第7話.Daily エイト


 病沢はトイレのドアをノックした。

 骨の関節と木の板がぶつかり合い、乾いた音が店内に響く。店内で流れるラジオのリクエスト曲は遠のき、静けさのなかに自分は取り残された。


 ——コン、コン……コン、コン……。


 ドアの向こうにいる人に確実に聞こえるであろう音がでる。

 返事は返ってこない。


 ——コン、コン……コン、コン……。


 再度ノックを繰り返した。

 返事は返ってこない。

 

 これは嫌な予感がいよいよ的中してしまったかもしれない、と病沢は自分の唇を舐めた。

 仮に中で誰かが倒れていたとして、自分は一体どうすればいいのだろうか? 

 誰かに助けを求めるべきだろうか? 

 助けを求めるように、自動ドアがある方向に首を伸ばす。

 店内には当然ながら病沢しかいない。相変わらず、新しいお客さんが来店する気配もなく、自分以外に頼れる存在はいなかった。


 無視してこの場を後にするという道も残されているが、助けられる立場なのに助けないというのは薄情な気もした。


(これは本当に電話で消防か救急を呼んだ方がいいかもな)


 もし誰かが倒れているのなら、それこそ何らかの病気であったならすぐに病院に行くべきだ。手遅れになってしまったのでは遅い。今こうして病沢が迷っている間にも、病状が悪化しているかもしれないのだ。


 そう考えた病沢はますます心配になった。

 気を失っているのであれば、そもそもノックの音すら聞こえないのではないか?


 不安に駆られた病沢はノックをするのを止め、今度はドアを叩いた。

 

 ——ドンドン、ドンドン。


 ドアを叩いた音は思った以上に大きい。

 自分でもビックリしそうになるほどの大きな音が出て体を仰け反らしたくなった。

 それでもトイレの中にいる人物から返事は返って来ることはない。


 何度かドアを叩いた後、病沢は一歩後ろに下がる。

 やがて、病沢はゆっくりとポケットに手を突っ込んで、スマホを取り出そうとした。

 口を片手で覆って、そのまま顎髭を撫でるように下に動かし、ジョリジョリとした無精ひげの感触を確かめようとする。ぬるっと汗で滑って髭の感触が分からない。


 電話のアプリを開くと119と入力。

 そしていよいよ電話のアイコンをタップしようと——その時だった。

 

 ——コンコン。


 目の前のドアからノック音が帰ってきた。

 ハッとして手元のスマホからドアに目を向ける。


(……今、確かに聞こえたよな?)


 病沢は自分に問いかけた。

 ドアに穴が開くほど見つめながら、音を頭の中で反芻して吟味。

 聞き間違いではなければ、中にいる人は地力でノックをする程度には意識が残っていることになる。


「大丈夫ですかっ!」

 

 ハッキリとした声でドア越しに呼びかけた。

 久しぶりに大きな声を出したせいで、わずかに声が裏返る。

 

 ——コンコン。


 病沢は訝し気にドアを見つめた。

 帰ってきたのは肉声ではなく、ドアをノックする音だったからだ。


「あの……本当に大丈夫ですか? 気分が悪くなっていたりしませんか? 誰か呼びましょうか?」


 ——コンコン。


「大丈夫ですか?」


 ——コン。


 病沢は困った顔になるとドアを見つめた。

 「大丈夫です」の一言でもあれば安心して、この場を離れられただろう。しかし、返ってきた反応はノックのみ。これでは容態の確認ができたことにはならない。


 実際に中の様子を見たわけではないため、口がきけないほど体調が悪かったら、このまま何もしないのは不味いだろう。意識が朦朧としている中、何とかドアをノックして助けを求めた——ということもあるかもしれないからだ。


「助けが必要ならノックを一回してください! もし助けがいらないのならノックを二回して下さい!」


 ——コンコン。


 あっさりとノックが帰ってきた。

 残った力を振り絞ってドアを叩いたという風ではなさそうだ。ノックの音もしっかりしたものだったし、少なくとも中にいる人物は病沢の助けは必要としていないらしい。


「そうですか……。いいんですね? 大丈夫なんですね?」


 ――コン。


 再度、確認しても返事は同じだった。

 どうやら店員がふざけているらしい。「はあ」という大きな溜息をついた後、病沢はトイレの前から離れた。中にいる人物が無事だということが分かっただけでも良かったと思うべきか——


(あっ……これってもしかして恥ずかしがっている? 何か悪いことしちゃったかな……。でも、心配だったし、これで良かったよな)


 お腹を壊してトイレから出られなくなったのだろうか? 

