おうと君とめまい君

志々見 九愛(ここあ)

1. オブリビオン

 新宿三丁目、みっちりと詰め込まれた建物が常に崩落の危険を孕んでいるこの旧伊勢丹跡一帯に、えづくほど馥郁とした血の匂いが立ち込めていた。かつての明治通りは、倒れたりひっくり返ったりしている車と、その間を縫うように転がった人間の死骸でいっぱいだ。廃都エリアの中で最も治安の悪いとされている地区なのだから、別に異常事態というわけでもないのだろう。

 そして今、彼──めまい君──は土気色の顔をして、めくれ上がったアスファルトの上に転がっていた。

 しゃがんで覗き込んでみる。

 彼のやせこけた頬の上には剥がれかかった肌の薄皮が浮いており、顔中に浅黒い静脈の網が目立ち、落ちくぼんだ目に生気は無かった。

 ぎらぎらと降り注ぐ陽光に屈して、ここまで衰弱してしまったのは明らかだった。

 僕は彼を迎えに来たわけではない。様子を見に来たのだ。辺りに散乱する人間の屍体、その臓物から漏れる悪臭に時折鼻をつまみながらも(僕は純然たる血の薫香だけを好む)、わざわざ見物しに来てやったというわけだ。

 放って帰れば、彼は間違いなく死ぬだろう。

 辺りにこれだけ血袋が落ちているというのに、這ってむしゃぶりつくこともできず、こんがり焼けて灰になる。もしかしたら彼の考える最良の最後なのかもしれない、と僕は思った。

 彼は焦点の合ってなさそうな目で、確かに僕を見ていた。懸命に口を動かそうとしている。

 僕はそこに耳を近づける。

「……どう、して」

「そのどうしてというのは、僕がこんな白昼堂々、ねばっこくまとわりついてくる日光の下で、どうして健在なのかって意味?」僕は言った。「それとも、なぜきみの居場所が分かってどうしてここに居るのかっていうこと? それとも、あんなに屍体があるのにせっかくの血を口にしないのはどうしてって?」

 彼は何か答えようとしているみたいだったが、もはやその元気すら残っていないらしい。

「やれやれ。炭化し始めてるじゃないか、きみ」僕は辺りの死体から腕をもぎ取って来、彼の口元で肉を絞ってほんの少しの血を口に染み込ませてやった。「まず初めに、僕が今平気なのは狼血をキメてきたからだ。本来なら倦怠感でぶっ倒れて燃えてるよ。気休めに肌が褐色になるまで美黒サプリメラニンローダーを飲んで、その上から日焼け止めもばっちりだ。でもまあ、そろそろ日陰に潜らないとやばいかもね。で、きみがこの辺りにいるだろうなとは見当をつけていた。後は血の匂いに誘われてってワケ。廃都に夜の王が君臨して慈善活動をしているって、噂になってるよ。炊き出しでもしてるの? ちょっと笑っちゃう。この状況はナワバリ争いの殿しんがりでもしたってとこかな。最後に、僕は死血を好まない」

「それは……し、知って……いる……」

 僕は僅かに活力を取り戻してもなお弱っている彼を見るにつけ、悪い考えが頭をよぎった。日光の中で力を使って消耗したくなかったし、一目顔を見たら去るべきだと考えていたけれども、連れて行ってしまうのもいいかもしれないと思ったのだ。

 指をぱちんと鳴らすと、僕の右上半身が多くの蝙蝠となって拡散した。すっかり銀色に褪せてしまった髪の毛と同じく、灰色ネズミのようなみすぼらしい蝙蝠だった。それらを彼の下に潜り込ませて持ち上げる。手繰り寄せて、蝙蝠たちを体に戻す。

 僕は彼の背中と膝裏を腕で支えて抱える形になった。

 どうしてと彼が言った気がしたので、「ん? きみのことだからさ、かっこよく前のめりに死んで、仲間なのか配下なのか、そいつらにきみの死に様を見せつけたかったのかもしれないけど、僕らは日の下で死んだら灰になるよね、いや、日が暮れるまではなんとか生き延びるつもりだったとか? あいつらが来てくれるまで耐えるんだ、的な? でも残念だったね、来たのが僕で。そういうきみの外に対するクールぶった所作を邪魔してやろうと思ったのさ」

 僕はとりあえず彼をメトロの中へと連れて行って転がしておいた。ここいらはひどく不衛生だが、地下であるだけ、日差しの下にいるよりはよっぽどいい。

「食糧を持ってくるよ」

 外に出る。正直、日光がしんどくなってきた。ポケットから狼血の小さなパウチを取り出して、注ぎ口の蓋をねじって外すと、くっと一口で飲み込む。明らかな異物が体を駆け巡るのが分かる。いぬは素晴らしいものだ。肉を食えば身体が暖まるし、血を飲めば体に獣が回る。時には友として、あるいは犯して遊ぶやつもいるかもしれない。

 綺麗に頭を撃ちぬかれて死んでいる人間を見つけたので、引きずって戻った。めまい君は相変わらず死にかけているが、炭化の進行は収まっている。僕が何もしなければ一生このままだろう。それを眺めているのも一興かもしれないが、それで彼を助けた意味が薄まるのはちょっと嫌だった。

 僕は指を尖らせて屍の腹を裂き、にが玉を潰さないように肝臓を摘出した。弱った吸血鬼には、肝臓の血が一番効くのだ。

 持ち上げて確かめてみると、ちゃんと血が残っていることが分かった。時間が経っていないからか、鮮度も悪くない。とはいえ、血抜き用の医療器具なんて持ってきてないから、飲ませる方法は一つしかなかった。

 僕は右の口端を上げて大きく口を開くと、肝臓にかぶりついた。前歯の二つ外にある長くて鋭い狼歯きばを肝静脈に突き刺して、血を吸い取っていく。それを口の中に戻して舌で転がしながら鮮度を確かめると、僕は彼に口づけをした。


 ──んっ……くちゅ……。ちゅる、ちぅぅ……くちゅ、ちゅ……れるぅ、れろろ、んっ、ふ……。ちゅ、ちぱぁっ♡


めまい君!Vertigo! ちゃんと飲み込みたまえ!Sanguinem bibere tu deves! 僕の唾液交じりだけどね……みんなが地球を平面だと思ってた頃からの仲じゃないか。一緒に世界の端っこの滝つぼに落っこちてみようとして、同じ棺桶での漂流の果て、こうしてたどり着いた国にずっと居ついて、だいたいきみの性質は知っているんだ。一番見てきたはずさ、きみのいろんな面を」

 力なく嚥下した彼は僕に恨みがましい表情を向けながらも、だんだんと血色が良くなっていった。カサカサで割れ欠けていた肌がみずみずしさをわずかに取り戻していく。

「マイム卿……」

 腹の底から振り絞ったみたいな言い方に、僕は彼からの恨みがましさを感じとる。背筋がぞくぞくしてくる。

 体調が安定し、彼は回復のために入眠していく。睡魔に抗おうとしているが、吸血鬼の性質につき、全く無駄なことだ。

 めまい君! きみを持ち去り、汚れた体を清め、その長い黒髪を梳いてやろう。

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