第4話 瞬時の記憶喪失

 その日、待ち合わせよりも、20分も早く着いた。

 もっとも、これはいつものことで、珍しいことではない。

「とにかく、一番でなければ嫌なのだ」

 という気持ちが強いのと、

「その他大勢では嫌だ」

 という思いとが微妙に交錯しているのだろう。

 電車に乗る時雄そうである。

 知っている路線、毎日乗る路線の電車では、どこが階段や出口に近いかということを知っているので、いつも、一番近いところに乗るようにしている。

 空いていて、座っている時でも、到着前から、扉が開くのを待っていて、扉が開くと急いで走って、一番で改札を通り抜けるようにしている。

 階段などで、人が無駄にダラダラ歩いているのを見ると、苛立ちしか覚えない。それなら、急いで最初に駆け抜ける方がいいと思っていたのだ。

「そんな恰好の悪いこと」

 と、たいていの人はいうだろう。

 たぶん、自分が同じようなことをしている人を見ると、

「なんて、大人げないんだ」

 と感じるに違いない。

 そんなことは分かっているのだが、それでも、やめられない。一度やってしまえば、もうトラウマのようなものはなくなり。

「自分だけが、この世界で許される行動なんだ」

 というくらいに感じるのだ。

 そうでもなければ、自分を正当化することはできないからだった。

 それでも言いたいやつはいるだろう。そんなやつは、

「言いたいなら言わせておけばいいんだ」

 という開き直りにも見た感情が生まれてくる。

 そんな毎日を過ごしていると、

「俺は、人と同じでは嫌なんだ」

 と思うことで、

「長い物には巻かれろ」

 という考えは、絶対に嫌だった。

 そうであれば、日ごろから言っている文句などの説得力や信憑性がなくなってしまうのだ。

 そもそも、自分の言い分が絶対に正しいなどとは言わないが、しょせんは、皆と合わせている連中とは違うという意味で、説得力がなくとも、自分で納得できれば、それでいいと考えるのだった。

 そんな頑固というか、徹頭徹尾な考え方という意味で、一本筋が通っているといってもいいだろう。それを思うと、やはり、

「長いものに巻かれるなど、ありえない」

 と思うのだった。

 そんな性格だからこそ、人と待ち合わせをすると、遅れるのが嫌だった。最低でも、10分前には着いていなければならないと思うようにしている。それが徐々にエスカレートして20分は当たり前と考えるようになった。

