第3話 夢の仕様
彼女がどこまでのつもりで、松阪に遭いたいと思っているのか、本人には分からなかった。
しかし、松阪本人としては、
「デートなのだから、自分に好意を持ってくれているのは間違いない」
と思っているに違いない。
だが、その気持ちを前面に押し出してしまうと、もし彼女の行為が本物であったとしても、義人暗鬼が芽生えてくることで、必要以上に意識が過敏になってしまい、せっかくの思いを過剰意識によって、崩壊させてしまうのも怖かった。
「会えるとすれば、何日間くらいなんだい?」
と聞くと、
「そうね。三日くらいは大丈夫だと思うわ」
ということであった。
「じゃあ、その三日間、ずっと一緒にいてもいいのかな?」
と聞くと、
「ええ、いいわ。一緒にいてくれるの?」
というその言葉に、何やら彼女の妖艶さが含まれているような気がした。
「うん、できればだけどね」
というと、
「うわぁ、嬉しいな。今まで寂しかった分、いっぱい甘えちゃおうかな?」
と、今度は妖艶さから甘えに代わっていた。
ここまで一言一言でこんなに態度が変わる女の子だったのかと思うと、若干の違和感があったが、男としては、こういう態度を取られると、たまったものではない。実に嬉しいといってもいいだろう。
約束の日は、四日後の月曜日であった。日曜日は、移動と用事を済ませることに従事し、月曜日からは、自由だということで、三日間をめどに、一緒にいられるものだということで、松阪は有頂天になっているのだった。
電話を切ってからも、有頂天な気持ちはなかなか収まりそうもない。
学生時代のりほとは、本当に短い付き合いだった。
二年生の途中で中退していったわけなので、知り合ってから一年も一緒にいたわけではない。
しかも、一年生の間は。
「数いる中の友達の一人」
というだけで、りほ自身も感情としては、そこまで意識していたわけではないだろう。
二人の仲が深まりかけたのは、二年生になってからだった。
一度、デートをしてからのことだったが、デートに誘ったのは松阪の方だった。それまで、女の子をデートに誘うなどということをしたことはなかったので、どのように誘えばいいのか考えていたが、りほ自身が天真爛漫で、気遣いの必要がないほどの女の子だということもあって、誘うのは、思ったよりも楽だった。
要するに、背中を押してくれる人がいればよかっただけで、その時背中を押してくれたのは、りほ自身だったのだ。
彼女は、背中を押したつもりはなかったのかも知れないが、その時、ふと、デートに出かけたその日、
「予定していたことが、キャンセルになっちゃって、その日は開いちゃったのよ」
と言ってきたので、松阪としても、自分に風が向いてきたことを実感し、その風に背中を押された気がした。
そしてその風の元は、りほなので、背中を押してくれたのは、りほだったという感覚になったのである。
想像していたようなデートではなかったが、それはあくまでも、デートというものに固定観念を持っていた松阪の勝手な思い込みがあったからだ。
その時が、人生で初めてのデートだったので、かなり浮足立っていたのも事実だっただろうし、それだけに、余計固定観念があったのだ。
「デートとはこうあるべきだ」
などというのは、理想であって、ただ、その理想を達成することがデートの目的ではないと思うと、理想を叶えられるデートをしてくれる女の子を探さなければいけないと感じたのだが、そんなのは、あくまでも、妄想でしかないと思うのだった。
松阪が、その日のデートで、自分が一皮むけた気がした。
それは、
「デートというものを、もう少し柔軟に見るということで、固定観念に囚われていると、結果、相手を疑心暗鬼にさせてしまうのではないか?」
と考えたのだ。
せっかく、相手が積極的になっているのであれば、何も、男の方が先導する必要はないのだ。相手が頼ってくれば、それを叶えてあげるというのが、一番の目的であり、デートの醍醐味というものではないだろうか。
何もデートには、定型やテンプレートなどというものがあるわけではない。もし、ハウツー本があったとしても、それはあくまでも理想論が書かれているだけだ。強引に事を運んでも、うまく行くはずなどないということだ。
松阪とすれば、その日のデートは自分としては、うまく行ったものだと思っていた。彼女に合わせるところは合わせられたし、自分が主導しなければいけないところで主導できたと思っていた。
思い込みも若干はあったかも知れないが、自分としては、初めてのデートのわりに、うまくできたと思っていた。
りほも喜んでくれていたし、思いは伝わっていると思ったのだ。
「一度のデートだけで、そこまで好きになるということってあるのだろうか?」
