第8話.Daily Eight
アレは小柄な女性だった。
音もなく現れ、暗闇からゆっくりと姿を表す。トイレから真っすぐ出てきたため体の左側面しか見えていない。女性らしい骨格と肩まである髪の毛。顔は俯き気味で、手はダランとさせている
胸騒ぎとは裏腹に、彼女の姿は至って普通だった。
何より彼女が着用しているのはデイリーエイトの制服。
コンビニ店員がトイレから出てきただけで異常な点は何も見受けられない。天井の照明が割れたり、ドアを爆音で叩き続けていたり、隙間から異様な視線をこちらに向けていたこと——それらの出来事をなかったことにすれば、ただの店員がトイレから出てきたように見える。
だが違う。
ゆっくりと中から出てきたのは人のような存在であり何かだ。
生きた人間とは違う。ただ佇んでいるだけなのに猛烈な違和感を与え、忌避してしまうような存在。自分の目には人間として映っているはずなのに脳が異物であると認識している。決して脳のエラーではない。頭の中で原始的な本能が逃げよと警告を発する何かが、そこにいる。
病沢は異様な雰囲気に吞まれ、自動ドアの前から動けなかった。
——迂闊に動いてしまえば相手を刺激してしまう。
今の病沢は真夜中の車道に飛び出してしまった野生動物だ。
猛スピードで迫る危険な存在を目にした途端、体が硬直してしまい逃げることができない哀れな存在。
何をする訳でもなく病沢はアレを見続けていた。
女は微動だにしない。
病沢に向かって顔を向けることもなく、ドアの正面、何もないただの壁に向かって俯いている——。
デイリーエイトの中は時が止まったかのように何事もない。
病沢は自動ドアのまで立ちすくみ、女はトイレの前にある壁に向かって俯くだけ。空調がゴウゴウと生温かい息を吐き出す。極度の緊張と熱に襲われた病沢の顔からは、体液が滴り、雫となって床に落ちた。
一秒一秒の時間が悠久で、とても長いものに感じられる。
だが、静寂は破られた。
それは病沢が破ったのでもトイレの前で佇むアレが破ったのでもない。
運命のいたずらか。
張り詰めた静寂を破ったのは、けたたましいバイブレーションの振動だった。
——ブゥゥゥ、 ブゥゥゥ。
目を落とせば、そこには病沢のスマートフォンが。
音に驚いて手から転がり落ちたものだ。病沢のスマホは雑誌コーナーと日用品コーナーの間の通路の中央に落ちている。常時、マナーモードにしているため着信音はない。しかし、無音に近い閉鎖空間では、ただのバイブレーション音が死ぬほど五月蝿い。
光沢のある床の上で音を鳴らしながら、スマホが踊っている。
「あぁ、上司……なんてことを……」と病沢は一気に悲哀の念が押し寄せるのを感じ——そして絶望した。
音が鳴った瞬間、病沢は床で踊るスマホへと目を移した。数秒に満たないような時間、少しだけ目をやっただけに過ぎない。なのに——次に病沢はスマホから女へと目を戻した時、女は正面を向いていた。
そこにいたのは、やはり生きた人間ではなかった。
頭の半分が潰れていた。
潰れているというよりは陥没していると方が正確な表現だ。右半分の頭骨が割れ、中身が剥き出しになっている。右目の半分は潰れて眼球が飛び出しかけていた。元は整った顔だちだったのに、それが逆に悲惨さを際立だせてしまっている。
凄惨な光景を目の当たりにし、病沢の恐怖を表すバロメーターは振り切れて一周した。
(……俺は夢を見ているのか?)
