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 僕らは、今朝飛び出したばかりの学校前まで来ている。時刻は午後五時。既に放課後だ。ランニング中の部活や帰宅する先生が目に入るたび、僕は何ともいたたまれない気持ちになった。しかし、そんな中でも冬の核と宇野は平然と校門を通り抜ける。こいつらは常識を知らないのかと思ったが、ここを飛び出した張本人である僕がそんなことを思う権利は無いのだと気づいた。僕は自省して、渋々校門を抜ける。


「どこ行く?」


 僕が言う。 


「少なくとも、今朝、教室に夏の核はいなかった。今も別のとこいる可能性が高いと思う」


 校舎内に入り、捜索を始める。


「わっ!」


 しばらく進んだ先にあった階段を上りきる手前で、冬の核がつまずいてよろめく。僕は咄嗟に彼女の腕を掴んで、転倒を防止した。


「ありがと……」


 冬の核の顔が赤らむ。彼女はそれを誤魔化すように、早足で歩き始める。


 それからも、普段は絶対に立ち入らない部屋などを探して回ったけど、夏の核の姿はなかった。


 話し合った結果、教室に向かうことになった。


「ごめん、なんかしんどいかも……」


 と、二―四に続く廊下を歩いているとき。冬の核が突然立ち止まった。


「大丈夫?」


「ゆっくりめで歩いてくれたら、大丈夫」


 冬の核はさっきよりも遅い足取りで歩きだした。僕らもそれに合わせる。


 冬の核は教室に着くなり、入口付近の椅子に座った。僕がその隣、宇野は僕の後ろに着く。


「私、夏の核を見つけた」


 しばらくあった教室の沈黙は、柔らかな冬の核の声にかき消された。


「君だよ、あまくん」


 彼女の指は、たしかに僕を指していた。


「ぼ、僕?」


「は、こいつが夏の核?」


 僕も宇野も開いた口が塞がらなかった。


「昔のこと覚えてない?」


 冬の核の問いかけに、僕は口を開けたまま首を振る。


「私、実は今朝にはもう気づいてたんだ。君と昔、話したこと。君が夏の核だってこと。冬の日、引っ越す前に風邪をひいた私と君は話したんだ。名前も『冬の核』って名乗ったのに、覚えてないなんてひどいなあ」


 冬の核が体勢を崩す。俯いて咳込んだ。


 僕が夏の核——? 彼女の言うことが真実なら、僕の記憶にある少女は冬の核と同一人物ということになる。


「そ、それがほんとなら、君はどうして僕の正体に気づいたんだ?」


 冬の核と敵対関係にあるわけでもなし。しかし、僕は緊張を解くことができなかった。


「冬の核は冬以外の核に触られると体調を崩すんだ。昔の風邪も今回の風邪もそれのせい。だから気づいた。

 初めて君に触った時は何ともなかったけど、さっき腕を掴まれた二回目で病状は悪化した。数日経つと治るから大丈夫だけどね」


 覚えていないだけで、僕の記憶よりも以前に、僕らは話したことがあったのだろう。でなければ冬の核が昔に風邪をひいたエピソードは成立しなくなる。僕の記憶だと、昔に彼女を触った記憶はないのだ。


「で、でもさ、あの時は一回しか触らなかったのに君は風邪をひいただろ? 今回は二回触られてようやくだったのに、おかしくない?」


「体が弱かったんだ。あの頃の私たちはこんなに小さかったからね」


 冬の核は手を下げて、低身長を示した。僕はそれに納得したくなかったけど、根拠もなしに彼女の話が嘘だと言うこともできなかった。


 僕は彼女の話を全て事実として受け止めた。ゆっくりと、穴がないかどうか確認しながら咀嚼して飲み込んだ。


「なんで、君の中にあったはずの夏の核が消えたのか。それは私にもわからないけどね。落ち込むと核が消える感じがするんだけど、昨日か一昨日に何かあった?」


 ——落ち込むこと。やはり失恋しか思い浮かばなかった。


「あった。それについて話す必要は?」


「ない。何かあったという事実が確認できたら十分だから。ところでさ、君の口ぶりからして、核が消える感じもわかってなさそうだけど、そこらへんはどう?」


「全くだ。だけど仮説はある。寝ている間に、失恋に追い打ちをかけるような夢を見たのだとしたら、その時に落ち込みがピークに達したんだろう。僕が目覚めたのは寒さのせいだし、寝ている間に核が消えたんじゃないかな」


 昨日は二十三時頃に寝た。その時間はまだ冷房から発せられる冷気だけが部屋に漂っていた。部屋が氷に包まれたように冷えたのはその翌朝のことだ。だから核が消えた瞬間も、その辺りだと踏んで構わないはず。


 ——謎は全て解けたか?