 なぜなら、10分くらいであれば、普通に待っている人がいる。そんな中に入るのが嫌だったのだ。

 だから、皆も、

「松阪がどうせ一番だよな」

 と思っていることだろう。

 それだけに、まだ待ち合わせ時間でもないのに、最初に来た人が、松阪がいないということを見つけると、

「あれ? 今日は松阪は来れないのかな?」

 と思うほどだった。

 誰も疑うことなく、最初に来ているのが松阪なので、もし、前もっていけないということが分かっている人間は、まず松阪に連絡を入れるようになっている。

 もし、松阪がいけない場合は、

「すまない。俺もその日は都合が悪いんだ」

 ということで、断りを入れるが、その時もすでに、松阪は誰かに断りを入れることにしている。

 松阪は、予定の時系列を絶対に崩すことはなかった。家族の病気や、緊急事態が発生した場合はしょうがないが、それ以外で、誰かに忖度して、

「しょうがない。お前を優先させよう」

 などということはしなかった。

 何があろうとも、

「先に予定が入っているんだ。申し訳ないが」

 と言って断っている。

 もし、相手がそれでゴネたり、悪たれをつくようであれば、容赦なく、

「お前のような分からずやとは、こっちから縁を切ってやる」

 と言わんばかりであった。

 それだけ、初志貫徹な性格なのである。

 しかも、彼は。

「勧善懲悪」

 な面があるので、相手をする人間にとっては扱いにくい。

 しかし、それでも、面倒くさいことを結構引き受けてくれるので、友達としては重宝するし、実にありがたいのだ。

 そういう意味で、機嫌を損ねなければ悪いようにはしないのだ。

 だから、丸め込もうとする人間には扱いにくいが、少なくとも正当性のある人間には、これほど扱いやすい人もいない。そういう意味で、

「松阪ほど、分かりやすく。ある意味扱いやすい人間はいない」

 ということになるのだ。

 松阪は、時々、

「一瞬の記憶喪失」

 になることがある。

「若年性健忘症なんじゃないか?」

 と言われることもあるが、そうなのかも知れない。

 ただ、失った記憶が戻ってくることはまずない。それだけ、どうでもいい記憶が多いのか、そんなどうでもいいことの方が、思い出しにくいものだろう。

 例えば、帳簿などをつけていて、数字が合わない時、

「誤差が大きい時よりも、小さい時の方が合わせにくい」

 と言われる。

 それはそうだろう。大きな数字であれば、どこか大きな数字が関わっていて、そこが解決すれば、そこから、ゆっくりと判断していくことができる。

 しかし最初から小さいと、幾重にも重なった間違いと的確に判断し、探していくことが大切だ。

 それを思うと、

「簡単に見えることほど、微妙に差が絡み合ってきて、余計に見えるものも見えなくなってしまうのではないか?」

 と考えられるのだ。

 それが、松阪にとって、

「負のスパイラルの入り口だ」

 と考えるようになったのだった。

 大学は、全国でも有数の高級住宅街と呼ばれるところにあった。だが、それも、地区によって差があった。山間では、有名会社の社長の邸宅が立ち並び、一つの街の〇丁目を、一軒の屋敷だけで占めているなどというすごいところもあった。

 当時では珍しかった、

「電柱のない街」

 でもあり、電線は、すべて地下を這っているのだった。

 屋敷の門から続いている塀には、家紋をかたどった大きな古銭が塗り込まれていて、まるで武家屋敷か忍者屋敷の様相を呈していたのだ。

 さらにこのあたりの特徴として、

「天井川」

 と呼ばれるものが、数か所あり、どういうものなのかというと、

「川が流れているところの下を、電車や道路が走っている」

 というものである。

 この街では鉄道がほとんどで、国鉄が下を走っているのだった。

 なぜ、このような不可思議なことになっているのかというと、災害防止のための一つの策であった。

 この地方では、昭和の初期に、後ろに控えている連山から、豪雨があった時、鉄砲水の被害があったという。

 そのために、川が増水しないよう、なるべく急に流れ落ちる川を作らないために、

「川に合わせた街づくり」

 ということになった時、鉄道が川の下を走るという画期的な策を講じたのが、始まりだったという。

 昔は、もっと多かったようだが、一か所は、鉄道自体が高架となったため、川の上を走っているので、その場所は、

「天井川」

 ではなくなったのだった。

 天井川というと、日本にはさまざまな天井川が存在するが、このあたりは、密集していると言ってもいいかも知れない。

 なんと言っても、この辺りは、狭い範囲に、私鉄が2本と国鉄が並走して走っている。それだけ、主要なところなのだろう。

 鉄道開通も、最初の新橋と横浜間の開通の次の予定地として、このあたりが上がったというのも頷けるというものだ。

「住めば都」

 というのは、このあたりのことをいうのだろうか?

 ただ、ずっとこのあたりに住んでいる人は、そこまでは感じていないようだ。

 というのも、高級住宅街と言っても、一部の人たちだけであって、実際には、人が住める範囲の南部地方では、まだまだ貧しい人たちが住んでいて、

「部落」

「集落」

 などという言葉が残っていて、同和問題の話題としても上がる場所だったのだ。

 要するに、

「貧富の差の激しいところ」

 ということで有名なところで、昔から住んでいる連中にとっては、世間から、この街のことを、

「高級住宅街」

 と言われ、

「そんな高級なところに住んでいるんだ」

 と、ウワサされるのが、実に捻くれた思いにさせられる、そんな自分が嫌だったのだろう。

 それでも、区画整理が進んでいくうちに、そんな部落の人たちがどこに行ったのか、貧しいと呼ばれる人を次第に見なくなっていった。

 行政による強制立ち退きのようなものがあったのか、子供だった友達にもよく分からないという話だった。

 大学のあるあたりも、近くは高級住宅が立ち並んでいる。ただ、大学の近くは、学生アパートなどが多く、それは全国の大学がある街と変わりなかったのだが、駅前などは、喫茶店が乱立していて、さすが、貿易港であることから、コーヒーのメーカーや、洋菓子のブランド店などが数多くあり、逆に、同レベルで低価格という、

「庶民にも優しいセレブ」

 でもあったのだ。

 そんな高級住宅街が立ち並ぶ、当たりから、繁華街がある街中までは、電車で4駅ほどであろうか?

 今まで立ち寄ったこともない当たりも、実はあったりする。観光地や、ショッピング街ばかり歩いていると、見落としがちなところもあったりする。

 実は、この辺りは、昔からの古戦場も多かったりする。なんと言っても、手前は海で、後ろには山が聳えているのだ。天然の要塞であることに間違いはない。

 歴史に造詣の深い松阪は、結構たくさんの、古戦場を回った。さらにここは、戦時中の空襲も激しかったところだ。そういう意味でも、見てまわるには、退屈しないところでもあった。

 りほとデートをしたのは、そんな街中にある美術館だった。都心部から少し離れていたが、近くには動物園もあったり、公園も広がっていたりした。その時、りほが歴史が好きかどうか、聞いてみればよかったと、後悔したものだった。

 だが、今から思えば、りほのことを何も知らなかったような気がする。一緒に出かけた時も、どこに行っていいのか迷っただけで、結局自分で何も決めていなかったような気がした。