あまりに現実離れした光景に病沢は呆然とした。
だがしかし、彼はすぐに正気に戻ることになる。
きっかけは小さな音だった。
スマホのバイブレーション音にかき消されがちな小さな水音。トイレの前にあった洗面台から水が垂れているのではない。ぴちゃっ、という音と共に、あの女の割れた頭部から脳髄が床に滴り落ちているのだ。
その小さな音は病沢の鼓膜に確かに響いていた。
それが否応なしに、これが疑いようもなく現実であることを知らしめ、麻痺していた心の呼び水となって恐怖という感情がせり上がってくる。
変化は続いた。
眩しいほど輝いていた店中の照明が明滅を繰り返し始めたのだ。最初はゆっくりとした間隔だった明滅も、すぐに点灯している時よりも消えている時間の方が圧倒的に長くなる。照明の点滅はカメラのフラッシュを焚いているようで、ほとんど何も見えない。辛うじて、明かりが灯った時だけ、周囲を見ることができるといった状態だ。
自分の右斜め後方。
レジがある方向からは何かの機械の駆動音が聞こえてくる。そちらを見たわけではないが、音からしてこれはおそらく電子レンジの音だろう。そちらを向けば、きっとオレンジ色の光を放つ箱型のレンジが目に入るはずだ。
ある時、格段と照明の点滅が激しくなったかと思うと、電気が一斉に消えた。
病沢は自分の口元に手を当てて自分の悲鳴を必死に抑えようとする。
怖くて溜まらない。心に溜まった恐怖という感情は今にも溢れだしそうだった。それこそ喉元からせり上がってくる恐怖を噴出させ、叫び声を上げながら逃げ出したい。だが、それができないことは病沢がよく知っている。逃げる場所などないのだ。
暗闇の中、動き回ることもできず、ただ口を両手で抑える。
店の中は暗い。
通路の奥は真っ黒な壁に阻まれて女が見えない。通路の中頃で振動しつづけるスマホからは僅かな光が漏れている。電子レンジが虚無を温める音だけが聞こえたので、そちらをチラリと見れば、オレンジ色のボンヤリとした光が見えた。まだ完全な暗闇ではない。あれがあるお陰でまだ何とか店のおおよその輪郭を掴むことができる。さらに店の外にはデイリーエイトの電飾看板が煌煌と輝いていた。
どれだけ時間が経過しただろうか。
ある時、店の中に電気が戻った。暗闇に慣れ始めた目が、今度は光の強い刺激を受ける。
同時、チーンという電子レンジが虚無を温め終えた音が聞こえた後、病沢は目尻に涙を浮かべ嗚咽を漏らしかけた。
女が通路の中心にいた。
トイレの前にいたはずの女は、気づけばスマホが転がっている通路の中頃まで移動していたのだ。
女の頭部から滴った脳髄の一部がスマートフォンの横に落下。
——目が合った。
眼孔から飛び出しかけていた眼球がギョロリと向き、病沢と視線が合う。
真っ赤に染まった目。
白目や黒目がなくなり、眼球が真っ赤なゼラチン質のブヨブヨとしたものへと変わり果てている。人間ならば視力を失っているだろう。実際、彼女は今の状態でも目が見えていないのかもしれない。病沢に突き刺すような強い視線を向けてくるだけで動きはない。
液体と脳が混ざりあった半液状の物質が頭部からべちゃりと落ち、その一部が飛沫となって病沢の顔に向かって飛んできた。
病沢はしゃっくりのような嗚咽を漏らさないよう必死に口を抑える。
彼女の視線に込められた感情に病沢は揺さぶられた。
今まで必死に押し留めていたはずの感情が溢れそうで、ただひたすらこの場から逃げ去りたいという強い欲求が顔を出す。そして、病沢はその場から逃れようと静かに後ろへと後ずさろうとするが——それが良くなかった。
左足に何かが当たったかと思うと、ガタッという音が聞こえた。
普段なら気にも留めないような小さな音は、静まり返った店内でやたらと大きく聞こえた。ギョッとして後ろを見る。
そこには自動ドアを叩き割ろうとするために使ったパイプ椅子があった。プラスチックの背もたれが壊れたことによってバランスが悪くなり、ぶつかった衝撃で安楽椅子のように揺れている。
