第5話 小説の話
瞬時の記憶喪失とは、今までにもなったことがあったような気がしていた。これは、松阪だけに言えることではなく、人を好きになったり、人生の中で何か特別な感情を抱いたりした時になるものだと考えられる。
松阪にはその時、まだどうしてなるのかという理由も、なったことで自分がどう感じればいいのかということも分からなかった。だが、分からないことが悪いわけではなく、分かろうとする気持ちが大切なのだ。
「俺はいったい、どうすればいい?」
と考えた時、この時の感覚がよみがえってきて、自らを助けてくれるのだ。
そんな時のため、そしてこの感覚を忘れないようにするために、
「一瞬という間隔で、記憶を失うようにできているのではないか?」
と考えるのだった。
一度記憶を失ってしまってから、戻ってくると、その時のことが気になって仕方のないものとなる。だから、忘れたくなくなり、忘れることができなくなる。ただ、実際にどのように感じたのかということを理解できるほど、記憶が戻ってくるわけではない。その分、自分を引き付けるものを感じようとする力が大切なのである。
ただ、一つ言えることは、その時はまだ、りほが好きだという感覚ではなかったかも知れない。
「気になる相手」
という感情は間違いなくあるのだが、気になるというのが、好きだということだと確信をもって言えるわけではなかった。
それだけ、まだ恋愛経験があったわけではない。記憶を失ったことで、その時何が起こったのか、自分でもハッキリとはしてこない。好きだと思うことが大切だということを知るのは、さらにそれからしばらくしてのことだった。
その相手が、りほなのかどうか、
「りほであれば、素晴らしいのに」
と感じるのであった。
前の日に見たりほの夢、
「いや、りほだと思った女性の夢」
と言った方がいいのだろうか。
やはり夢の中でも、りほの顔が確認できたわけではない。何か、女の「もののけ」ではなかったか。
夢の中というのは、実におかしなものである。
誰かと話をしているはずなのに、その声が聞こえてくるわけではない。静寂の中で、相手のそぶりであったり、口の動きであったりする、その表情から、何を言っているのかを探るのだ。
さらに、色も分からない。まったくのモノクローム。影だけで、色の濃淡を判断する。色がないので、形だけで判断しようとすると、余計にリアルさを求めることで、恐怖を煽られることもあるだろう。それが、白黒テレビの醍醐味であり、今では見ることのできないが、かすかに記憶の奥に残っている映像を、思い起こさせる。
それがあるから、夢を今の人たちよりもリアルに感じることができるのではないだろうか?
それを思うと、
「夢というのは、モノクロでリアルなものだ」
と感じているのは、白黒テレビのリアルさを知っている。自分たちの世代だけではないかと思うのだった。
だから、
「夢には、色もなく、音もない」
などというと、若い連中は、あっけに取られて、そのまま、こちらをバカにした目で見るかも知れない。
その視線は、完全に上から目線で、
「年を取りたくはないものだ」
と、こちらを気の毒に思うくらいではないだろうか。
「ひょっとすると、記憶を失っていると思うのは、瞬時にして、時代を飛び越え、昔に戻ろうとするかのような能力であったり、逆に未来を一足飛びに飛び越えようとする意志が働き、そこに、反発力が加わることで起こる現象ではないだろうか?」
と、考えるのであった。
その日、りほが自分の前に現れたのを見た時、そんな意識が頭の中にあった。そして、彼女を見た瞬間に、最初は、彼女がモノクロだと感じたのだが、次の瞬間は、彼女以外のまわりがモノクロに見えて、彼女だけが、カラーだったのだ、
それを感じた時。
「世界がまるで凍り付いたかのようだ」
と感じた。
「そうだ、モノクロというのは、世界が止まったかのように見える」
ということであった。
彼女だけが動いていて、まわりは凍り付いてしまったと感じた時、自分が動いているのが不思議に思えたのだ。
だが、その感覚が間違いだと気づいた。
「まわりは確かに凍り付いているようだが、止まっているわけではない。動いていないように見えて、実際には、微妙に動いているのだ」
ということであった。
凍り付いたように見える世界。そこは、自分たちの動きお何百分の一なのか。あるいは、何千分の一なのか、想像もつかない。きっと向こうの世界から見れば、こっちは早すぎて見えるはずもないだろう。
だが、どっちが本物なのかということは分かっている。本物はこっちであり、向こうが別世界なのだ。
なぜかというと、向こうが普通のスピードであるとすれば、こっちは、目にもとまらぬほどのスピードに違いない。そんな早いスピードで動くというのは、それだけ身体に負担がかかり。支えきれないほどのものであると言ってもいいだろう。
我々人間がそこまで強靭な肉体を持っているわけはない。そう考えると、向こうが別の世界になってしまったのではないだろうか?
