第6話.Daily 8


(……暖かい)


 病沢は暖かい店の中でホッと一息ついた。

 実家のような安心感。

 何というか自分がいるべき場所にいるという強い実感が持てる。


 ガンガンに暖房を利かせた店内は、屋外に比べれば天国だ。

 コンビニの中の居心地は悪くない。

 真冬の外気によって冷え切っていった体がどんどん温まっていくのが分かる。


 店の中を見回す。

 真夜中でも決して消えることのないLED蛍光灯の光が、ツルツルと光沢のあるタイル張りの床で反射している。


 列をなして通路を形成する陳列棚には、スナック菓子やカップラーメン、パンといった食品から、シャンプーや洗剤といった衛生用品。果ては、ボールペンやノート、ハサミといった事務用品までもが販売されている。


 入口から突き当りの壁際の棚には、お弁当やおにぎり、サンドイッチ、パスタ、蕎麦、ラーメンが並んでいる。


 店に入ってすぐに右側に目をやればATMという名の無人銀行が。

 バリスタ不要のコーヒーメーカー、現金取り扱い式コピー機も見える。

 買った商品をその場で食べられるようにイートインコーナーには簡単な椅子とL字型のテーブルが備え付けられていた。

 

 左に目をやれば雑誌や漫画、書籍が並べられたブックラックが続き、さらに店の奥には洗面台がある空間が見える。


 天井に目をやれば円形の監視カメラと防犯ミラーがある。


『Have a good night!! こんばんは!! デイリーエイトのラジオDJを担当しているルーちゃんです!! このラジオはデイリーエイトの店内だけで放送される真夜中限定のラジオ放送。通称ルーチャンネルです!! コホン。Daily 8 でお買い物をしているリスナーが、寂しくないよう、このコンビニにまつわる、あんなことやこんなこと、フフッ……そう、えー、とてもくだらないことを話すだけの番組となっております』


 病沢は店内放送に耳を傾けながら、とりあえず入口の脇にあった買い物カゴを掴んだ。そして自分に「余計なものを買うんじゃないぞ」と言い聞かせる。

 

 コンビニは節約家にとって大敵である。

 いつも買い出しに行くスーパーより割高なのは勿論のこと、購買意欲を高めようとする罠が沢山仕掛けられているからタチが悪い。


 例えば、売れ筋の商品であるお弁当やジュースは必ずと言っていいほど入口から遠く離れた場所にあるものだ。距離が離れていれば、当然それだけ歩かなくてはならず、必然的に他の商品にも目移りしてしまう。これでもかというほど、目立つところに新商品がおいてあったりするもので、絶対に興味をそそられてしまう。


 単にお昼のランチを買おうものにも、お弁当の近くには、コーヒーやサラダ、デザートといった商品を配置し、もう一品買わせるように仕向けてくるし、レジに並べばフライドチキンや肉まんといったホットスナックが否応なしに目に入るだろう。


 気づけば、買うつもりのなかったものでカゴの中が一杯になっている。

 人間の心理に訴えかけるコンビニのレイアウトは悪魔的だ。

 ぼさっとしていれば財布の中身を盗られてしまう。高いと分かっているにも関わらず買わずにはいられなくなる。ワーキングプアである病沢は弁当派なのでコンビニを利用することは滅多にないが——


『本日は12月31日……ということで大晦日でございます。このラジオを聞いているということはデイリーエイトでお買い物中ということですよね? 除夜の鐘を鳴らしにいく途中に寄っていく人が多いのかなぁ? いいですよねー、除夜の鐘。わたしも鳴らしに行きたかったなあ……」


 入口から突き当りにあるお弁当コーナーに向かう途中、病沢はあることに気づき足を止めた。


(……あれ? 誰もいない)


 二つあるカウンターの内、一つ目のカウンターを通り過ぎた時に気づく。

 どちらのカウンターにも店員の姿がなかったのだ。


 店内ラジオからは明るい声で放送が流れ続けている。

 それとは対照的に店内は閑散としていた。

 客はおろかレジには店員の姿さえおらず、およそ人の気配というものがしない。


『もうすぐ新年ですね。新年といえば身が引き締まる思いというか、何だか生れ変わった感じがしませんか? 今年がいい年になった人もそうでなかった人も心機一転して頑張って欲しいです!! ルーちゃんも首を伸ばして新年が来るのを待ちわびています!! ちなみに皆さんは来年から何かやりたいと思っていることはありますか?』


