第1話 俺と幼馴染

 窓の外の音に耳を傾ければ、蝉時雨の音が聞こえてくる。

 うちの高校は六月末の期末テストが終わればテスト休み期間に入るため、七月に入れば学校へ行く用事はテスト返しと終業式くらいだ。


 本来であればそれらに加えて三者面談もあったはずなのだが、俺は訳あって実家の奈良を離れ、ここ西東京で一人暮らしのため免除されている。というか頼み込んでそうしてもらった。実家とは折り合いが悪いからな。


 既にテスト返しも終わり、残すところ終業式だけのため、今のこの時期は俺にとって夏休みと言っても差し支えない。


 だが夏休みだからと言って休めるかどうかは別問題。

 一人暮らしは何かと金が入用だ。一応最低限の生活費は実家から貸し与えてもらい奨学金も得ているものの、それだけではもやし生活を余儀なくされるほどしか無い。


 里帰りする期間以外の夏休みの多くはバイトのシフトが入っており、今日もそのバイトの日である。時間がある時に稼げるだけ稼いでおかないとな。


 バイト用のトートバッグへと目を向けると、結ばれたいくつものお守りが視界に入りつい溜息が込み上げてくる。


 この全てが奈良の物ではない。

 奈良県臣民たる俺は奈良の大仏様【廬舎那仏るしゃなぶつ】以外の上位存在に懐疑的な立場だ。そんな奴のカバンに何故そんな奈良以外でもらえるようなお守りの数々が付いているのかというと、それは他でもない俺にお守りを押し付けてくる奴がいるからに他ならない。


 ふと外でそよ風が吹いたのか、窓越しからくぐもった風鈴の音が耳に届く。

 同時に、自宅の扉が外から開錠され当然の如く開く音が、ワンルームを一枚隔てる扉の向こうから聞こえてきた。


 うちの鍵を開けられるのは大家か、勝手に俺の許可なく作った合鍵を所有している人間くらいのものだ。そして当然大家が勝手にうちに飛び込んでくることは無い。


「まーく~ん」


 間延びしたした声と共に、とてとてと慌ただしい足音が近づいていてきて扉が勢いよく開かれた。まぁ、俺をそんな呼び方で呼ぶのは一人しかいない。


「おはよう!」


 ぱっと明るい笑顔を浮かべる俺の幼馴染――綿貫空那わたぬきくうな。フリフリとした少女チックな装いに身を包む小さな背丈と華奢な身体つきは小動物を連想させるが、実際はそんな可愛い生き物とは程遠い。


 いや外見だけで言えばSランクを最上とした場合その一つ下のAランクプラスくらいはあるが、こいつの場合とにかく性格がやばいのだ。合鍵を勝手に作るような奴だというのもそうだし、勘のいい人間であれば、そもそもこの地に幼馴染がいるという事自体異常である事を理解できるに違いない。

 視線を外しベッドに背を預けると、空那は「あっ!」と不満げに声を上げる。


「無視した!」


 こちらへ押しかけてくると、空那は両の手をフローリングに付き、顔をぐぐいっと近づけてくる。連動して肩までもないほわほわした髪が揺れると、バニラのような香りがふっと漂ってきた。


「別に無視したわけじゃない」

「じゃあなんで? なんで挨拶したのに返してくれないの?」


 ぱっちりとした目とガラス細工のような瞳が、こちらを非難するような色彩を持って見つめてくる。


 まぁ確かに勝手に合鍵を作り、それを使ってなんの合図も無しに急に入ってきて、挙句には我が物顔で部屋に踏み入る奴だったとしても、挨拶を返さないのは流石失礼……かほんとに? あっちの方がもっと失礼してない? 


