10話
レイチェルが王都を出てから、5度目の夕暮れ時。
護衛に囲まれた馬車の一団は、緩慢な動きで、起伏に富んだ丘を抜けようとしていた。
「はぁ……」
ややあって、傾いていた地面がなだらかになると、レイチェルは外を歩く騎士たちの姿に、小さく息を吐く。
疲れたように背もたれに体を預けるレイチェルに対し、向かいの席に腰掛けていたブラッドは、キョトンとした顔で背もたれから体を起こした。
「どしたー?」
「……何でも無いわ」
砕けた態度に顔を顰めつつも、レイチェルはブラッドに見向きもせず、窓の外を眺め続ける。
そのままレイチェルがピタリと口を閉じると、ブラッドは興味がなくなったとばかりに、頭の後ろへ手を組んだ。
「あっそ。ならいいや」
(どうしましょう……まさか、こんなに時間がかかるなんて)
欠伸を噛み殺すブラッドを尻目に、レイチェルの心中には、未だ終わりの見えない道のりが重くのしかかる。
しばし馬車の中にガタガタと揺れる音だけが響く中。
純白の鎧を纏う女騎士――シグナが、レイチェルの隣でそっと片手を挙げた。
「貴方は、一体何者なのですか?」
「あぁ?俺は大将の従者だよ。話は聞いてんだろ?」
シグナの視線に気がついたブラッドは、間の抜けた表情で、頭の後ろで組んでいた手を下ろす。
ぱちぱちと瞬きを繰り返すブラッドに、シグナは肩を落としながら、大きく首を振った。
「いえ、そういうことではなく。貴方のような者を、なぜエンドワース家が引き入れるような真似を……」
「おい。俺は確かに大将の従者だが、貴族の手駒になる気はねぇ。そこは勘違いすんな」
シグナの言葉を低い声で遮ると、ブラッドは額に青筋を浮かべながら、ギロリと目を剥く。
一方、あんぐりと口を開けたシグナは、奇妙なもの見るような目で、ブラッドの顔をまじまじと眺めた。
「……随分、あの人を買っているのね」
絶句するシグナに同情しつつも、レイチェルは薄い笑みを浮かべて、僅かに声を弾ませる。
小さく溢れたレイチェルの呟きに、ブラッドはパッと怒りを霧散させて、シグナから顔を逸した。
「あん?そりゃまあ……ちょい待て」
「今度は、どうしましたか?」
手のひらを突き出して黙り込むブラッドに対し、額を押さえたシグナは、呆れ交じりに先を促す。
すると、親指で背後を指さしたブラッドは、再びシグナへと目線を戻して首を傾げた。
「もう先頭は気づいてるだろうが、この先に何人かたむろしてるのがいるぜ。どうすんだ?」
「それは、間違いないのですね?」
臆面もなく指示を仰ぐブラッドを、シグナは前のめりになりながら、神妙な口調で問い詰める。
一方、背後を振り返ったブラッドは、座席へ太ももを乗せて、馬車の窓から前方を覗き込んだ。
「ああ、気配探知に引っかかってる。どんな奴らかまでは、わかんねぇけどな」
「――隊列を整えて、速度を上げさせなさい」
ブラッドが口を閉じるが早いか、窓の外を見つめたレイチェルは、冷たい声でシグナへと指示を出す。
以降、何も言わず窓の外を眺め続けるレイチェルに、シグナは満足げな表情で、ゆっくりと頭を下げた。
「もちろん、そのように」
「おいおい。奴ら、行き倒れかも知れないぜ?見てもやんねぇのか?」
あまりにも冷淡な対応に面食らいつつも、ブラッドは再度後ろを指差して、レイチェルとシグナへ白い目を向ける。
しかし、ニコリと穏やかに微笑んだレイチェルは、手を止めていたシグナを一瞥して、大きく首を振った。
「ええ、進路を遅らせる気は無いわ」
「……ま、アンタがそう言うなら、従う他ねぇわな」
提案を歯牙にも掛けないレイチェルに、ブラッドはありありと不満を見せながら腕を組む。
扉を開けたシグナが伝令の騎士へ指示を出す中。
咎めるようなブラッドの視線に、レイチェルは嫌悪の表情で手を払った。
「……なら、鬱陶しいから、見るのを止めてもらえる?」
「へいへい」
気のない返事と共に顔を逸らすと、ブラッドはなおも不満げな表情で窓の外を見やる。
一方、キッと唇を引き結んだレイチェルは、ドレスの裾を握りしめながら、向かいに座るブラッドを睨みつけた。
「悪いけど、私は絶対に失敗できないの。邪魔だけはしないで頂戴ね」
「……ああ、アンタの指示は聞くよ。そういう約束だ」
息が詰まるような沈黙の後、ブラッドは自分へ言い聞かせるように、重々しい声を零す。
車内が再び静まり返る中、速度を上げた馬車と護衛の騎士たちは、夕陽に照らされながら、むき出しの地面を駆けていくのだった。
◇
同じ頃、エルドリア近海の小島につけた魔導船の船室では。
ハンドルを縄で縛ったゼマが、後方の椅子で目を瞑るアルギスの頬をペチペチと叩いていた。
「――おい、坊主。起きろ」
無遠慮な平手と、似合わないささやき声に、アルギスは大きく息を吐きながら眉を顰める。
鬱陶しげにゼマの手を振り払うと、目元を擦りながら身を起こした。
「……なんだ?」
そのまま寝ぼけ眼で顔を首を捻るアルギスに対し、ゼマは大きく伸びをして、扉へと歩き出した。
「もうじき出航だ。少し、手伝えよ」
「……何をすればいい」
追いかけるように席を立ったアルギスは、サッと髪の乱れを整えて、ゼマの背中へ声を掛ける。
一方、アルギスに先立って船室を出たゼマは、右舷の内側に備え付けたオールを留め具から取り外した。
「儂が左にいく。お前は右な」
(オール……?)