 長時間、トイレから出られないのであれば大の可能性が高い。便秘なのに、大丈夫かと客からせっつかれたら出るもの出なくなってしまうかもしれない。


 あるいは深夜に眠くなってトイレの中でうたた寝してしまったのかもしれない。

 本来なら人間が眠るべき時間帯。トイレで腰を降ろしたら瞼が重くなって居眠りということもあるだろう。

 

 いずれにせよ、確かなのは中にいる人は助けを必要としていないということだ。

 

 病沢を胸を撫で下ろすと、トイレから背を向けて薄暗い空間から外に出た。


「あっ……これじゃあ、結局、買い物できないじゃん」


 蛍光灯の光が当たる部分まで出てきた時、思わず足を止めた。

 心配になるあまり忘れていたが、トイレの中から店員さんが出てこないとお会計が終わらない。

 カウンターの上に置きっぱなしになっていた購入前の商品。カップ蕎麦とコーラがそのままになっている。


 再度、後ろを振り返ってトイレを見る。

 未だにトイレから店員さんが出てくる気配はない。

 トイレの前に戻って「お会計をしたいのでトイレから出て下さい」などと呼びかけることができるほどの度胸はない。

 となればトイレから店員さんが出てくるのを待つか、買い物を諦めるかの二択になる。


 病沢はその場でしばしの間、逡巡する。

 当然ながら無人店舗のように、無断で外に商品を持ちだせば犯罪になってしまう。

 店員がいない以上、商品を決済することができない。かといって迷惑を被った自分がわざわざカウンターの上に並べて置いた商品を元あった陳列棚に戻すのは癪だ。


(こっちは貴重な時間を浪費してしまったということもあるし、お互いが迷惑をかけたということでこのままにして帰ろう……)


 病沢はまたしも溜息をつくことになった。

 こうなってしまっては仕方がない。年越しそばは諦めるしかないだろう。


(これじゃあ、何のために寒い中歩いてきたんだか分からないな。コンビニのトイレのドアをノックして帰るだけとか……。まあ、考え事が出来たからいいか……帰ろう)


 このコンビニに来る道中、気持ちの整理もついた。

 大会に参加するという意思も定まったのだから、一応の成果はあっただろう。明日グレイたち会ったら話のネタにでもすればいい。


 この時間も無駄ではない。

 そう思いでもしないとやっていられない。後でクレームを入れることも考えたが、そもそもこんな深夜に、それも大晦日にコンビニに行く方が道徳的に間違っているのだ。そもそもとして、こんな時間に買い物をしようと考える自分が悪いのだ。


 それに時間を確認してはいないが、とっくに日付は変わってしまっている頃だろう。

 明日も朝からグレイたちと約束がある。蕎麦が買えなかったのは残念だが、これ以上時間をかけるのは時間の浪費だ。家に帰って寝るのが一番だ。


(……これくらいは店員さんも許してくれるだろう)


 結論を出すと、病沢はそのまま自動ドアから外へ出て帰路につこうとした。


「……………?」


 自動ドアの前に立った時、病沢は首を傾げた。

 自動ドアが左右に開いてくれない。


 自動ドアのセンサーが自分を感知しなかったのかと思い、一旦ドアの前から下がった。

 そしてもう一度玄関マットがある場所に向かって一歩前に踏み出すが——これでも自動ドアは反応しなかった。


「おいおい……故障かよ」


 誰もいないことをいいことに、病沢は堂々と悪態をついた。


「今日は本当についていないな。何というか……運が悪い」


 新年早々、病沢は肩を落とす。

 貴重な休みなのに、好きでもないコンビニで足止めを喰らうとは思いもしなかった。これは本格的に店員さんがトイレから出てくるのを待つしかないかもしれない。


 病沢は自動ドアから店の中へと顔を動かす。


「…………?」


 その瞬間、病沢は思わず息を止めた。

 得体の知れない違和感。

 それに襲われたことで自動ドアの前から動けなくなったのだ。


 何かが見えたり、何かが聞こえた訳ではない。


 ——何かがおかしい。何かが違う。


 漠然とした不安のようなものに襲われ、自分でも訳が分からず店内を見回していた時、病沢は気づく。


(……静かすぎる)