と思うほど、りほのことが気になってしまい、
「俺はりほのことが好きになってしまったんだ」
と、後追いで、感情が高まってきた。
後追いで高まる感情というのは、えてして信憑性のあるもので、想像以上に好きになってしまったのだった。
それから少しの間、何をやっていても、頭の中から、りほのことが気になっているのだ。たまに、無意識になっていて、周りから、
「何を考えているんだ? まるで放心状態のようだったが?」
と言われたことがあるくらいに、ボーっとしていることが多かったようだ。
「そうなのか? まったく意識はなかったが」
とは言ったが、もしそこで声を掛けられなければ、そのまま夢の世界に入り込んでしまうような錯覚を覚えていた。
「起きていても、夢の世界に入ることがあるんだな」
と感じたほどだった。
だが、実際に夢の世界に入ることはなかった。
もし入ってしまうと、没頭してしまったことは間違いなく、抜けることはできないのではないかと考えるのであった。
夢の世界というのは、目の前に見えていることを、
「当たり前に見えている」
という安心感から突入するのではないだろうか。
自分が想像している光景と、少しでも違っていると、その違和感は半端ではなく、夢どころではなくなってしまうからだ。
「自分をとりまくまわりが、まったく変化することのない状態で時を刻んでくれているから、安心して、妄想の世界に入れる。そして、この妄想の世界というのは、寝ている時に見る夢ではなく、起きている時に見る夢なのだ」
という発想に至るのであった。
夢というのは、
「潜在意識が見せるもの」
というが、潜在意識というのは、あくまでも、
「無意識の意識」
として感じているものだ。
だからこそ、目の前に映っている光景が、少しでも違和感があれば、無意識ではいられなくなるということを意識するのだろう。
夢を見ていたとしても、無意識でいられなくなってしまうと、そこから先は、夢の世界から逸脱されることになる。
寝ている時に逸脱されることは、あくまでも夢の中で起こったこと、つまりは潜在意識が自ら、違和感を与えることで、夢から覚めようとするのだろう。
それが目を覚ます瞬間であったり、無意識が何かを意識し始めるという、
「夢と現実の間の結界」
に、触れてしまっているからなのかも知れない。
しかし、起きている時に見ている夢は、潜在意識によって、自らが覚ます夢ではない。あくまでも、まわりの外圧によって出てくるものであり、目を覚ますための、何かのエネルギーが、意識に対して与えられるのだろう。
それが、
「夢を見ながら、意識する」
ということなのかも知れない。
そんな、
「起きている時に見る夢」
というのを、正直。あまり感じたことはなかった。
感じたことがあるとすれば、夢から覚めた瞬間、
「夢を見ていたんだ」
と意識する必要があった。
実際に起きているのだから、夢から覚めた瞬間に、
「睡眠からの目覚め」
というものがあるわけではない。
どちらかというと、
「覚醒」
という言葉が近いのではないだろうか。
それまで知らなかった、あるいは、考えたこともなかった世界を覗いてしまうことで感じる、それまでにない、大人になったかのような感情。それが、自分の成長を確信しているかのような感覚で。覚醒することが、夢から目覚めるという感覚の一歩先だといえるのではないだろうか。
起きている時に見る夢と、寝ている時に見る夢との一番の違いは、寝ている時に見る夢が、
「潜在意識のなせる業」
という定義のようなものがあることで、起きていて見る夢の定義はハッキリとしない。
もっとも、
「夢というのは寝ている時に見るもので、起きている時に見たりはしないのだ」
と考えている人もたくさんいる。
実際に、最近まで松阪も同じことを思っていた。
つまり、実際に、
「起きていて夢を見たことのある人間でなければ、誰がそんなたわごとを信じるというのか?」
というものであった。
さすがに、寝ている時に見る夢を見たことがないなどという人はいないだろう。だから、夢に対して定義的なものがあれば、それを簡単に信じてしまうというのが人間だ。
信じてしまうのが、安心であり、信じることで得られる安心というものは、信憑性のあることで、不自然でもなんでもないと考えられる。
夢というものは、もちろん、寝て見るものだけにしか言えないが、大きく分けると、
「未来を予想する夢」
というのと、
「それ以外の夢」
で分けることができる。
「未来を予想する夢」
というのは、予知夢であったり、正夢などというものであろう。
予知夢と正夢とはそれぞれに違いがあり、ただ、れっきとした違いとしては、
「期間が違う」
というものであった。