 おや、と思いながらレジの前を通り過ぎた。

 その時に8の数字が目に留まる。

 レジ台の正面にはタッチ画面が備え付けられており、そこにはデイリーエイトの象徴である8の数字が表示されている。8の数字をなぞるように光がクルクルと移動している。待機画面だ。


 さらにカウンターの奥に目を向ければ、銘柄ごとに番号が振ってあるタバコの陳列棚の近くで、電子レンジが稼働しているのが見える。電子レンジの中の皿が右回りに回転しているが——。


 やや背伸びして、カウンターの奥に目を移せば簡単な調理をするためのキッチンが見えた。揚げ物をするための油がたっぷりと張られているフライヤーが見えたが、やはりここにも調理を担当するはずの店員の姿がない。


『ルーちゃんはですね~。友達と一緒に初詣に行ったり、おみくじを引いてみたりー、お花見にいったりー、絵を描いたり――とにかくやってみたいことがたっくさんあるのです!!』


 病沢は小首を傾げる。

 しかし、お弁当やおにぎりが陳列してある棚を見た時、チンして食べるタイプのかき揚げ蕎麦が目に留まり、店員が不在なことなどすぐに気にならなくなった。


(かき揚げ蕎麦ならチンするのもありなのかな? でもなあ……)


 手に取ってみるも、透明なパッケージ越しに見えるかき揚げがシナシナしているのが見えた。

 病沢にしてみればサクサクしていないかき揚げなど論外。

 すぐに興味を失い、元の場所に戻そうとする。


 その時、手書きのPOPと呼ばれる類の広告が目に留まった。

 ここのコンビニ店員が書いたものらしく、手書きのメッセージとイラストがセットになっている。見た瞬間、手作り感があり親しみやすい印象を抱く。これも消費者の購買意欲をなくすための広告——。


 ”カップ麺の蕎麦よりチンする蕎麦の方が美味しいに決まってます!!”


 ”年越しするなら、わたしは断然こっち派!!”


 病沢はそれを一読した時、ややムッとした顔になり心の中で反論する。


(電子レンジでチンして食べるかき揚げ蕎麦って、あんまり美味しくないんだよ! かき揚げがサクサクしてなくてシナシナで味には軍配が上がるかもだけど、メインのかき揚げがサクサクしてない!! 俺は圧倒的にカップ麺派だ!!)


 やや鼻息を荒くした病沢は手に取った蕎麦を元の位置に戻すと、ゆっくりと歩きながら買い物を再開する。


 お弁当コーナーの反対側には腰丈ほどの大きさの冷凍庫があった。入口からは他の棚のせいで見えなかったが、薄っすらと霜のついたアイスクリームや氷菓、冷凍食品、さらにはロックアイスなどがが積みあがっている。


 ”冷たいアイスで火照った体を冷まして!! 話題の新商品登場!!”


(コンビニ限定フレーバーのアイスクリーム……。最近、ネットでCMやってたっけ? でも、これあんまりフレーバーの相性が悪くていまいちなんだよなぁ……)


 お弁当とアイスを無視すると、壁を背に備え付けられた巨大なドリンク専用の業務用冷蔵庫に突き当たる。

 コンビニの壁一面を使った巨大な冷蔵庫だ。

 レジ二台がある場所とは正反対の方向になるショーケースには、透明なガラス越しに大量のペットボトル飲料やソフトドリンクが入った缶飲料、さらにはビールやチューハイといったアルコールがズラリと並び、キンキンに冷やされていた。


 冷蔵庫のガラス扉を開けずに奥を覗き込む。

 ジュースが入った500mlの缶が奥へと奥へと並んでいた。さらにその奥にはドリンクを後ろから補充するためのバックヤードと呼ばれる空間が見える。


 「そういえば店員さんは……」と病沢は奥の薄暗がりに目を向けた。

 しかし、ここにも店員の姿はない。


——品出し中だろうか?