 今回はそんなことがないように下調べをしてきたのだが、会ってしまうと、また遠慮してしまって、何も聞けなくなってしまうのではないかと思うと、少し情けない気がしてくるのだった。

 ただ、今回は古戦場に一度案内して、そこから近くにある公園に行こうと思っている。そこから先は、水族館も近くにあるし、変わり種という意味で、少し遠いが、鉄道も通っているので、いけないこともない。

 そこには、日本有数の温泉もあるので、

「隠し玉」

 という意味で、秘密兵器を用意しておいたのだ。

「三日もあるのだから、いろいろ行けるよな。ここからだったら、大阪だって、京都だって行けなくもない」

 と思ったのだ。

 しかし、範囲を広げすぎると今度は疲れてしまう。自分は地元だからまだいいが、彼女は田舎に帰らなければいけないのだ。それを考慮に入れておかなければいけないだろう。

 その日、待ち合わせの新町駅に、相変わらずの早さで到着した松阪は、次第にドキドキしてくるのを感じた。

 人はもっと少ないかと思っていたが、それは甘かった。待ち合わせのメッカと言われる場所に行けば、すべてのベンチは埋まっていて、皆壁にもたれて、待ち人を待っていた。携帯電話やスマホなどのある時代ではないので、

「ケイタイをいじって暇つぶし」

 などということができるはずもない。

 皆、各々本を読んだり、ヘッドホンステレオで音楽を聴いていたり、それぞれの暇つぶしをしていた。

 皆が同じく、判で押したように、スマホの画面を見ている光景は、年齢を重ねてから見ると、情けないの一言であった。

 まだ、パソコンを持って、カフェで仕事に勤しんでいる人を見る方が、どれだけ真面目に見えるか。

 スマホをいじっている人を見ると、ほとんどが、ゲームをしているか、SNSなどの、

「遊び」

 しかしていないように見えて、

「何が楽しいのだろう?」

 としか思えない。

 まだ、昭和の頃は、新聞を読んでいたり、雑誌を見ていたりと、その頃の年配の人であっても、何か文句を言いたくなりそうな状況だったことを思えば、

「時代が変わっても、一緒なんだよな」

 としか思えない。

 それこそ、

「負のスパイラルでしかない」

 と言えるのではないだろうか。

 その日は、なるべく、当時のファッションにふさわしい恰好で来たつもりだったが、そもそも流行に合わせた服を持っているわけでもないので、ここで待ち合わせをしている連中から見れば、

「なんて、ダサいやつなんだ」

 と思われているに違いない。

 流行に敏感な友達もいるのだが、今日のコーディネイトを頼んだりすると。

「お前、デートか何かか?」

 と勘ぐられるに決まっている。

 大学の人であれば、それも気にしなければいいのだが、相手がりほだというと、話がちょっと変わってくる。

 自分の友達のほとんどは、りほのことを知っている。りほは皆から人気があったので、

「お前だけ、ずるいじゃないか」

 と言われるに決まっている。

 ずるいというのは少し違っているが、皆に黙って二人きりでということがバレると厄介な気がしたのだ。

 だが、松阪の中では、

「皆に嫉妬させたいな」

 という気持ちがあったのも事実だった。

「皆から人気のある女の子が、密かに自分のことを好きだった」

 などというシチュエーションは。実に気持ちを高ぶらせてくれる。

「皆がきっと、この俺に嫉妬することになるだろうな」

 と思うと、これほど楽しいものはない。

「上から目線」

 というべきか、嫉妬されることが、これほど楽しいなどと、思ってもみなかった。

「高所恐怖症のくせに」

 と感じ、思わず笑ってしまうのだが、今までにそんな感情に至ったことのない松阪は、まわりの人に嫉妬されたいという気持ちをいつも持っていた。

 それが、

「人と同じでは嫌だ」

 という気持ちにさせるのであって、

「人と同じだったら、好きになった人に比較されてしまい、もし自分を選んでくれたとして、そのあと少しでも自分に疑問を持ってしまうと、もう一人の方に走ってしまう可能性がある。それだけ同じくらいに好きだったということだからだ」

 と感じていたのだ。

 人と同じでは嫌だと最初に感じたのは、小学生の頃だった。

 小学生では、皆が同じで、

「可もなく不可もないという無難な性格で、皆と同じような分かりやすい性格であってほしい」

 と先生は思っているのかも知れないと感じた。

 なぜなら、その方が扱いやすいからである。

 学校の一クラス、四十人くらいの子供たちを、一人で見なければいけないのだ。

 特に小学生というと、何をするか分からないという感じなので、目を離すことができない。そんな子供たちをいかに一方向に向かせるかというと、洗脳して、扱いやすいようにするしかないだろう。