正夢は数時間から、数日の間に起こることをいうが、予知夢は、さらに幅が広い。それは預言というのと同じであり、預言は、その人が寿命で死んだ後でも、言っていたことが起これば、
「あの時のことは、予知夢だったのだ」
ということになるのだろう。
ただ、正夢というのは、夢で見たことが、そのまま現実になるということであり、予知夢は、未来に起こることを教えてくれる内容を夢で見るという点で、細かく言えば違いがあるといえるだろう。
もちろん、どちらも寝ていないと見れないもので、予知夢と起きていて見る場合は、それこそ、
「預言」
ということになってしまい、それは、もはや夢という言葉では表すことのできないものになってしまっているのだ。
つまり、現実は夢を凌駕していることであり、正夢や予知夢を見てしまうと、それは、現実を凌駕していることになるということで、それぞれの立場が逆転するものではないかと思うのだった。
夢というのを見ていると、やはり潜在意識の存在を意識してしまうのは、目が覚めた時ではないだろうか。
ほとんどの夢は、
「目が覚めてしまうと忘れてしまう」
というものだ。
目を覚ましてしまうと、その内容はほとんど覚えていない。これはきっと、
「夢を夢として見ているからではないか?」
と思うのだが、
「夢は、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
という意識を一度ついた感覚が身体にしみつくような感覚になっているからなのかも知れない。
一度、笑い話ではないが、マンガで見た話だったのだが、一人の人が、
「眠れない」
といって悩んでいた。
病院に行っても、不眠症などという症状が出ているわけではないので、先生も不思議に思った。
睡眠薬を渡して、
「使ってみてください」
と言って使用してもらったが、実際には効き目がなく、
「いつも、眠れないという意識が付きまとっているんです」
と患者はいうだけだった。
「助けてください」
と言われても、医者としてはどうすることもできないので、とりあえず、環境を変えるという意味と、どういう状態なのかを知るという意味で、
「入院してもらいましょう」
ということになった。
そして、その日を医者が観察していたのだが、患者は、次第に眠りに就いていくようだった。
「あれ?」
と思っていると、最後には、鼾を掻いて普通に寝てしまった。
「これじゃあ、普通の睡眠と何も変わらないじゃないか?」
と医者は感じたが、そのうちに患者の寝言が聞こえてきた。
「眠れない」
と言っているのだ。
なんと、患者は、
「不眠症で苦しんでいる夢を見ている」
ということだった。
医者は、一瞬あっけにとられ、すぐに笑い出した。
「何だ、そういうことだったのか」
とそこまでいうと、今度は逆に顔が青ざめてくるのだった。
「ということは、どういうことになるんだ?」
というのは、この患者は不眠症が原因ではなく、
「眠れないという夢を見ている」
ということ自体がおかしいのだ。
完全に精神的な歪みがあることで、このような奇怪な夢を見せている。このような症例は今までにあまり聞いたことがない。どのように治療や治験、さらに、処方をしていけばいいのか、まったく分からない。
「なんとも厄介な患者を引き受けてしまったものだ」
と感じることだろう。
最初は、簡単なことだと思い込んでいて、医者もタカをくくったが、それは一瞬のことであり、ある意味、医者はその一瞬、
「夢を見たか」
というような感覚に陥ったことだろう。
それが、医者にとってどのようなものなのかということを、誰が分かるというのか、それこそ、
「医者を診る医者」
というものの存在がなければいけないのではないかと考えるというのが、そのマンガだったのだ。
読んだ時、ゾッとするものを感じた。本来なら笑い話で終わらせるべきものを、わざと疑問を投げかけるというところまで描いていたのだ。
「読者に考えさせる」
それがテーマだったのだろう。
今から思えば、最初のデートの後、彼女が田舎に帰ると言った時、
「寂しい」
という感情があったのは確かだったが、それ以外にも、もっと別の感情があった。
それというのは、確かに寂しさはあったが、それが一過性のものだという確信めいたものがあったからだ。
「また近いうちに遭える」
という信憑性のないはずの発想に、疑うという気持ちがなかったのだ。
今思えば、あの時、
「予知夢」
というものを、起きていて見たのかも知れない。
ただそれだけではなく、また寝ている時にも見たことで、余計に信憑性を増したのかも知れない。
それを思うと、起きていても寝ていても、同じ夢、しかも予知夢を見たということであろうか?