 人の姿を探し求めるように、商品が並べられた棚と棚の間の通路を覗き込む。


 店内に店員がいないということは、それ以外の業務をしているのかもしれない。

 真っ先に思い浮かぶ仕事といえば品出しだ。

 商品が少なくなったら補充する仕事。

 低い場所に補充するために、腰を屈めていたり、入口から死角になるような場所で店員が作業しているかもしれない。それならば店内に誰もいないように見えてもおかしくはない。


 そう思ったのだが——


(……ここにもいない。無人店舗に改装したのか?)


 病沢は首を傾げた。

 昨今のIT技術の進歩は目覚しく、あらゆる産業で自動化が進んでいる。

 コンビニ業界も否応なしに無人店舗への移行が着々と進んでいる最中だと聞く。首都圏では無人店舗型のコンビニも珍しくなく、事前にクレジットカードを専用のアプリに登録しておけば、商品を棚から手に取った瞬間、自動でお金が引き落とされる仕組みだ。レジで会計することは不要。そのまま商品を持ったまま外に出れば買い物は完了する。


 もとより人手不足が顕著な業界ではある。

 少しでも人員を減らして省力化、人件費を浮かせてコストダウンを狙っているのだろう。機械は人間よりも正確で雇用保険もいらない。必要なのは定期的なメンテナンであって、賃上げを要求したりSNSで炎上するような問題行動を起こす質の悪い労働者とは無縁だ。


 それに日本は超超高齢化社会である。

 元より、人手不足が深刻な日本で従業員が24時間接客を行おうなどというのは土台無理な話なのだ。最低賃金で働く労働者は減り、体の不自由な年寄りばかりが増えた。今は体がまだ元気な高齢者が年金の足しするために働くか、外国人のバイトが技能実習生として働くのを目にすることが多い。時代の流れには逆らえないといえば、それまでだが——


『それでは次のコーナー……に進みたいところですが、一旦、ご来店のお客様にお願い申し上げます。当店では未成年の喫煙・飲酒を防止するための年齢確認を行っております。身分証明書をご提示いただけない場合には販売をお断りさせていただくことがありますので、どうかご了承ください。また店内での喫煙および敷地内での喫煙は固くお断りさせて頂いております。飲食はイートインコーナーでのみお願いいたします』


 もし無人店舗に改装してしまったのなら、スマホのアプリのアップデートをする必要がある。

 以前、無料でお菓子が貰えるクーポンを配られていた時、お菓子目当てでアプリをダウンロードしたことがあったが、それ以来、アプリは起動していなかった。折角、いざ買い物をしようとしても古いバージョンのアプリは使えないかもしれない。


(いやいや、そんな話は聞いたことがない……。前に来た時は普通に営業してたしな。いくら無人店舗といっても品出しをする人間ぐらいるはずだろ)


 まして通勤途中で毎日目にする店舗だ。

 いくら無人店舗に改装するにしても、それなりに工事が必要なはずである。

 いきなり無人店舗に変わったとは思えなかった。それに自動で会計が済むからといって全く無人で営業できるものではない。各種事務作業や商品の補充といった作業は、今も人間がやらなくてはならない仕事だ。


 第一、レジ台があるではないか。

 それこそコンビニが有人店舗であることの証明である。


(——だとすると店員さんはトイレか?)


 他には考えられない。

 たまたまトイレに行っているだけで、そのうち帰ってくるだろう——と病沢は買い物を再開する。


 目当ての商品を探すべく陳列棚へと赴く。

 棚自体は病沢よりやや背が低いもの、びっしりと商品が並ぶため少なからず圧迫感を覚えてしまう。


 カップ麺はコンビニの主力商品だ。

 売れ行きもいいのか、一目では収まり切れないほど商品が並んでいる。

 一口にカップ麺とはいってもその種類は千差万別だ。誰もが知っている食品メーカーのヌードルや、コンビニが独自に開発したプライベートブランドのカップ麺、ラーメンのみならず焼きそばやうどんまでインスタントで食べられる。そこに袋麺まで含めれば、その数は膨大だ。


『さて! 次はお楽しみリクエスト曲のコーナーです! ラジオを聞いているリスナー、従業員の方から希望があった曲を流しちゃう、ルーチャンネル大人気のコーナーだよー☆』


 大量に並ぶカップ麺の中から、目当ての蕎麦を探そうとする。

 しかし、やはりと言うべきか、ここにも商品を買わせようとしてくる広告があった。

 ちょうど病沢の目線がくる高さの位置には、


”品切れ続出!? 売り切れる前に買っちゃいなよ!!”