 店内は恐ろしいほどに静まり返っていた。

 辛うじて聞こえるのは、空調がゴウゴウと暖かい息を吐き出す音。

 店内で常に流れていたラジオ放送は止まっている。特に意識していた訳ではないがリクエスト曲がさっきまで流れていたのは覚えている。なのに、今は何も聞こえない。


 異様な雰囲気に、病沢は圧倒された。

 ふいに自分の手に不可思議な感覚が走る。暖房から吐き出された空気が手に吹き付けられたのではない。

 自分の右手を見ると手の甲に生えた毛の一本一本が逆立っているのが見えた。静電気で毛が引っ張られるようにハッキリと。手の甲から伝播するように全身へと逆立っていく。


 困惑しながら、病沢は店内を見回した。

 何も変わったことはない。


 しかし——ある種の確信めいた予感があった。


 どこからか視線を感じるのだ。

 薄っすら感じるとか、何となく感じるといったレベルではない。

 仕事の最中に視線を感じたと思って、背後を振り返ったら、嫌いな上司が怒り心頭で仁王立ちしていた——そんな感覚に近い。言葉や理屈では説明できないような確信がある。

 

 ——どこだ。どこから見られている?


 静まり返った店内で空調から吐き出された暖房の空気が病沢の顔に吹き付けた。ゴウゴウと吹き付ける暖房の風は生温かく、まるで獣か何かが自分の顔の前で呼吸をしているような――そんな錯覚を覚えた。


「…………」


 病沢は固まった。

 何かに見られているような視線の主がどこにいるのか探そうとした。

 その時だった。


 ――バサリ。


 心臓がドキリと跳ねた。

 何事かと思い音が聞こえた方向を振り返る。

 自動ドアの左側、雑誌コーナーに置いてあった雑誌が落ちている。落ちた時の衝撃でページが開かれ、それが通路の真ん中で開かれたまま放置されていた。

 

 もう一度、周囲を確認する。

 心臓が早く鼓動するのを感じながら雑誌に近づく。

 

 カツカツと床を叩く靴の音がやたらと大きく聞こえた。

 拾い上げる時、雑誌の表表紙が見える。芸能人の不倫報道や政治家のスキャンダルといった定番のゴシップ記事が売りの週刊誌。典型的な三門雑誌だった。


 雑誌を拾い上げ、閉じようとしたとき、見開かれたページが自然と目に入る。


 ――怪奇現象多発!? コンビニで起きる行方不明事件。深夜のコンビニは異次元へと通じているのか?


 閉じようとしていた病沢の手が止まった。

 掲載されていたのはコンビニエンスストアを外から撮影した写真を背景に、長々とした文章が掲載されているものだった。

 しかしながら病沢はその記事そのものに目を通すことができなかった。

 彼の目が釘付けになったのは記事ではなく、左右のページ全体を使って載せられていた写真そのものだったからだ。


 店舗全体を映す一枚の写真。

 全体を映そうとするためか、それなりに離れた位置から写真を撮ったらしい。恐らく併設されたコンビニの駐車場から撮ったのだろう。店の手前には駐車場の白線が見えるが、ページそのものが白黒であるため非常に見ずらい。

 

 ドクドクという心臓の音が体を伝わって耳の中に聞こえる。

 建物の上部。店の名前が入っていると思われる場所は黒く塗りつぶされているが、病沢には、そのコンビニの名前がなんなのかすぐに分かった。


 いや、コンビニの名称だけではない。

 コンビニの外観、外に設置されたゴミ箱、逆U字ポール、窓から見える雑誌コーナーの裏側——どれも見覚えがあるものだった。


 まるで自分がデイリーエイトにくる時に見た光景と同じような――。


 背筋から冷たい汗が噴き出すのを感じた。

 そんな馬鹿な、と病沢は無理くりに顔に笑みを浮かべる。


(——俺は何を考えているんだ。そんなことある訳ないじゃないか。そんな非現実的なこと……)