しまった、と病沢は自分の額から体液が吹き出るのを感じた。
静かな店内で椅子が揺れる音だけが大きく聞こえる。
顔を自分の背後にある椅子から、アレに向ける。
(まずい……)
彼女は動き出していた。
黒い汚れと赤い血に染まっている白いスニーカー。
女はぎこちない動きで足を動かすと、床で振動する病沢のスマートフォンに体重をかけた。ギチギチとスマホから悲鳴が聞こえ、バイブレーションが止まった。
「ァ゛ぁ」
アレが鳴いた。
恐怖が溢れた。
予備動作なしの突発的な動き。
今までのぎこちない動きは何だったのかと思うほど、俊敏な動きで距離を詰めてきた。
そこに迷いはない。
——殺される。
もはや、逃げることも固まってやり過ごすことはできない。
病沢は素早く後ろに振り返ると、自身の背後に転がるパイプ椅子を拾い上げようとした。咄嗟の判断で、右手でパイプ椅子の脚を掴む。そして振り向きざまに迫りくるアレを殴りつけようと体を捻った時、浮遊感に襲われた。
背中に衝撃が走る。
痛みにうめきを上げる間もない。コンビニ天井が見えた時、病沢は自分が床に引き倒されたことを理解する。引き倒された状態から逃れようと両足に力を入れて立ち上がるとするが、ガッチリと抑え込まれており起き上がることができない。
仰向けのまま身動きがとれない状況で、今度は自分の両足に強い圧迫感を覚えた。
あまりに強い握力。
まるで万力で締め付けられたかのような力に、足首付近の骨がミシミシと悲鳴をあげた。
痛みに叫ぶ間もない。
次の瞬間には、さらなる浮遊感に襲われた。
天井に見える照明が移動している。
否、移動したのではない。
仰向けになった病沢の体が動いている。
ツルツルとしたコンビニの床は滑りやすく、雑誌コーナーと日用品が並ぶ棚の間の通路を一気に引きずられていく。床に落ちた彼女の脳髄液のせいで余計とも滑りやすくなっており、首を動かせば、自動ドアの入口から自分が引きずられたことを示す赤い線と一本の傷が床に刻まれていた。
どこへ引きずられるかなど考えるまでもない。
アレが出現した、あの開かずのトイレに向かって引きずられている。
「止めろ!! 俺を連れていくな!!」
あの中に引きずり込まれたら自分は一体どうなる?
いや、自分は知っている。
あそこに何があるのかを――。
あそこで何をやっているのかを――。
頭の中に浮かんだビジョン。
放送で聞こえた男と同じ末路を病沢は迎えようとしている。
とてつもない恐怖に襲われた。
怒涛のように押し寄せる恐怖が、病沢の精神を恐慌状態に陥れる。
死よりも恐ろしい苦痛。
病沢は椅子を掴んでいないほうの手を掴めそうなものに向かって闇雲に伸ばした。しかし、手が届かない。棚に向かって限界まで伸ばした手。指先程度しか届かなかった。硬質な床に手をつき、引っ張りに抵抗しようとしたが、爪が剥がれるばかりで何の意味もなさない。
自分がトイレへと引きづられていく。
暗闇に向かって引きづられていく。
奈落。
そこにあった見え隠れしていたのは、この世で最も黒いもので満ちた世界だった。
暗闇が手をこまねいて病沢を待ち構えている。
恐怖は絶望へと顔色を変えた。
迫りくる明確な死が、全てを諦めて受け入れろと病沢に呼びかけている。
——死にたくない。
病沢は強く痛む腹部などおかまいなしに、腹筋に力を入れた。
離さずに握っていたパイプ椅子を使って、自分の足首を掴む腕を殴る。が、怯まない。ガッシリと掴まれた両足首により力が加わり、激痛が走る。
痛みに歯を食いしばり、さらにもう一撃。
今度は自分の足首を掴んでいた手が一本離れた。その隙を狙って、さらにもう一撃加える。病沢はパイプ椅子そのものを投げつけた。
至近距離から投げつけた椅子は、そのままアレの顔面に衝突。
衝突した折、血液あるいは脳髄が入り混じった粘着質な液体が周囲に散乱する。アレは体を仰け反らせるのと同時、ついに病沢の足から手を離した。
チャンスだ。
病沢は体をグルンと回転させてうつ伏せになる。