”カップ麺ばかり食べてると健康に悪いですよ?”

”野菜もたべろ!!”


 カラフルな文字が躍っていた。


『今回は、デイリーエイトのお客さんからお便り付きでリクエストがありました。”デイリーエイトで働くアルバイトの方、お客さんの皆さん、お元気ですか? テンションあげあげですか? うぇーい!! もう少しで新年がやってきますね!! 今晩までご苦労様でした。長い間、デイリーエイトを利用していますが、いつも店員さんには頭があがりません。もう少しで新年ですが、この時間に働いている人たちにエールを送りたくて、この曲をリクエストします!! コンビニ店員さんいつもありがとう!!”』


 病沢は思索に没頭する。

 気になる商品が多すぎるのだ。

 ラジオから聞こえてくるリクエスト曲を無視し、自分に言い聞かせた。広告に操られて他のカップ麺を買うなど有り得ない、と。


 誘惑を振り切り、病沢はついに探していた商品を見つける。

 足元に近い位置、目につきにくい最下段にカップ蕎麦はあった。


”カップ麺の蕎麦を選ぶなんて……! なんてことを……!!”

 

 POPもあった。

 が、それは無視する。

 緑色がトレードマークの蕎麦を見つけると、病沢は意気揚々と手に取る。

 ラーメンも悪くないが、今は年越しそばだ。


 頭の中で、蕎麦を食べている様子を思い浮かべる。

 平べったい、いかにも成型して作りましたと言わんばかりの正円のかき揚げ。先にお湯を入れて、3分経過してから、かき揚げを出汁つゆの中に沈める。かき揚げが出汁を吸い込み、油がスープに溶け出すのを蕎麦を啜りながら待つ。いい感じに仕上がったかき揚げを——サクサク感が残っている内にかぶりつく——。


 頭の中で蕎麦を啜った病沢は満足げに何度か頷く。


「やはり蕎麦といえばこれだ。チンするかき揚げ蕎麦など邪道もいいところ」


 買い物かごは軽い。


(蕎麦だけだと味気ないな。折角だし、他にも何か買っていくか……)


 スープの塩っ気を思い出し、喉が渇くだろうことを予見した。

 乾燥しがちな冬の気候。塩分強めのスープを飲めば、今度は喉が乾いてくるだろう。

 それに明日からはネットの友人と共にゲームに明け暮れると予定が決まっている。水分補給用にジュースを何本か常備しておいても良いだろう。

 

 カゴの中にカップ蕎麦を放り込む。


(やっぱりコーラか? でも、糖分が気になるな)


 若いころならいざ知らず、積極的に体を労わらないと目に見えて不調になるお年頃。本当ならブラックコーヒーか紅茶、あるいは緑茶の方が健康にはいいのだろうが——。

 

「まっ、いいか。新年だしな。これぐらい構わないだろう。自分の体は来年から労わればいい」


 病沢は顔を微笑ませながら誰に言うわけでもなくそう呟いた。

 再びドリンクが冷えている冷蔵庫に戻ってくる。


(やっぱりコーラだよな。ペットボトルじゃなくて缶が一番旨い……)


 ドリンクコーナーにはペットボトルと缶に入ったコーラの両方が冷やされていた。内容量はどちらも変わらない500mlであるが、缶に入ったコーラの方が圧倒的に美味しい。詳しくは知らないが、ペットボトルの場合は炭酸が抜けやすいとか、缶のほうがよく冷えるからだとか、本当か嘘か分からないような話を聞いたことがある。


 ”コーラ……キンキンに冷えてますぜ? 旦那ッ!!”


