69話
交易街の出立から3日あまりが過ぎた昼下がり。
側面に張り出したパドルを勢いよく回転させる魔道具船が、水しぶきを上げながらミダスの港へと近づいていく中。
小揺るぎもしない船内の食堂では、食事を終えたアルギスとハンスの間に、ゆったりとした時間が流れていた。
「美味しかったね。忘れたつもりだったけど、こればかりは生家が恋しくなるよ」
未だの仄かに温かさを残すお茶で唇と濡らすと、ハンスはほぅと息を吐きながら、遠い目をする。
向かいの席で感慨深げに空の食器を見回すハンスに対し、アルギスは訝しげな表情で視線を上向けた。
「……ウィルヘルムに、頭を下げたらどうだ?」
ややあって、お茶のカップへ手を伸ばしたアルギスの口から、空々しい疑問が溢れ落ちる。
しかし、アルギスへ顔を向け直したハンスは、苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「残念だけど、兄上へ頭を下げても無駄さ。これは、本国の決定だ」
「仮にもシェラーだろう?掟があっても交渉くらいは……」
予期せぬ返答に、アルギスは取り上げたカップを置いて、テーブルへ身を乗り出す。
腑に落ちない様子でアルギスが眉を顰める一方、ハンスは笑みを寂しげなものに変えて、再び小さく首を振った。
「あはは、僕はシェラーじゃない。……というより、臣民籍そのものが存在しないというべきかな」
「……名奪刑、か」
苦々しい口調で独りごちたアルギスは、憂いを帯びるハンスの表情に目を伏せる。
そのまま難しい顔で黙り込むアルギスに対し、ハンスはぽかんと口を開けながら首を傾げた。
「よく知っていたね。どこで聞いたんだい?」
「たまたま耳に入っただけだ。それよりも、お前は何をした?」
目をパチクリさせるハンスへ素っ気ない言葉を返すと、アルギスは眉間の皺を深めながら話題を変える。
しかし、向かいに座るハンスは、口を噤んだまま話そうとしない。
それから、暫く2人の間に無言の時間が続いた頃。
テーブルの上で指を組んだハンスが、躊躇いがちに口を開いた。
「師匠に、弟子入りを」
「それ、だけか……?」
「うん。色々と複雑でね」
あっさりとした返事に愕然とするアルギスに対し、ハンスは困ったように目を伏せながら頬を掻く。
他方、ポケットから魔道具を取り出したアルギスは、時間を確認いて、ひょいとカップを取り上げた。
「どうせ暇だ。かいつまんで話せ」
「そうだなぁ。あまり、詳しいことは話せないけど――」
静かにお茶を啜ったアルギスが返事を待つ中、ハンスはあちこちへ目線を彷徨わせながら語り出す。
なんでも、二等臣民の出身であるメリンダは、本来であれば森都への入場を許可されていない。
しかし、アズルミーダが森都守護の任を押し付けたことで、特例として、居住を許されているというのだ。
「――つまるところ、メリンダは掟の外にいる存在だ。そんな相手へ弟子入りをすれば……わかるだろう?」
言葉を選びながらも一息に話しきったハンスは、仏頂面を浮かべるアルギスへ、ニコリと笑いかける。
これ以上話すことはないとばかりに口を閉ざすハンスへ、アルギスは長いため息をつきながら、首を縦に振った。
「なるほどな……。概ね、理解した」
「それは、良かった」
じっと説明を噛みしめたアルギスに一層笑みを深めると、ハンスは既に冷たくなったお茶を口へ運ぶ。
すると、示し合わせたように黙り込んだ2人の間には、再び気まずい沈黙が広がった。
「……悪いが、私は先に部屋へ戻らせてもらう」
しばしの後、残っていたお茶を飲み干したアルギスは、居たたまれなくなったように、椅子から立ち上がる。
そそくさと衣服の乱れを整えるアルギスに対し、ハンスはテーブルの端に置かれていた金属製の急須を持ち上げた。
「うん。港へ着くまでには、僕も戻るよ」
「では、また後で会おう」
慣れた手つきでお茶を注ぎ直すハンスを尻目に、アルギスはテーブルに背を向けて、出口へと歩き出す。