 雑誌を閉じ、元の場所に戻した。

 そして何気なく、天井に設置された防犯ミラーが視界に入った時だ。


 鏡には自分が映っていた。

 そしてその後ろにはいるはずのない人影が——。


「ッ!!」

 

 一瞬、鏡を二度見して、飛び上がるように振り返った。

 だが、そこには誰もいない。


 呼吸が早くなる。

 顔が熱くなり、もう一度天井付近の防犯ミラーを見るが、そこに映っているのはやはり自分だけだ。


 病沢は吹き出す汗を拭うように顔を触る。

 鏡が怖い。

 恐ろしい。

 

 鏡から遠のくように移動する。

 自動ドアの前に移動するがやはり反応がない。


「な、なんだよ。これ……タチの悪いイタズラか何かか?」

 

 自分を言い聞かせるように独り言をつぶやく。

 なるべく顔に笑みを浮かべるようにしていたが——。


 チンッという間の抜けた音が聞こえた。

 電子レンジが何かを温め終わった時に聞こえるタイマーの音。

 音が鳴った段階で、病沢の視線は即座にそこに向いていた。


 店に入った時から電子レンジが稼働していたのは知っている。

 だからこれが怪奇現象などではなくて、単に店員が操作した結果、設定していたタイマーから音が鳴っただけ。決して、そんなオカルトじみた現象が起きたわけではなくて――

 

 病沢の頭が、目の前で起きた現象を現実的に捉えようと必死になる。

 だが現実は非情である。

 

 電子レンジの入口が独りでに、音もなく開いたのである。

 

 怪奇現象を否定するため、目まぐるしく回転させていた彼の頭の思考は止まった。

 視線はただ電子レンジに向かって注がれることになる。


 病沢が息をするのを止め、目を細めた時、何かが出てきた。

 それは赤くて重量のありそうな、それでいて美味しそうな――。


 ゆっくりと出てきた物体は一見すると調理された何かのように見えた。

 しかし、それが何のなのか見定める前にカウンターの下に落下してしまう。


(これは絶対に何かのヤラセだろ……。そんなことある訳がない。きっとこれはテレビか、さもなければ悪質な動画投稿者が仕掛けたドッキリだ。だから、これはやらせで――)


 呼吸が荒くなる。

 己の説を考えを肯定するため病沢は意を決して、電子レンジに向かった。

 腰の高さにあるスイングドアを押し開けてカウンターの内側に入り、床に転がったものを見る。


 ケチャップのような赤い、水っぽいものが付着した物体。

 デミグラスハンバーグやパスタの上にかかっているボロネーゼソースのように赤みがかかった液体がまとわりつく何か。


 直接触りたくない。

 病沢はその物体が何かを確認するため自分のつま先でそれを転がした。

 クルリとソースを纏った何かが裏返る。

 ソースが纏わりついていない裏側には、骨のような乳白色の物体が見えた。

 ただし、それは骨ように長細くなく、どちらかという鱗のような丸い……?

 いや、これは歯だ――歯?


「は?」


 それは人間の顎であった。

 鱗のように見えたのは歯で、それがドロドロに固まりかけた血に塗れている。


 あまりのことに病沢はもはや呼吸の仕方さえ忘れてしまう。

 もう強がって怖がっているような場合ではなかった。


 転倒しそうになりつつもスイングドアを押し開けて、カウンターの外に出た時、追い打ちをかけるように店のあらゆる場所から音が聞こえてくる。


 天井の蛍光灯がチカチカと点滅。

 店の商品が次々と棚から落ちていく。

 入口に来た時には、コーヒーサーバが勝手にコーヒーを挽き黒い液体をまき散らす。イートインコーナーのポッドからはお湯が勝手に流れ出した。

 コピー機からは紙が大量に吐き出され、電子レンジのドアは閉まったり開いたりを繰り返した。

 

 病沢は背中を自動ドアに預けながら、固まることしかできない。 

 ある時、すべてが止まった。

 