 冷蔵庫の透明なドアを開けて、何本かコーラ缶を買い物カゴに入れていく。

 重量感のある冷たいアルミ缶を何本かカゴの中にいれ、冷蔵庫のドアをバタンと閉める。


 透明な扉には自分の姿が映っていた。

 スッと病沢の顔から笑みが消え、苦虫を嚙み潰したような顔になる。

 自分でも何故かは分からない。

 ドアから目を逸らすと、隣に冷蔵庫に陳列してある缶チューハイやビールが目に入った。


(……嫌なことを思い出してしまった)


 首を横に振りながら、今年の飲み会のことを思い出す。

 会社員ともなれば酒の席を断ることができない場面に遭遇するものだが、これが実に忌々しい。


 というのも、仕事というものは自分一人で完結するものではなく基本的には共同作業である。

 何か問題が発生すれば、上司に指示を仰ぐこともあるだろうし、他部署の人間に頼らざるを得ない場面は往々にして遭遇する。

 そういった時、お互いが顔見知り程度に仲が良ければ、気負いせずにコミュニケーションをとることができる。仕事の円滑化というやつだ。


 では、どうやってそういった良好な人間関係を構築するのかと言えば社内行事などがチャンスになる。普段から接点のない部署の人と話ができたり、仕事の話を聞くことができる絶好の機会である。下っ端の人間ならお酌をして回ることで上司や他の人間の顔を覚えることも、顔を売って自分のことを覚えてもらうことも可能だ。


 しかしである。

 問題なのは酒——アルコールである。


 病沢としてはアルコールなど一滴も口の中には入れたくはない。

 生まれつきの下戸であり、お酒を一口でも飲めば顔が真っ赤になる。

 ビールなど病沢にとっては苦いだけの飲み物である。


 これが実に会社組織と相性が悪い。

 忘年会に新年会 、歓迎会、送迎会、打ち上げ等々——酒の席が多すぎる。

 

 「飲めば強くなる」などという根性論。

 席につけば最初の飲み物はビールと勝手に決めつけられて乾杯。目上の人にお酌して回り、誰かに注がれた酒を飲まないでいれば「俺の酒が飲めないのか」などと言われる。


 丁重にお断りしようするものなら「酒は百薬の長」などと意味不明の妄言を言い出す始末。

 病沢から見れば、薬物依存症の連中は明らかに飲みすぎなのだ。

 そもそも健康体であれば、薬を飲む必要などない。インフルエンザになったからといってタミフルを一度にがぶ飲みするようなことはしない。しかし、アルコールに限れば彼らにとっては別らしい。


 やっと自分の席に戻ってこれたかと思えば、隣では同僚がスパスパとタバコという名のドラッグを吸引している——そういった光景にウンザリした。ストレスが多すぎて、人間関係どころではないのだ。


 では飲み会に参加しなければいいと考えもしたのだが、上司や同僚が参加しているのに自分だけが断ってしまえば、恐らく査定に影響するだろう。そうなれば契約の更新もなくなり、職を失い路頭に迷う——

 

 肺の空気を全て吐き出すような勢いで、深いため息をついた。

 手に持った買い物かごはずっしりと重い。乱暴に冷蔵庫のドアをバタンと閉めると、そこから逃れるようにレジへ向かう。元来た道を引き返すように、アイスや冷凍食品が冷やされている冷凍庫を通り過ぎた。


「まだ来てないのか……」


 とりあえずレジのカウンターにカゴを置いたものの、以前として店員は帰ってきてはいなかった。

 無人のレジで病沢は腕を組む。


「ふうむ……」


 待っている間、やることもない。

 病沢はカゴの中に入れた商品を丁寧にカウンターの上に並べていく。カップ麺のバーコートが印字されている蓋の部分をレジの内側に向け、店員さんが少しでも読み取りを楽にできるようにしておく。コーラ缶はバーコードのある裏側を全てレジ側に。深夜シフトの店員さんのためなら、このぐらいは当然やっておいてあげたい。


 それをやり終えると、今度こそ本当にやることがなくなってしまった。

 買い物カゴの手をかけて、トントンと淵を叩く。

 店内を見ても店員が帰ってくることもなく、新しくお客さんが来る様子もない。


(お腹でも壊したのかな? 外でゴミ捨てしている様子もなかったし……)