そこからダッシュしながら起き上がり、入口まで引きずり込まれそうになっていたトイレの前から距離をとった。
真っすぐ走り、突き当りのイートインコーナーにあった他の椅子を掴む。
振り返った時、アレは怒り狂った奇声を発しながら、こちらに向かってきた。
「来るな!! 俺に近づくな!!」
近づかれる前に椅子を全力で投擲する。しかし、今度はアレが身を翻すことで避けられてしまう。さらにイートインコーナーにあったポットを投げる。
ポットを手で払いのけようとするが、中身の入っているせいか重い。
払いのける動作をすることで、動きが鈍り、わずかに猶予ができた。病沢はさらにイートインコーナーにあった椅子を掴む。残った椅子はこれが最後、近場に投げつけられる物はなくなった。
病沢は自分からアレに近づく。
イートインコーナーは狭い。近くにATMやL字型のカウンターに乗せられた大きなコーヒーメーカーが置いてあるが、それらのせいで椅子を振り回すのに十分なスペースがない。
やるしかない、とイートインコーナーの奥から助走をつけるように自動ドアの前へ走る。
そしてそのまま椅子を頭上に振り上げて——半狂乱になって叫ぶ。
アレは上半身を屈めて、病沢の一撃を避けようとした。
再度、体を床に引き倒そうとする魂胆なのか、両手を下半身に伸ばしている。
だが、今度は病沢の方が早かった。
相手の両手が病沢の体を捉えるよりも早く、椅子がアレを殴りつけたのだ。頭部を殴り、床に倒れこむアレ。起き上がろうと、手を床についているが——。
病沢は一気に畳み掛ける。
反撃する間を与えることなく、椅子を何度も振り下ろした。
「ァ゛ァ゛アア。ァ゛ッ ァ゛ッ」
叩く度に、アレは聞くに堪えないような声で断末魔らしきもの上げる。
喉から声を絞りだすような擦れた声。
病沢は半狂乱になって何度も何度も殴り続ける。
椅子を振り下ろすごとに真っ赤な粘々とした液体が飛び散る。
曇り一つなかった窓ガラス、ツルツルとした床、真っ白な天井、棚に並ぶ雑誌や商品——それらは無地のキャンパスとなった。
飛び散った赤い絵具が真っ赤な斑模様を次々に描いていく。
肉片やベッタリとした血液は天井までに及び、どこまでも赤く染め上げていく――。
最初の内はバタバタと手足を動かし、何とか起き上がろうと試みていた。
しかし、殴るごとにビクン、ビクンと手足が痙攣するだけになる。
「ア゛ッ——ァ゛ッ——」
殺虫剤をかけられた虫が足をヒクヒクと動かし、まさに命を潰えようとするかの如く、死者は再び死を迎えようとしていた。
その様子を見ても病沢は攻撃を止めない。
次第に頭は潰れ、脳みそや赤黒い血液が返り血となって病沢に降りかかった。
頭部が完全に砕けて、中身が床に散らばる。やがて死者は声を出すことも体を痙攣させることもなくなった。
完全に動かなくなることを確認すると、病沢は手に握っていた武器を手放した。
カランという金属の音が店内に広がる。
肩で息をしながら、病沢は足元に転がるアレを見た。
そこにあったのは大きな赤い水溜まりに横たえる首無しの死体だった。頭部は完全に潰れている。断面からは首の骨が除き、ドクドクと命の血潮が流れ出ている。水溜まりは大きくなり、病沢の足元まで広がった。
わなわな手を震わせながら、病沢は真っ赤に染まった自分の両手を見た。
血の鮮やかな色に染まった己の両手。いや、手だけではない。自分の腕も上半身、太もも、足も、全身が血塗れだった。
病沢は頭を抱えながら一歩後ろに下がった。
「俺は一体何をしているんだ……!」
血で足が滑り、尻もちをつくように後ろに倒れる。
「俺は……俺は……殺してない! 俺は——」
血の水溜まりはどこまで広がった。
目の前に広がる惨状。それを成したのは他ならない自分だ。
激しく体を動かしたせいで脇腹が痛み、貧血を起こした時のようにフラフラとする。やがて平衡感覚を失い、病沢は自分で作った血の池へとダイブし、そのまま気を失った。
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