 だがここで言い返しても面倒な事になるのは長い付き合いの中で理解しているため、こちらが折れるとする。


「悪かったよ。おはよう」


 言うが、空那は不服そうな表情を崩さない。


「まーくん、ごめんで済んだら警察はいらないって知ってた?」

「初耳だ」

「常識だから覚えた方がいいよ」


 どうやらこの子は随分と狭い常識の中で生きているらしい。

 呆れていると、ふと身を引いた空那が居住まいを正しすました顔をする。


「なので、まーくんにはおはようのチューをしてもらいます」

「しません」

「ガーン……ッ!」


 即答すると、空那はご丁寧に効果音を口に出して固まる。

 いや普通に考えてするわけないだろ。付き合ってもないのに。ていうかそもそも文脈からして意味不明だわ。『なので』要素どこにもないだろ今の。


「どーして⁉ どーしてそんないじわる言うの⁉」


 空那が涙目で訴えかけてくる。

 ころころと表情が変わる奴だ。情緒どうなってんるんですかね。


「意地悪も何も付き合ってもない男女がそういう事を普通しない事くらい分からないのか」

「でも空那はまーくんの事が好きなので良いと思います!」

「……」


 当然の如く好意を伝えてくる空那に、一瞬喉が詰まりそうになるが堪える。


「暴論も甚だしいな」

「暴論じゃないもん!」


 言うと、空那はぷりぷりと頬を膨らませた。いや暴論だよそれ。


「とにかくしないものはしない」

「むむ……」


 空那が弱々しく呻る。こいつに獣耳があれば間違いなく力なく倒れていたに違いない。


「だったらせめてなでな……」

「はいはい」


 何を言われるかは分かっていたので、すぐに俺の手は目の前の頭へと伸びていく。

 頭に手を乗せ撫で始めると、指の先に少し違和感を覚えた。


 ふむ、なんというかいつもよりやや髪の質が粗い気がするな。それでもまだ良質と言える方だろうが、これはたぶんテスト休みに入ったのを良い事に不規則な生活し始めてるな。今だっておはようと言いながらも午後一時回ってる。このまま放置していると健康に悪影響など及ぼしかけないし、もう少し生活リズムを改善するようさりげなく……。


「えへへ~空那まーくんになでなでされるの好き」


 ふと、ぽわぽわした声が耳に届き我に返る。はぁ、これだから俺は。

 先ほどの悲しそうな様子から一転、目の前では頬を染める空那が幸せそうに目を細めている。


「もういいな」

「えー、まだ~」

「いやもう終わりだ」


 これ以上は撫で続けるのは精神衛生上よろしくない。

 手を頭から離すと、空那が名残惜しそうな眼差しでこちらを俺の手を見つめてくる。きっとまた頭に手を戻せば喜んでくれるのだろう。

 一瞬気が迷うのを自覚するも、すぐに押さえつけた。

 正直な事を言ってしまうと、俺もこのまま一生撫でていたい気分だった。


 だってそうだろう。好きな人間なのだから。


 空那は正直あまり性格がよろしくない。自己愛が強く視野が狭いが故に、自分勝手で、相手の気持ちなど考えず自分の気持ちを押し通そうとする。そんな奴でもなければ許可なく勝手に合鍵を作ったり、それを使って勝手に上がり込むこともないだろう 


 その上で俺は空那の事が好きだ。

 合理的な感情ではないと頭では理解しているが、好きになってしまったものは仕方がない。もしどうしても合理的な理由を挙げようとするのであればそれはきっと、こいつが俺の事を好きでいてくれている事と、後は……まぁ、庇護欲とでも言い表そうか。


 が、俺と空那は現状ただの幼馴染に過ぎない。向こうが俺の事を好いてくれているのは明白だし、俺も空那の事が好きだ。


 にも拘らず一定の距離を置き続けるのは俺自身に問題があるからに他ならない。

が、そんな事はどうでもいい話だ。それよりも今はバイトに遅れない事が先決である。


「じゃ、バイトあるから」


 立ち上がると、空那が口をへの字にする。


「え、酷い! 空那来たばっかりなのに⁉」


 酷いのはお前の主張だよ。


「知らん。こんな時間に来たお前が悪い」

「むぅ、いじわる」

「そうですね」


 不満げな空那の声を流し、部屋の扉に手をかける。


「別にここにいるのは勝手だが、帰るなら家の鍵は閉めといてくれよ」

「あ、待ってまーくん!」


 出ていこうとすると、空那が俺の手首を両手で引っ張ってきた。


「まだ何か?」


 振り返ると、綿貫がポケットから布巾着取り出し目の前に突き出してくる。


「これ持って行って! お守り!」


 見てみれば布地には伊邪那美命と金の刺繍が施されていた。あぁまた増えた……。ていうかこれ、ちゃんとご利益を理解して渡してきてるんだるろうな?

 つい半目になっていると、空那は俺にお守りを握らせてくる。


「空那だと思って大切にしてね。えへへ~」


 身体をくねくねさせながら、両の手を自らの頬にあてがいはにかむ空那。

 神と自分と同一視するとはとんだ身の程知らずだな……。ばち当たっても知らないからな。


「毎度ご丁寧にどうも」


 俺は、というか九・五割の奈良県民は廬舎那仏そのもの以外信仰しないが、流石に異教とは言えどお守りをぞんざいに扱う様な事はできない。

 仕方なくカバンの取っ手に結ぶと、お守りの数々を見ながら空那は嬉しそうに目を細める。


 ま、別にお守りが何個付いたところで大した重量にはなら無いからな。実質負担はゼロだ。


「いってらっしゃあい」


 間延びした見送りの声を背に受けつつ、俺はバイト先のコンビニへと向かった。

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