「…………?」


 何事もなかったかのように静けさが戻ってきた。

 病沢は様子をうかがうように、店の中をきょろきょろと周囲を見回すが——。


 ボッという音が微かに聞こえた。


『えー、本日はですね。12月32日ということで、ってことですね。ではでは、ですね。……………それではですね。あ、はあはははははっははっははははははっははっはは――』


 雑音混じりに店内放送が再開されていた。


『最初にですね、最後にですねぇええええええええええええ』


 もはや、体をフリーズさせて固まるしかできなかった。

 いっそのことその場にうずくまって、耳と目を閉ざしてしまったほうが精神衛生上よいかもしれない。


『ご来店のおきゅあく様に連絡します。次のコーナーのなんでしょうか?』


 声には抑揚がなかった。

 まるで機械が喋っているかのように、ただ淡々と声帯から声を出すだけのような口調の女性が話している。


『それでは息抜きにお聞きだください。お客様のリクエストです』


 店の中に響いたのは男の叫び声だった。

 叫び声を通り越し、獣のような唸りのようにすら聞こえる。

 形のない蛮声は、大声で喉が枯れてしまうというレベルを通り越し、声帯が壊れてしまうのではないかと思ってしまうものだった。

 それはもはや断末魔や慟哭に近い。

 およそ人間に出せる限界、あらんかぎりの声で男は叫ぶ。


『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』


 絶叫はいつまでも店の中に流れ続けた。

 鼓膜が破れそうになるほどの大音量で。


『いたい゛、い゛た゛い゛、い゛た゛い゛い゛た゛い゛、も゛ォごろじで、殺ぢてぐれよおぉぉぉ』


 放送からは男の死を願う懇願と絶叫。

 そして男の反応に笑う女の声。

 

『ア゛ア゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ああああああ……ア゛ア゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ああああああ、!!!!』


 何を切り刻むような音。

 ぐちゃぐちゃと何かを引き剥がすような音と、ゴポゴポと液体を吐き出すような音がそれに続く。

 笑い声と泣き声。

 何が行われているか、声を聴くだけでもわかってしまう。



 グチャリという一際大きな音を聞いた時、女がうっとりと溜息をつくのが分かった。


 何かをもぎ取ったのだ。


 絶叫はもはや完全に意味を為さない声だけになった。

 これまで辛うじて聞き取れるだけの言葉を発していたが、呻きとヒューヒューという喘鳴のみになる。


 やがて、女の笑い声がいつでも聞こえ続ける。

 そこで行われているであろう行為は音を聞くだけでありありと想像できてしまった。 頭の中にビジョンが映像となって再生されて――。


 病沢は耐えかねて、その場にうずくまりながら己の耳を塞いだ。

 しかし、頭の中に入ってくる。女の笑いが耳を通して脳を直接揺さぶり、目と耳を閉じていても頭の中が映像が思い浮かんでしまう。


 切れ味の悪い刃物を肉と関節の間に差し込み、生きたまま男の体を解体。ついには顎が外れた。そして力いっぱい男の顎を掴み、強引に引きちぎった。微かに残っていた筋が劣化した輪ゴムのように伸びてから千切れ、その瞬間、男がもだえ苦しみ、さらに絶叫をあげて、それを見て大笑いする女は、血が滴り落ちている間にも電子レンジに放り込み、それから――。


 息も絶え絶えの状態になった男。

 虚ろな目で女を睨みつけるが、その体は異様なものへと変貌を遂げていた。内臓が外部に飛び出て、一目ではこれが人間であることさえ分からないほどの異形の存在と化している。

 傷跡になっているのか、はたまたは拷問による影響なのかは分からない。だが、確かなのは男はこんな姿になっても生きているということだ。死なない。死ねない。死なせてくれない。


 その時、頭の中で浮かんだ映像の中で、女が拷問中の男から顔をそむけた。

 やがて顔をゆっくりと病沢が見ている視点の方に向け――女が笑った。その時、ビジョンの中で音が消えた。突然、テレビを消音にした時のように、この世からすべての音が消えった。

 

 だが、病沢は確かに目で聞いた。

 女は真正面から病沢のことを見て、ゆっくりと唇を動かした。


 み、つ、け、た


 病沢は悲鳴を上げ、目を開けた。

 そこはデイリーエイトのコンビニ。散らかった店内は静寂を取り戻し、病沢の心臓の鼓動と先ほどのビジョンの残影だけが頭の中でうるさく喚いている。


 何も聞こえない。何の気配もない。

 

(これは夢なのか? 俺は悪夢をみているのか?)