「なるほどね。たしかにその説明は納得がいくけど……君自身が夏の核である自覚がなかったことについては、どう説明するつもりなの?」


 冬の核は少し怒っているようだ。まあ、そりゃそうか。季節の中心的役割を担う核にその自覚が無ければ非常事態に対処できないのだから。


 僕は自覚がない故にこんな異常気象を招き、そしてそれは未解決のまま。


 僕はここに来てようやく、自身の犯した大罪に気づいた。気づいてしまった。本当は気づきたくなんかなかった。夏の核はずっと行方不明のままでよかったのだ。


「さあ。ほんとに自覚がなかったとしか」


「理由がないと納得できない。あっても無自覚は許されないけど」


 冬の核は訝しげな瞳で僕を睨む。今回の異常気象は僕が故意に行ったことだと思われているのかもしれない。


 自覚なしというものは、彼女にとってはまるで都合の良い言い訳にしか聞こえないことはわかっている。僕は地球環境を破壊したいとは思っていないし、思ったことはない。ここに来て疑われてもどうしようもないのだが……。


「世の中には説明のつかないこともあるんだよ」


 適当な理由すら思い浮かばなかった僕は、その場を取り繕うセリフを吐いた。

 冬の核は一度咳込む。相変わらず怪訝そうな表情を崩す気配はない。寒さも相まって、緊張はより一層高まった。


「まあ……そういうことにしとくよ。だからって君が許されるわけじゃないけどね。核として今回の件は死んでも償うべき。冗談抜きで」


 冬の核はため息を吐く。


『死ぬ』というワードに反応したのだろう。宇野が唐突に立ち上がった。


「い、いくらなんでも言いすぎだろ!」


 突然の怒号に僕は首をすくめる。僕の首元に水滴が当たる感触があった。雨は降っていないし、雨漏りではない。後ろから水をかけられたとも考えにくい。ならば水滴の正体は一つしかない。僕は不快感を覚えながらポケットティッシュを取り出して拭いた。それを見たのだろう宇野が「ごめん」と一言。口角泡を飛ばすほどの気概はわかったが、人に飛ばさないでほしいものだ。


「宇野君。今の状況わかってて言ってるなら、君こそほんとに死んだほうがいいよ」


 冬の核の、宇野を刺すような視線が空気を悪くする。


「悪かった……」


 宇野は静かに座った。


「僕にできることがあるなら、なんでもやるよ」


 今すぐここで死ねと言うならここで死ぬし、宇野を殺せと言うなら殺そう。それぐらい平気でやれないと、僕の罪悪感は消えない。命令に従うことが免罪符になるわけじゃないけど、一時的な気休めになってくれるのなら僕はそうする。


 いちばんの解決法は、夏が戻ってくることだ。しかし無情なことに、世の中そう上手くはいかない。僕の希望的観測が叶ったことはただのいちどもない。静かに、運命に負けていくのが常だった。恋愛も、そうだった。


「そんなのあるわけ」


 冬の核が首を振る。僕はその言葉の続きに期待していた。『ある』と言ってくれるかもしれないって。もしかしたら夏を救う究極の一手が彼女の中にはあるんじゃないのかって。僕にもできることがあるんじゃないのかって。僕に罪滅ぼしができるんじゃないのかって。

 彼女が首を振った時点で、そんなものが無いのはわかりきっていたけど、それが真実を言った時を盛り上げるための嘘だと僕は信じていたかった。


 でも、そんなことはなかった。


「もう取り返しはつかない。この街は、この星は、やがて冬に飲み込まれ、それが過ぎると春が来て秋が来るようになる。時代が連なり夏は忘れ去られて、ラムネを飲む麦わら帽子の少女も、青い海をフィルムカメラで撮る人もいなくなる——」


 冬の核が言ったことはあまりにも幻想的で現実味を帯びていなかった。昨日までの僕ならそんな彼女のことを馬鹿にしただろう。でも、今は。夏が消えかけた今は。彼女の言った幻想すらも悔やまれる……。


 教室の外を眺める。もう空は真っ暗になり、雪は雨に変わった。地面を打ち付ける、こもったような雨音が室内に伝わってくる。外に出れば、鮮明で煩い雨音が耳を刺すのだろう。


 僕らはもう戻らない夏を懐古して、絶望して、成長していく。夏が無くなった世界でも、高校を卒業して、大学に行って、また卒業して、働くのだ。そうして代わり映えない日常が流れてゆく。


「俺は帰るよ」


 宇野が教室を出て行く。何の核でもない宇野は、どういう立場で現状を受け止めればいいのかわからなくなったのだろう。僕は無言で彼を見送った。


 冬の核と僕は動こうとしなかった。互いに夏の消失を見送るような切ない目をしていたと思う。どうしようもないことに諦めた、高校生の表情だ。


「一つ聞いてもいいか?」


「……」


 尋ねるも、冬の核は無言だった。僕はそれを肯定と受け取って続ける。


「最初から僕が夏の核だとわかってたのに、なんでそれを言わなかったんだ」


「久しぶりに会えたんだ。君を悲しませたくなかったの」


「久しぶりに会えたと言っても、昔だってそんなに仲良くなかっただろ」


「だから、今日から仲良くしようと思ったんだ」


 なるほど、と僕は相槌を打つ。


「こんな僕にも気を遣ってくれる君は優しいんだね。僕は季節の大犯罪者なのに」


「私が優しいっていうのは勘違いだよ。本当に優しい人間は、君が夏の核だってことを最後まで隠し通すはず。君を悲しませたくないからね。それか、君じゃなくて地球に優しかったら逆かもしれないけど」


 冬の核は諦めたような、儚い笑顔を見せた。


 ゆっくりと、時間が流れる。僕はやがて夏が消える世界で、罪悪感を背負いながら生きていく。季節も僕らも、救われることはない。

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冬の核 筆入優 @i_sunnyman

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