突然押し付けられた木製のオールに、アルギスは目が点になる。
しかし、程なくゼマが甲板から飛び降りると、水しぶきの音にハッと我に返った。
「どういうことだ?」
「こんな島の近くで炉を動かせるワケねぇだろ。儂だって世界樹様はこえーんだ」
甲板から見下ろすアルギスに愚痴を零しつつも、ゼマはグイグイと左舷を押して、船体の向きを変える。
そして、続けざまに甲板へ飛び乗ると、慣れた手付きでオールを拾い上げた。
「よっと!」
「これ、意味あるのか……?」
訳も分からずオールを漕いでいたアルギスは、遅々として進まない船に痺れを切らす。
しかし、ゼマが波の押し引きに合わせてオールで陸を押すと、船は流されるように、ゆっくりと前に進み始めた。
「儂の願掛けだ。ほれ、ちゃんと合わせろ」
手を止めて水面へ目を落とすアルギスに対し、ゼマはタンタンと甲板を鳴らしながら、オールを漕ぎ出す。
掛け声を上げるゼマに言われるがまま、アルギスもまた、渋々オールを動かし始めた。
(随分と、忙しない旅だ)
2人が息を合わせてオールを漕ぐ船は、小さな水音を上げながら、風に後を押されて沖へ向かっていく。
それから進むこと1時間あまり。
手を止めて立ち上がったゼマは、額に手を添えながら、遠くなった小島を見据えた。
「よーし。この辺りでいいだろ、嬢ちゃんを起こしてやんな」
「ああ」
ゼマがオールを片付け始めると、アルギスは甲板に手を付きながら立ち上がる。
そのまま、マリーを起こそうとアルギスが船室へ足を向けた時。
ゼマの見据えていた更に先、霧の晴れた海の奥には、延々と立ち並ぶ木々の輪郭が姿を現していた。
(……ラナスティア大陸最東端。太古の森域か)
辺りが半ば暗闇に包まれる中、遠くに見えた深緑の森は、未だ距離があるにも関わらず、睥睨するような威圧感を感じさせる。
背筋に冷たいものを感じつつも、アルギスは早々に思考を切り上げて、船室へと向かっていった。
「おい、起きろ。出航だそうだ」
「っ!あ、アルギ……!」
アルギスが軽く肩を揺り起こすと、マリーはカッと目を開けて、叫び声を上げる。
しかし、ゼマの足音に気がついたアルギスは、慌ててマリーの口を押さえつけた。
「大きな声を出すな」
「…………!」
じっと目を合わせるアルギスに、マリーは顔を真っ赤にしてコクコクと頷く。
まるで顔を寄せ合うような2人を、ゼマはニヤニヤと笑いながら通り過ぎていった。
「ハッハッハッ、仲が良いなぁ!」
(……コイツが能天気なやつで助かった)
気にする様子もなく腰を下ろすゼマにホッと息をつくと、アルギスもまた、倒れ込むように椅子へ腰掛ける。
程なく、足元へ魔石の容器を押し込んだゼマは、酒瓶片手にハンドルを回しながら、ゆっくりとレバーを倒した。
「フン~、フンフフーン♪」
「……交易街まで、後どれくらいなんだ?」
真っ暗な海の上を船がスイスイと進む中、アルギスは席を立って、酒瓶のコルクへ歯を掛けるゼマの隣に並ぶ。
すると、アルギスを横目に見たゼマは、瓶から口を離して、星の輝く空をヒョイと覗き込んだ。
「そうだなぁ……天気にもよるだろうが、この調子なら3日もありゃつく」
(なに?3日……?まだ、3日もこんな生活をするのか……)
暗澹たる状況に視界をグラつかせつつも、アルギスは何も言わず、元の椅子へと戻っていく。
ややあって、背後でため息をつくアルギスに、ゼマは振り返ることなく苦笑いを浮かべた。
「そう落ち込むなって。運が逃げちまうぞ」
「それは、励ましているつもりか?」
ゼマの声にはたと顔を上げると、アルギスは仏頂面で腕を組む。
一方、引き抜いたコルクを口から吐き出したゼマは、上機嫌に酒をあおりながら、レバーを奥へ押し倒した。
「いんや?だが、後ろ向いてても前に進むんだ。楽しまなきゃ損だろ」
「含蓄のある、言葉なことだ」
チャプチャプと酒瓶を振り回すゼマに、アルギスもまた、頬を緩めて組んでいた腕を下ろす。
しかし、しばらくしてアルギスが再びため息をつくと、ゼマはムッと口をへの字に曲げながら、肩を落とした。
「ほんと、素直じゃねぇなぁ……」
「……ああ、性分でね」
呆れ顔で瓶へ口をつけるゼマに対し、アルギスはげんなりとした表情で独りごちる。
やがて、静かに目を瞑ると、床下で響く歯車の音に耳を傾けるのだった。
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