そして、使用人たちが開けた両開きの扉を抜けると、腹をそっと撫でながら、淡く輝く鉱石に照らされた廊下を進んでいくのだった。
◇
港に並び立つ倉庫群が赤く染まる夕暮れ時。
魔道具船から降りた3人は、王国へと支流の注ぐテジル運河の船着き場と向かっていた。
(はぁ……この後で、ソーンダイク領へ向かうと思うと気が重いな)
やっとの思いで行列を抜けたアルギスは、前方を見渡して、げんなりとした表情を浮かべる。
というのも、堤防の先に見える船着き場もまた、娯楽街へ向かう船を待つ人混みで溢れていたのだ。
落ち込んだ様子でアルギスが足を進める中、貧民街へと入る通りの前で、隣を歩いていたハンスが不意に立ち止まった。
「買って帰りたい素材もあるし、僕はこの辺りで失礼するよ」
「そうか。では、気を付けて帰ってくれ」
「おや、意外な言葉だ」
振り返りざまに気遣わしげな言葉をかけるアルギスに、ハンスは目を丸くして歩み寄る。
しかし、ハンスと向かい合ったアルギスは、ニヤリと皮肉げな笑みを浮かべながら、肩を竦めた。
「せっかく救い出したのに、また捕らえられては目も当てられないからな」
「……縁起でもないことを言わないでおくれよ」
不吉な物言いに頬を引き攣らせると、ハンスは思い出したように辺りを見回す。
一転して落ち着きを失くしだすハンスに、アルギスは口元を隠しながら、クツクツと喉を鳴らした。
「心からの、言葉だよ」
「……エンドワース家らしい言葉だね」
からかい交じりの口調に唇を尖らせたハンスは、アルギスへじっとりとした目を向けながら言い返す。
小さく吐き出されたハンスの声が雑踏に消える中、今度はアルギスが周囲を警戒し始めた。
「なんだ、アランドールからでも聞いたのか?」
「いいや、学院の制服を見た時に気がついたんだ」
目線を揺れ動かしながら尋ねかけるアルギスに、ハンスは意趣返しとばかりに、ニンマリとした笑みを浮かべる。
含みのあるハンスの態度に、これまで難しい顔をしていたアルギスは、表情を一変させて目を瞬かせた。
「なに?どういうことだ?」
「あははは。まあ、君たちの容姿は特徴的だからね。初めて会った時に、気がつくべきだったよ」
気の抜けた声を上げるアルギスに破顔しつつも、ハンスは首を左右へ振りながら、僅かな後悔を滲ませる。
一方、釈然としない返事に頭を捻ったアルギスは、訝しげな表情でハンスへ詰め寄った。
「なぜ、今それを私に伝えた?」
「これで、君も余計な隠し立てをしなくていいはずだ。お互い、素性がわかっていた方がやりやすいだろう?」
胡乱な目を向けるアルギスへ顔を寄せると、ハンスは声のトーンを落として、ボソボソと耳打ちをする。
どこか得意げな口ぶりで言い聞かせるハンスに対し、アルギスは黙り込んだまま、不満げに眉を顰めた。
(意外と、食えないヤツだな……)
「じゃ、僕はこれで。また、王都で会おう」
アルギスの肩をポンと叩いたハンスは、笑顔で手を振って去っていく。
貧民街へ向かうハンスが人混みの奥へと消えていく中。
小さく息をついたアルギスは、幾分人の減りだした船着き場へと足を向け直した。
「……さて、私たちも行くとしよう」
「かしこまりました」
再び前を歩き出すアルギスへ、マリーは下げかけた頭を止めて、粛々と付き従う。
ややあって、堤防を降りる階段が見え始めると、アルギスは歩く速度を落として、マリーの隣へ並んだ。
「言っておくが、ここからは一直線にクスタマージョへ向かうぞ」
「承知しております」
値踏みをするような視線に晒されつつも、マリーは迷うことなくアルギスへ頷きを返す。
歯切れの良いマリーの返事を最後に、2人は前後を入れ替えて、荷馬車や人夫の行き交う船着き場へと降りていった。
(……随分と、頼もしくなったものだな)
前を歩くマリーが人混みを掻き分けて、背後へ道を開けさせる一方。
後に続くアルギスは、満足げに目を細めながら、悠々と停泊した小船へと向かっていくのだった。
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