 そうであったらと救われただろう。

 だが、これは夢にしてはあまりに感覚がリアルだった。


 病沢は途方としながら立ちすくむ。

 叫びたい。

 だが、叫べが何が起きるのか分からない。


 ——ブゥゥゥ、 ブゥゥゥ。


「……!?」


 心臓が口から飛び出るかというほど驚いた。

 しかし、音の正体がズボンのポケットの中で振動するスマートフォンあることが分かると、正気に戻って慌ててポケットに手を突っ込む。


 手の内で震えるスマートフォン。

 ポケットから取り出して画面を見た時、病沢は目を丸くした。そして周囲に目をやりながら、無意識に「えっ? えっ? えっ?」と声を出しながら戸惑う。


 非通知で電話がかかってきている。

 誰が電話をかけてきたのかは分からない。


 病沢に仲の良い同僚はいない。

 両親もいない。

 電話がかかってくるのはネット通販で購入した荷物を届けに来る運送会社ぐらいで、それを除けば、電話してくるのは休出を要請する上司ぐらい。

 グレイとグットナイトとは主にSNSでやりとりをするだけなので電話をかけてくることは有り得ないだろう。


(上司……なのか?)


 そうであってくれれば良い。

 だが、この状況で……あまつさえ怪奇現象が起こっている店内で、そう都合よく上司から電話がかかってくるものだろうか?


 分かっている。

 そんな都合のいいことはない、と。


 またしても店の中から出所不明の強い視線に自分に向けられていることに気づく。誰かが見ていることがありありと分かるほどに。


 ――ああ……胃が痛い。


 腹部に痛みを覚えながら、病沢は苦々しい面持ちでスマホと睨めっこを続ける。


 やがて病沢は振動するスマホを握りしめながら、大きく息を吸った。

 そしてスマホの画面を指でスライドして電話に応答しようとした——が、できなかった。


 指先をスクリーンに這わせようとした矢先、耳が壊れるかと思うほどの轟音が耳を貫いたのだ。


 全身が飛び上がり、しゃっくりのような声が病沢の喉から漏れる。

 大きいという言葉では表現しきれない。建設中のビルから鉄骨が降ってきたとしたら、きっとこんな感じの音がするのだろう。


 あまりに大きな轟音。

 病沢は咄嗟に両耳に手を当てた。手に握っていたスマホを落とし、本能的に自分の鼓膜を守ろうとする。スマートフォンが雑誌コーナーの向かって回転しながら転がっていくが、床を転がる音さえも残響によって掻き消されてしまった。


 耳を抑えながらギョッとして周囲を見る。

 音の出所はすぐに分かった。


 あの開かずのトイレからだ。

 病沢は頭を抱えるように両手を耳に当て、放心状態になったままトイレのある方向を見た。


 電球が消え、薄暗闇に包まれた小汚い場所。そこにあるドアから轟音が聞こえている。洗面台に設置された緑色の液体せっけんが衝撃で揺れ、洗面台の鏡にヒビが入った。

  

 轟音は一度に留まらない。

 何度も何度も耳をつんざくような爆音が発生し、鼓膜を破ろうとしてくる。大きな音が鳴るたびに体がビクリとする。


 呆然とその場から動けずにいた病沢。

 ある時、轟音と共に、施錠されたドアが撓んだ。

 一枚の板が反り返るように撓み、壁とドアとの間に隙間が出来る。


 その僅かな一秒にも満たない一瞬、見えてしまった。


 ——目が合った。


 撓んだドアと壁の間に出来た数センチの隙間。

 ドアにへばり付き、隙間から見えたのは人間らしき存在の目。暗闇の中で血走った片目だけが、睨むようにまっすぐ自分に向けられている。


 そこから覗く何かを見た瞬間、病沢の体から体温という体温が一気に抜け落ちた。 


 そして直観的に理解する。

 コンビニの中で感じていた纏わりつくような視線は、あの扉の向こう側にいる存在から向けられた視線と同じであることを——。

 店の中に流れる拷問の放送を聞いた時——ビジョンで見た女と同一の目をしていることに。


 全身に怖気が走り、本能が恐怖した。

 それが契機となり、呆然と立ちすくむ病沢は原始的な生存本能によって突き動かされることになる。


 ——あれに近づいてはいけない。逃げないと。


 病沢の動きは素早かった。

 両開きの自動ドア。

 両手でこじ開けるように、自分の爪を左右のドアの間の隙間に食い込ませる。痛みに歯を食いしばるが、当然ながらドアは微動だにしない。

 