 病沢はトイレがある方向を背伸びしながら見る。

 お腹を壊して店番ができないのであっても、別段それを咎めようとは思わない。

 コンビニで働くのは大抵若いアルバイト店員か年金暮らしの老人というイメージだ。こんな深夜に病沢がカップ麺を買えるのも、誰かが働いてくれているおかげである。

 

 コンビニの店員。

 それも寂れた田舎ともなると、貰える時給はたかが知れている。

 真夜中に働き、あまつさえ大晦日まで勤務している彼らの健康を思えば、トイレでゆっくり用を足す時間くらいは待ってあげたいというの病沢の心情である。


 やることもないため、病沢はスマートフォンを取り出した。

 ブラウザを開いて『TD、大会、日程』と打ち込む。


(エントリーが始まるのは2月からか……。うちの就業規則ってどうだったかな? 有給休暇の申請なんてやったことないし……。事前に申請っていっても、どうやって申請するんだ? 上司に直接申し出るとかか? 仕事を辞めずに有休とれるのが一番のシナリオなんだが——)


 うーん、と病沢は渋い顔になる。

 やはり上司の顔が気になるというのもあるが、大会の日程に合わせて都度都度で有給を申請するのは心理的なハードルが高い。ただでさえ苦手な上司と顔を合わすのは苦痛なのに、それを何度も行うとなると、こちらの胃が痛くなるのは確定だ。


 というよりも、上司のことを考えただけで病沢のお腹がジワジワと痛み始めた。


 お腹?

 

(あー……胃が痛い……。それにしても、いくら何でもトイレから帰ってくるのが遅すぎないか?)


 店員さんがお腹を壊してトイレに籠もっているとしても、これだけ時間をかけて待っていても帰ってこないのはおかしい。


「トイレの中で気を失っているとか? まさかね……」


 軽く笑って、トイレの中で気を失っている店員の姿を想像した病沢だが、ジワジワと不安に襲われる。

 考えてみれば、本来、人が眠るべき時間である深夜に働いているのだ。体には相当負荷がかかっていることは想像に難くない。ワンオペ状態の時にトイレで倒れてしまった——というのは有り得ない話ではないのだ。次第に、本当に倒れているのではないかと思い始めた。


 スマホをポケットに仕舞いこむと、病沢の足は動き始めていた。

 レジに商品を置いたまま、業務用冷凍庫の方から回り込んでトイレに向かう。先ほどコーラをカゴの中に放り込んだ冷蔵庫の前を通り過ぎ、トイレがある方向に体を向けた瞬間、病沢は「うっ……」と思わず足を止めた。


 壁の一角をくり抜いたかのように四角い空間が存在していた。

 しかし、雰囲気が異様だった。


 奥には洗面台と鏡、そのすぐ横にトイレのドアがあるだけの狭い空間。

 天井の照明は白色の蛍光灯ではなくオレンジ色の電球。

 切れかかった電球はほとんど聞こえない音を立てながら点滅を繰り返している。


——カチ、カチ、カチ。


 照明の光量が足りないだけでなく、よくよく見れば洗面台は水垢だらけで、白い洗面台が汚れている。水道管は剥き出し。備え付けの緑色の液体石鹸も不気味に見える。清潔な店内とは真逆で、お世辞にも綺麗とは言えない。 


 ある時、フッと電球から光が消えた。

 目ざわりな点滅が消え、病沢は正面の鏡に向かい合う。


 錆びだらけの鏡。

 洗面台の上に備え付けられた鏡には黒い染みのような錆が入っていた。

 暗さも相まって、鏡の中にいる自分が黒い人影のように見える。

 

 病沢は暗い空間の中にゆっくりと歩み寄る。

 それまでハッキリと聞こえていたリクエスト曲が背後へ遠のく。


 病沢は洗面台から横に体を向ける。

 トイレのドアにはWCという文字があり、その下に男女兼用であることを示す男と女のピクトサインが飾られている。


——単にバイトがバックレているだけならいいんだが……。


 病沢はそう願いつつドアノブを見る。

 そこにはトイレが使用中であることを知らせる赤いラインが見えた。誰かが中にいることは間違いないだろう。中にいるのがお客さんなのか、それとも店員なのかは分からない。しかし、店員が一人もいないこの状況なら、恐らくは——


 意を決して、病沢はトイレのドアをノックした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る