そんな発想が頭をよぎった。
子供の頃に見た、サイボーグのアニメに、そんな加速装置のついた、サイボーグがいたっけ。そのサイボーグがサイボーグであるゆえんは、
「加速装置に耐えられるために、サイボーグになったのだ」
と感じたものだった。
超能力者でもそうである。超能力を使うには、それだけ強靭な肉体が必要で、自分がその力を使ったために、身体が破壊されたなどというのは、実に本末転倒なことである。それこそ、ロボット開発につながる。ロボット工学のような発想で、しかも、スピードが同じ次元でありながら違っているというのは、相対性理論に結びつく、タイムマシンの発想に似ている」
と言えるのではないだろうか?
それを結びつける架け橋が、夢の世界であるとすれば、今見ている夢は何であろうか?
時々、夢の世界を思い浮かべているが、別にロボット開発にも、タイムマシンの開発委も、興味を持っているわけではない。それなのに、発想が浮かんでくるのは、興味があるというよりも、勉強をしていて、発想がいきついた場所だったからなのかも知れないと感じるのだった。
ロボット開発にしても、タイムマシンにしても、
「将来において、本当に開発されるものだろうか?」
と正直、高校時代にすでに、松阪は疑問に感じていた。
だから、よく夢に見たものだ。
自分で開発している夢であるが、これは、決して正夢などではない。気になっていることで、自分が開発してしまい、
「タブーを破ってしまった」
ということで、自分がどのような罰を受けることになるかを夢に見ているのである。
「ただ、妄想しただけなのに」
と思うのは、あくまでも、寝て見る夢ではなく、起きて見る夢ということでの妄想だということだ。
自分にとって、妄想というのは、
「いったん記憶が途中で途切れて、どこかから湧いてくるようなものに感じる」
というものであった。
そう、この発想こそ、
「並行世界」
と言われる、
「パラレルワールド」
であり、タイムパラドックスを正当化する回答のようなものだと言われているものである。
そんなパラレルワールドを考えた時、思い浮かんでくるのが、
「ドッペルゲンガー」
というものだった。
ドッペルゲンガーというのは、
「もう一人の自分」
のことであり、世の中に三人いると言われる、
「よく似た、ソックリさん」
ではないのだ。
ドッペルゲンガーというのは、都市伝説の代表のようなもので、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死んでしまう」
と言われている。
その理由にはいくつか考えられるが、脳の病気であるためだとか、魂が離れるといわれる、
「離魂病・生霊説」
であったり、
「死神、化け物説」
などがある。
それともう一つ言われているのが、
「異次元の自分、未来の自分説」
というものだ。
異次元の自分というのは、つまり、パラレルワールドの発想であり、未来の自分というのは、タイムトラベルで、過去に来た未来の自分を見るという発想である。
ここではタイムマシンなどではなく、ワームホールであったり、自然現象におけるタイムトラベルということであろう。
タイムパラドックスが起きて、自分が生まれてこないということになれば、死ぬのと同じ発想と言えるのではないだろうか。
また、パラレルワールドというのが、実は、
「反物質の世界」
であって、反物質でできた世界で、反物質と物質が出会った時、
「対消滅」
という現象が起き、大量のエネルギーが放出されることで、消滅するという考え方である。
これが、
「パラレルワールドの存在を、理論科学の分野から、解明しようとしている」
という考え方なのだ。
そうやって考えると、世の中には、不可思議なことがたくさんあるのだが、それを一つ一つ考えていくと、他の不可思議なことと、微妙にかかわっていたりして、
「どこかで結びついて、輪になっているのではないか?」
という、一種の循環説が生まれてくるのだった。
さすがに、一瞬でそんなことまで考えられるわけはないが、まるでその時の意識が飛んでしまったり、瞬時の記憶喪失というのは、
「循環する感覚」
なのではないかと思うのだった。
それが、歪な形で絡み合っているのが、
「メビウスの輪」
という考え方であり、その捻じれが、
「裏表という概念を凌駕したものである」
という考えを示しているのかも知れない。
つまり、この循環というものが、裏表を、裏と裏、表と表を結んでいるかのような状態であるとすれば、上っているはずのものが、実は下に下がっていたり、逆に下がっているものが、上に行っていたりする感覚になるのかも知れない。
エレベーターの中で感じる感覚であったり、電車の中で飛び上がった時の、慣性の法則のようなものであったりするだろう。
その時にまた、
「負のスパイラル」
という発想を思い出し、以前旅行で行った、
「井倉洞」
を思い出すのだった。
それにしても、
「俺って、こんなに頭の回転が速かったっけ?」
と感じた。
確かに。SF小説であったり、科学的な本を読むのは嫌いではなかった。さすがに専門書のような難しい話は専門ではないのでよく分からないが、小説に出てくるくらいの話の知識くらいはあるつもりだった。