「クソッ!! ここからじゃ、出られない!!」


 他に外に出るための出口がないか素早く店の中に目を走らせた。

 こうしている間にもドアの軋みが大きくなり、店内に響き渡る轟音も大きくなっていく。いつドアの鍵が壊れるか分かったものではない。


 ドアがある場所から視線をやや下に向かわせると、雑誌コーナーの真ん中あたりの通路に自分が持っていたスマートフォンが転がっていた。ただ、今の状況で誰かに連絡をしても手遅れになる可能性が高い。


「そうだ……! 勝手口……! 勝手口があるはずだ!!」


 病沢の頭は一つの活路を思いつく。

 荷物の搬入口——サブの出入口だ。

 コンビニには定期的に大量の商品を運び入れる必要がある。大量の商品を店舗正面の自動ドアから運ぶのは来店するお客の邪魔になるし、いちいち自動ドアの開閉を待つのは効率が悪い。この店舗はコンビニにしては大きいほうだ。恐らく、商品を搬入するためだけに設けられたサブの出入口があるはず——。


 病沢は土足のままカウンターを乗り越えて、壁伝いに出口を探す。しかし、カウンターの奥まで見てもそれらしきものはない。


 ならば、残るのはバックヤードだ。

 ドリンクが仕舞われた大型の冷蔵庫の横に、それらしき場所があったのを思い出す。商品を貯蔵するための空間なら、そこに勝手口が併設されているのが合理的な気がする。

 すぐさま、病沢はカウンターを乗り越え、従業員専用と書かれているドアに向かって突進、勢いよく中に入る。


 だが、見つからない。

 外に出るためのドアがない。


「そんな! あるはずだ!! どこかに!!」


 積み上げられた段ボールやプラスチックの箱を掻き分け、どこかにそれらしき出口がないか確認していく。


 だが——出口はなかった。


「ない……ない!! ない!!」


 これ以上モタモタしていては駄目だ。

 ドアを殴打する音が鳴りやむことはない。

 もし鳴るのが終わったら——それは終わりを意味している。

 

 病沢は自動ドアの前に再び戻ってきた。

 自動ドアの前に来た病沢だが、やはりセンサーが反応しない。


 自動ドアのガラスには自分の姿の映り込むばかりだ。

 凄まじい表情をした自分——。


 ドンッと拳で自動ドアを叩いた。

 ガラスが衝撃で揺れ、映っている自分の姿が見えなくなる。


 この薄いガラス一枚を隔てた先は屋外だ。

 もうここから出るしかない。


(弁償でも罰金でも何でも払ってやる!! 早くしないとアレが……アレが来てしまう。アレが——!!)


 アレ。

 そう形容するしかない。


 何が自分に迫ってきているのか、あのドアの向こう側にいる存在が何なのかは分からない。ただ、アレは決して自分が出会ってはいけない存在ということが理解できた。人ならざる存在。出会ってしまったらどうなる? 


(最悪の場合、自分は……男と同じように拷問されるのか……?)