そもそも、起きて見るのが妄想なのだから、ある意味、現実味があっても当然のことである。それを、妄想だと思うのは、
「起きている時に夢を見るなんて、誰が信じるのだろうか?」
という思いがあるからではなかろうか。
だから、りほが連絡を入れてくれた時、驚きよりも喜びの方が強かった。もし驚きがあったのだとすれば、予知夢というのが本当に存在しているということを感じたからであろう。
さらに、その予知夢が的中したという喜びもある。だから、予知夢も、彼女が連絡してくれたことも、驚きの後に喜びがきたのである。
そのタイミングが同じだったのかどうか、ハッキリとは分からない。シンクロしていたというイメージから、若干タイミングがずれていたのだろうと思う。
この場合、タイミングがぴったりだと言われても、ずれていたといわれても、どちらに対しての信憑性も、変わることはないような気がしたからだった。
りほが田舎に帰ってから、りほのことを考えることはあまりなかった。デートをしたということを思い出として頭に思い浮かべることはあったが、りほの顔が思い浮かぶことはなかったのだ。
時間が経つにつれて、りほの顔がおぼろげになってくる。逆光のせいで、顔が見えないというあの状況を思い起こさせる。
正直言って、りほから電話があるまでは、その顔はおぼろげにも思い出せなくなっていた。完全に、
「忘却の彼方」
に消え去ってしまっていたかの如くである。
りほの顔を思い出せなかったはずなのに、受話器を取って、声を一声聞いた時、
「りほだ」
と思ったような気がした。
あくまでも、後追いでの感覚なのでそう感じているだけで、本当にそうだったのか、今となってみれば、よく分からなかったのだ。
「ねえ、本当に私のことを覚えていたの?」
と、電話で言われたような気がした。
電話を切ってからしばらくは、彼女との会話は肝心なところしか覚えておらず、聞かれたこと一言一言を詳細に覚えているなど、ありえないのであった。
電話を切ってから、放心状態だった松阪は、喜びがこみあげてくるのと同時に、りほの顔が思い出されてきた。
しかし、次の瞬間、
「もう一年も遭っていないのだから、彼女も変わったことだろうな」
と感じた。
松阪自身は、あまりイメージチェンジをすることはないので、あまり気にしないが、友達の中には、一週間か、二週間単位で、まったく違ったいでたちで現れる人もいた。だから、たまにしか会う機会がなかった時などは、二、三回のイメチェンを見逃してしまったということも無きにしも非ずであった。
松阪にとっての、りほは、どのような存在だったのだろうか?