ただ、最近、
「小説を書いてみたい」
と思い、試行錯誤をしているのだったが、なかなか先に進むことができない。
ちょっとした発想から、話を先に進めることができず、プロットすら、まともに書けないでいた時期が長かった。
それでも、
「プロットはあくまでも設計書にすぎなにので、皆同じ形にする必要はないのさ。だって、表に出てくるわけではない。極端な話、自分が分かっていればそれでいいのさ。マンガのように絵にかいてもいいし、箇条書きでもいい。さらに、あらすじのような書き方でも構わない。書き上げるための材料であればそれでいいんだからね」
と言っていた友達がいた。
「プロットって、絶対に書かないといけないのかな?」
と聞くと、
「絶対ということはないけど、プロットを書いておけば、書きながら迷うことはないからね。だからといって、絶対にプロットのように書かなればいけないわけではない。書きながら、少しずつ変わっていくことだってあるからね。作家によっては、ただの箇条書きから書き始める人もいる。人それぞれというわけさ」
というのだった。
「そんなものなのかな?」
「うん、プロとかになると、編集会議の資料となる場合があったりするから、いい加減なものではいけないこともあるけど、別に読者が触れるものではないからね。そういう意味では、絶対にこうでなければいけないという定型のものはないだろうね」
と言われた。
その友達は、最初からまわりに、
「自分は趣味で小説を書いている」
と公言していた。
正直、松阪はその人のことを、
「すごいやつだ」
と思っていた。
松阪であれば、よほど書く小説に自信が持てなければ、自分から小説を書いているということを公言することはできないだろう。
そんなことを言ってしまうと、きっとまわりは、
「今度読ませてくれよ」
と言ってくるに違いない。
そこには、二つの疑念があった。
一つは、
「この人、本当に読みたいと思ってくれているのかな?」
ということである。
本当は小説など、普段から読んだりしない人で、ただの社交辞令で、
「読ませてほしい」
と言っているのかも知れない。
「今度、返してくれた時に、感想を聞いてみると、なんと答えるだろう?」
と考えると、実にもどかしさを感じる。
もう一つとしては、
「この人に見せて、盗作でもされたらどうしよう?」
という考えだ。
しょせんは、素人の作品だと思ってはいるが、心の底で、いい作品を書けると自分で信じている証拠ではないか。それは前向きで悪いことではないと思うのだが、社交辞令でもなく、
「読ませてほしい」
などというのであれば、それは、盗作を疑ったとしても、無理もないことだろう。
安易な気持ちで読ませてしまうと、
「後悔するのは自分だ」
と思うことになるだろう。
「プロになりたい」
と少しでも思うのであれば、盗作を疑うのは当然のことなのかも知れない。
小説を書くために、いろいろな本を読んだりした。SF系の小説を書いてみたいとは思ったが、なかなかうまく書けるものではなかった。それでも、数本書いたことがあった。それは、最初から小説を書くのに、
「恰好よく書こう」
なんて考えないようになってからだった。
書けるようになると、最初はさすがに、
「いずれは、プロになりたい」
と考えるのは、当たり前のことだった。
小説というものを書こうと思うと、まずは、
「最後まで書けるかどうか」
というのが、最初の壁であった。
たいていの人は、途中で行き詰って、書くのをやめてしまう。そして別を作品を考えて、また書き始めるのだが、それも書けない。
一度、書けないという意識に囚われると、
「やっぱり小説を書くのは難しいことで、俺になどできるはずはない」
と考えるのだ。
実際に書いてみると、途中までは何とかなっても、最後の落としどころが一番難しい。途中を書きつないできたことを、最後にまとめるのが難しいのだ。
だから、逆に難しく考えず、辻褄が合わないことでも、強引に終わらせるということを続けていると、そのうちに、終わらせ方がうまくなってくるというもので、一度最後まで書き切ってしまうと、何とも言えない感動のようなものに包まれる。
「俺にだってできるじゃないか?」
という思いが生まれてきて、一瞬でも、
「俺って、天才かも知れない」
と思ったとしても、無理もないことだと感じるのだった。
書き上げた小説は、さすがに知り合いに見せるのは、どこか恥ずかしい。一度、出版社系の新人賞に応募してみたが、案の定、一次審査にも通らなかった。
「もうちょっと、満足のいく小説が書けるようになったら、応募しよう」
と考えていたが、結局、その後もほとんど応募することはなかった。
大学生のこの頃は、まだ、小説をやっと最後まで書けるようになった頃で、書けるようになったことが、自分を有頂天にさせたのだ。
特にその頃は、SF系の小説が好きだった。
ちょうど時代は、SF小説も人気で、映画の原作になるような作品もあれば、どちらかというと、マンガになりやすいような作品が目立っていたような気がする。
壮大な話よりも、学園ものとくっついたような作品が読んでいて楽しく、
「自分も書いてみたい」