 病沢は自動ドアの横、イートインコーナーにあった椅子を持ち上げる。アルミ製のフレームとプラスチックの背もたれ。カラフルな外観で安っぽさ誤魔化したかのような椅子。


 背もたれを支えるアルミパイプを掴むと頭上に大きく振り上げた。

 そしてパイプの脚を突き刺すように自動ドアのガラス目掛けて振り下ろす。


 打ち付けた瞬間、硬質な物体が砕ける確かな手ごたえがあった。

 音と共に、椅子の脚が一本、ガラスに食い込んだ。

 衝突箇所を見れば、脚を起点として蜘蛛の巣のようなひび割れが放射線状に広がっている。平坦なガラス面にクレーターが生れるが、硬質なガラスは完全には割れていない。


 あと何回か叩けばガラスが割れる——。

 その様子を見届けた病沢は、椅子を再度振り上げようとした。

 

 だが次の瞬間、病沢は手を止めた。

 蜘蛛の巣状に広がったガラスのひび割れが——直っていく。

 まるで動画をスローで逆再生したように、蜘蛛の巣状に拡散したひび割れが塞がっていくのだ。外側から中心に向かって収束し、玄関マットの上に落ちたガラスの破片は、宙に浮き上がって元あった場所に戻っていく。 ついには中心にあった小さなクレーターでさえ、元の傷一つない透明なガラスへと再生してしまった。

 

 透明な一枚のガラス。

 何事もなかったかのように店内と外界を隔てている。

 

 ——馬鹿な……。


 目の前で起きた光景を否定するように、病沢は半狂乱になってドアを椅子で殴打する。

 

 椅子を振り下ろし、アルミパイプの脚を何度も槍のように突き刺す。

 背もたれのプラスチックが衝撃で破損し、破片が飛び散って手の甲から出血しても透明な壁を殴り続ける。腕がジンジンと痺れて感覚がなくなり、関節に痛みを覚え、冷たい汗を滝のように流し、息切れしても——ガラスは決して割れない。


 最後に、叫び声を上げながら全力で椅子を振り下ろした時、自動ドアには無数のクレーターができていた。しかし、床からガラス片が浮き上がったかと思うと、ヒビは意図も簡単に直り、透明な一枚のガラスへと戻っていく。


 力を使い果たした病沢は無表情で、その光景を見ているしかない。

 やがて手に持っていた椅子をその辺に放り投げた。


 目の前で起きた不可思議な現象を確かめるように、自動ドアに近づき、手のひらを自動ドアのガラスに当てた。


 ヒヤっとした氷のように冷たい透明な壁。

 あれだけ叩いたのに自動ドアには何も変わりがなかった。

 透明な一枚の壁の向こう側には、真っ暗な暗闇に包まれたコンビニの駐車場が広がっている。ガラスの鏡面に映った自分は死んだように絶望に染まっていた。

 

 そして気づいた。

 店内に響き渡っていた大砲のような轟音が聞こえなくなり、コンビニの中が水を打ったように静かになっていることに。


 病沢は冷たいガラスから手を離すと、恐る恐るトイレがある洗面台の方へ振り返った。


 自分の荒れた呼吸だけが聞こえる。


 ——カチン。


 静まり返った店内で軽い音が響き渡り、病沢の心臓が飛び跳ねた。

 何の音かは見当がつく。

 トイレのロックが解除された音だ。


 病沢の視線はトイレのドアノブに集中した。

 入口からトイレまで距離がある。しかし、病沢は確かに目撃した。ドアのノブがゆっくり、ゆっくりと回転していることに——


 「キィィィ」とドアが軋む音に息を呑む。

 ドアが独りでに開け放たれた。


 自分の心臓がバクバクと脈打つ音が体を通して聞こえてくる。

 一秒一秒、時間の流れがやたら遅く感じた。


 ドアが完全に開け放たれた。

 しかし、中からは誰も出てこない。トイレの内部は見えず真っ暗で、どんな黒よりも濃い黒で染まっている。


(そうだ! あの中には誰もいなかったんだ! いるはずがない!! さっきの光景といい、これは何かの間違いだ!! 誰も出てこない!! そうに決まっている!!)


 祈るような気持ちで病沢はトイレを見続ける。

 やがて、トイレの前の空間を照らしていた暖色の電球に灯りが戻っているのに気づく。さきほどまで消えていた電球。完全に消えていたはずの電球は、オレンジの光を放っていた。しかし、明るくなったかと思うと、徐々に光量が弱まり、消え入るように弱くなっていく。そうかと思うと、今度は眩いほどの光を放った。


 ——ボンッ!!


 病沢は小さく悲鳴をあげ、体を縮こまらせた。

 オレンジの電球が粉々に破裂したのだ。


 その悲鳴に反応するかのように、やがて————アレが姿を表した。

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