大学に入ってから、今まででデートをしたことがあるのは、りほとのその一回だけだった。
別にりほのことを思い続けているから、そのあとデートをしていないわけではなく、単純にデートをする相手がいないというだけのことだった。
デートをするということがどういうことなのか、あまり深く考えたことはなかった。
りほと最初にデートをした時、最初に考えたのは、遊園地だったり、水族館などと言った、いわゆる、
「中学生のようなデート」
だったのだ。
しかし、さすがにそれはないだろうと思い、次に考えたのが、ショッピングや食事と言った、
「大人のデート」
だった。
しかし、実際には、その真ん中を取ったとでも言えばいいのか、彼女自身が賑やかなのが好きではないということで、落ち着いた博物館や、公園の散歩と言ったコースだったのだ。
「じゃあ、今回も同じようなデートがいいのかな?」
とも考えたが、一年も遭っていないのだし、相手は環境が変わったのだから、昔と同じだと考えるのは、少し違うのではないかと思うのだった。
だが、いまさら、
「どのようなデートがいいの?」
などと聞けるはずもない。
もし、聞くのであれば、最初に聞いておかなければいけなかったのだろう。聞いていないということは、自分の怠慢であり、デートというものを真剣に考えていないのではないかと思われても仕方がないかも知れない。
ただ、本当であれば、恥を忍んで確認するくらいの方がいいのだろうが、どうしても、恥ずかしさと恰好をつけようという考えから、承服できるものではなかった。
そこには、プライドというものがあり、
「プライドが邪魔をするから聞けなかった」
というのは、あくまでも、考えの甘さを示している。
だが、いったいどうすればいいのか、とりあえず、
「一般的なデート」
というものを考えてみることにした。
本屋によって、地元の観光案内の本を探した。
いまさら地元の観光案内を見るというのは、田舎から出てきて最初にやったことだったが、あの時と、実は心境が似ていた。
あの時は、気持ちに余裕があった。もし、今と違うのだとすれば、
「気持ちの余裕のあるなしではないか?」
と思ったのだ。
だから、その時に気持ちの余裕がなかったのかと聞かれれば、正直どっちだったのか、ハッキリと覚えていない。どちらかというと、余裕はなかったといえるだろうから、大学入学時とは、そこが違っていたのだろう。
心境としてではなく、状況としては、相手がいるいないの問題もある。
そもそも、彼女ができたらデートするためにという気持ちが確立していたわけではない。そういう意味で、気持ちに余裕があったといえるかも知れないのだ。
一人で気楽にと思っていると、そこにあるのは、余裕というよりも、気持ちの張りだったのかも知れない。完全にゴムが緩んだ下着のように、だらしないのだが、身体を拘束しているわけではないので、楽だった。
「裸で寝ると気持ちいい」
という人がいて、真似をしてみたことがあったが、松阪にはその心境が分からなかった。
だが分かる人にとっては、その気持ちよさがハッキリしてくるのであろう。
だからといって、今回も気楽すぎて、ノープランというわけにもいかない。その気持ちが、余裕を持たせないのかも知れないが、それでも、
「好きだと思っている人と一緒にいる時間を、自らでプロデュースするというのは、何とも楽しいものだ」
ということではないだろうか。
今まで、計画を立てるということを、
「面倒くさい」
と思っていた。
だから、何かの幹事というのも、絶対に嫌で、まわりには、
「あんないい加減なやつにやらせたら、どうなるものか分かったものではない」
と思わせるべくふるまってきた。
いい加減なところばかりを見せることに、最近では、違和感がまったくなくなっていたのである。
とりあえず、本屋に寄ってから、本を眺めていると、時間があっという間だった。
ただ、思ったよりも早く時間が過ぎたと思っていたのに、、
「大体、30分くらいかな?」
と感じていると、ほぼピタリであった。
感覚的な時間と、イメージする時間では、その時違いがあったようだ。感覚的な時間に差があったのに、イメージする時間はピッタリの30分だったのだ。こんなことは初めてだった。
いや、初めてだと思っているだけで、本当は意識していないだけで、分かっていたのかも知れない。
そんなことを考えていると、本屋から出てきてから、家に帰りつくまでの間、今度は、思ったよりも時間が掛かったような気がした。
「まるで、さっきの時間の帳尻を合わせたような感じだ」
と思ったのだった。
家に帰り付いた時には、かなり疲れていて、何かを作ろうという意識もなく、崩れるように眠ってしまったようだ。
後から思えば、腹も減っていなかったような気がして、それだけ感覚がマヒしていたのかも知れない。気が付けば朝になっていたというのも、自分では珍しいことだったのだ。
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