と思い、
「どうせ書くのであれば、最近のブームのように、作品の範囲は狭いのだが、考えられるテーマは壮大なものになればいい」
というような、ちょうど当時の流行りのような作品が書けるのではないかと思うのだった。
だが、それがうまくいかないと、
「俺は、やっぱり、他の人と同じでは嫌だと思うような性格だったのだろう」
と思うようになり、SF小説を書こうとは思わなくなった。
その代わり、SFというわけではなく、どちらかというと、都市伝説にあるような、いや、その都市伝説を自分がフィクションとして書き上げることができれば、楽しいと思うようになったのだった。
「最後の数行で、どんでん返しを起こし、読んでいる人をビックリさせられるような話が書けたらいいよな」
というものであった。
ただ、実はそんな中で書いてみたいと思うジャンルの小説があった。それが恋愛小説だったのだ。
普通の恋愛小説という感じではなく、オカルト的な話を織り交ぜたものが書きたかった。
そもそも、小説のジャンルは、チャンポンにしてしまうと、それぞれにタブーが存在し、一緒にしてはいけないものがあったりする。
「探偵小説に恋愛は、向かない」
と言われていたが、それを無視して、敢えて恋愛を組み込んだ作家がいたが、プロなのでできることだろう。
素人には無理だと思うのだった。
恋愛小説は書けないが、ミステリーも書けないと思っていた。しかし、恋愛よりも、ミステリーの方が意外と書けるのではないかと思ったのは、トリック的なものを思いついてから、ストーリーを考えるか、それとも、ストーリーからトリックを考えるかという、大筋二つのところが大きいと考えると、そこから見えてくるものがあると思ったからだ。
松阪の場合は、意外と、トリックを考えるのは、実は苦手ではないと思った。そんなに仰々しいものを最初から考えることはなく、一つのアイデアが浮かんでくれば、そこからストーリーを展開させ、さらに、そこから、新たなトリックが生まれてくるというような、いくつかのルーティンを繰り返すことで、どんどん膨らんでくるような気がしていたのだ。
それが、ミステリーの醍醐味であり、楽しいところである。
ミステリーというのは、いくつかの法則のようなものがある。
法則というより、戒律というべきか、
「してはいけない」
という作法があったりする。
例えば、最後の謎解きのシーンで、犯人がやっとそこで出てくるというような話は、まるでサッカーのオフサイドのような反則行為と言えるのではないだろうか。
または、小説の内容で、本当の犯人を、いかにも犯人ではないという言い方で読者を欺いてしまってはいけないだろう。
ただ、それも、ぎりぎりまでは許される。逆に、ぎりぎりのラインで踏みとどまらせるのが、小説の醍醐味だったりする。
犯人となる人間を、最初から、
「その人は死んでいる」
という書き方をしていたとしよう。
普通なら、
「ルール違反だ」
ということになるのだろうが、これも書き方によって、その書き方が、叙述トリックとして、読者を導くことで、素晴らしいトリックになることだろう。
もちろん、それだけストーリーがしっかりしていないとできないことだし、読者を納得させられるだけの文章力がなければ、成立しないといえるだろう。
これは、まるで、海岸に設置してある船着き場などの防波堤近くで、同じ線から車を走らせて、最後までブレーキを踏まずにいられるかという、臆病を競う、いわゆる、
「チキンレース」
のようではないか。
一歩間違えれば、駄作になってしまう作品でも、度胸を持って取り組めば、傑作としてベストセラーとなり、自分を一気に人気作家に押し上げることになる、出世作と言えるだろう。
きっと、ベストセラー作家には、そんな人気作品となる傑作を生みだすタイミングがあり、そのタイミングを的確に見抜き、人気作家として上り詰めていく素質を持っていたという、持って生まれたものがあるに違いないのだろう。
別に松阪にはそんなものが備わっていなくていいと思っている。
「死ぬまでに、一冊でいいから本が出せればいい」
という、
「ささやかな夢」
だったのだ。
だが、それがささやかな夢だと感じるのは、まだまだ松阪が若いからであろう。
年を重ねていくうち、次第に限られてくることを感じてくると、
「ささやかだ」
と思っている夢が、実は想像以上に難しいことだったのだということを知るだろう。
しかも、それもいきなりではないかと思う。
徐々に感じてくるのであれば、まだまだ切羽詰まった感覚はなく、
「気が付けば、もう手遅れだった」
と思うに違いない。
もちろん、そんなことを感じることができるだけ、つまりそんな年齢になるまで小説を書き続けられればいいと思っている。
まずは、書き続けられることが目標であり、その時に何を考えているのかということを、感じてみたいと思っている。
それを、
「ささやかな夢」
と言ってもいいのではないだろうか。
ささやかと感じることは人それぞれ、しかし、松阪は誰にでもあることがささやかなことだと思うようになっていた。
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