外には何もなかった。
正確に言ってしまえば敷地の外は完全な闇で覆われてしまっている。そこに漆黒の壁、あるいはベールのようなものがかかっており、敷地の外の様子が一切見えなかった。
真っ黒な暗闇を見た時、病沢の背筋にゾッとしたものが走る。
あの中には何かが潜んでいそうで、明かりが消えた瞬間、自分たちを襲い来るのではないか——そんな妄想が頭を過ったのだ。
病沢は自動ドアから——暗闇から逃れ、店の照明を下へ退避するように後ろに下がった。
耳元で男が話を続ける。
『何もかもが消えている、か。』
呆然とする病沢に耳に男の声だけが聞こえる。
「どうして……。この場所は一体——」
『いいか。そこは簡単に言ってしまえば、現実世界から切り取られた閉じた空間だ。俺たちの界隈では異界と呼ばれている。現世でもあの世でもない。カトリック教徒が死後に行くことになる煉獄ともとも違う。お前は病沢といったな? あんたはその異界にどういう訳か閉じ込められてしまったんだだろう』
「……? 待ってくれ。いきなり何だって? 異界? 待って、待って!! 話が追いつかない」
『気持ちは分かるが、そういうものだと思って納得してくれ。そこは本来の世界じゃない。すぐに信じろとは言わんが、お前も何か普通では起こらないような光景を目にしたんじゃないのか? お前は誰に襲われた?』
「…………」
脳裏でこれまで見た怪奇現象の数々がフラッシュバックした。
『その様子だと心当たりがあるようだな。だが、安心して欲しい。俺がお前を救う。だから、今は俺の言うことをよく聞いて、その通りに行動して欲しい。俺は羽宮。霊媒師をやっている』
自身を霊媒師だと言ってのける羽宮という男に、病沢は絶句するしかなかった。
収まりかけていた胃痛がぶり返し、キリキリとした激痛に苛まれる――。
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