 特に、教育委員会や、PTAなどは、その考え方ではないだろうか。

 教育委員会などという自治体のようなところは、融通が利かない。何かあれば、すぐに処分と言い出す輩ばかりであった。

 親だってそうだ。

 子供に何かあれば、

「子供を預けているのに、学校側の怠慢ではないか?」

 というのだ。

 しかし、学校側は、

「すべて学校で教育するわけではないんです。家庭に入れば、そこは家庭の世界であり、学校側は手出しのできない領域なんです」

 と、完全に、親との間で責任のなすり付けないになってしまう。

 学校というところは、教育委員会と、父兄に囲まれて、板挟みになっていることだろう。

 まだ、この時代は、いじめ問題まで、苛め自体は発展していなかったのでまだマシだったのかも知れないが。ここにいじめ問題。あるいは、不登校の問題が絡んでくれば、パンクしてしまっていただろう。

 ただ、苛めはそんなにエスカレートはしていなかったが、不良問題は結構大変だった。学ランを着て、バイクを乗り回してというような時代だったのだ。バイクの免許は16歳からとれるので、在学中でも取ることができた。しかし、途中から、

「免許はやむを得ない場合はとってもいいが、学校に預けること。在学中は免許を取得してはいけない」

 などという校則ができた時、学校側と、相当揉めたのを覚えている。

 集会などを開いて、学校側に抗議したものだった。

 そんな小学生時代から大学生になるまでに、その間が6年あった。小学生の時代も6年あったが、同じ6年でも、まったく違い六年だったのだ。

 中学から高校の間に受験というものがあり、明らかに中学と高校では違う学校だという意識があったからなのだろうか?

 いや、そういうわけではなかった。確かに受験というのは、大きなイベントであり、その合否によって。人生がまったく変わるのだから、精神的にはかなりきついものであった。

 だが、それだけに、受験という難関を目の前にすると、

「楽しんではいけない」

 という思いが頭を巡り、

「すべてのものを犠牲にしてでも、辿り着かなければいけないゴールだ」

 と思っていた。

 しかし、必死になればなるほど、自分が小さくなっていくのを感じた。それが怯えから来るものなのか、それとも先が見えない恐怖に打ちひしがれている自分を感じていたからなのか。それを考えると、どうしようもない自分を感じたのだ。

 すべてのものを犠牲にしてでも……、というのは、逆に言えば、

「その瞬間でしかできないことがあったとすれば、それはすべて犠牲にしなければいけない」

 ということであり、それが何であるか分からなければいけないはずなのに、それを知ることすら許されない。

 なぜなら、それを知ってしまうと、

「今でないとできないことだから、思い出したんだ」

 と感じることだろう。

 そう思ってしまうと、後悔が生まれてくる。

「こんなことを考えなければよかった」

 という感情である。

「今でないとできない」

 ということが本当に存在するのかどうか分からないが、存在するとするならば、

「知らなくたっていいことだったのかも知れない」

 という後ろ向きの考え方に、自分ならきっとなってしまうだろうと思うのだった。

 それが後悔であり、知らなかったことを後悔するとすれば、どっちの後悔がよかったのか、考えさせられてしまう。

 だからこそ、中学時代も高校時代も、余計なことを考えたくなかった。

「余計なことを考えるくらいなら、必死に勉強すればいいだけだ」

 と思う。

 そうすれば、知らなくてもいいことを知ることもなく、進学してから、ゆっくりとすればいいと思えばいいだけだった。

 だが、そう思えば思うほど、

「今じゃなければいけないことがあるはずだ」

 と考えてしまう。

 パッと思いつくのは恋愛だった。

 だが、恋愛というのは。何もいまする必要はない。ただ、今意識しないと出会うことのできない人がいるからだと思うのだが、本当にその人と出会わなければ、自分は幸せになれないわけではない。

 むしろ、ここで出会ってしまって、勉強が身に入らずに、受験に失敗したなどということにあると本末転倒である。それくらいなら、進学した先で、彼女を見つければいいだけのことだった。

 中学時代はそれでよかったが、高校時代は大変だった。

 精神面だけではなく、肉体面においても、辛かった。

「身体がムズムズする」

 と勉強が手につかなくなっていた。

 今から思えば、その時、

「好きな子がいたのかも知れない」

 と思った。

 どんな子が好きだったのかということは、自分でも思い出せない。しかし、その子への思いが初恋であり、成就しなかったことで、大学に入学できたことで、りほと出会ったともいえるだろう。

 しかも、その時に気になっていた女の子が、りほにそっくりなのだ。逆に、りほがその子に似ていたから、りほを意識してしまったのだと言ってもいい。

「りほって、そういえば、どんな子だっけ?」

 と、その時の初恋の女の子を思い出せないように、瞬間、りほがどんな子だったか、意識がなくなっていくのを感じた。瞬時の記憶喪失である。

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