第15話 ナキが教えてくれたこと
食事がとれないナキの体は、みるみるうちに痩せていった。子供たちは心配そうにナキに接する。最年少のミーハイにはナキの病気の症状を理解することができなかった。だが、ボアニーが死んで間もないので、死を理解することはできていた。ナキは死んでしまうのか、と尋ねてくる彼女に、ボアニーのところに行くのよ、と、マザーたちは説明していた。
「ナキはいま寝ているから、あなたたちは外で遊んでなさい」大部屋が騒がしいので、メルは子供たちに言った。「トーヤ、みんなと遊んであげて」
「俺と遊ぼう」と、トーヤは子供たちを外へ連れ出そうとした。彼らをあやすことがいまの自分にできることだ。昨夜、ココロとラーラがナキにケシを投与するためにここへ来た。ナキの痛みは悪化している。緩和させる方法はケシの投与だけ。自分には痛みからナキを救ってあげられない。
トーヤが子供たちを連れて、外に出ると、メルはナキの部屋に入った。
ナキの側にはいつもユタナがいるので、彼女に尋ねた。
「ナキの様子はどう?」
「まだ眠ってます」
「もうそろそろ、先生がケシを投与してから八時間経つから、そろそろ目覚めるはずだけど……」
と、そのとき、鎮痛の効果が切れてナキが目覚めた。だが、その直後、のたうち回るくらいの激痛に襲われ、うめき声を上げた。目覚めたばかりなのに、体が痛む。変異細胞が全身に転移しているため、意識のあるときはこれから先、ずっとこのような状態が続く。
メルは急いで電話をかけにいった。
「先生を呼ぶわ」
「ナキ、いま先生が来るからね」と、ユタナはナキに声をかけた。
意識がない状態になるのが嫌で、目覚める前にケシを投与されることを拒んでいたが、そろそろ限界だった。
「ごめんな……もうユタナと会話できそうにない……」
命の灯火が消える日まで、目覚めることがなくても、痛みから解放されてほしかった。ユタナはうずくまるナキの背中をさすった。いまのナキの姿は見ているほうがつらくなる……それに死ぬという現実を見たくなかった。
「いいの。あたしのことは……」
「先生がいま来るわ」部屋に戻ったメルはナキに訊く。「とくにどこが痛む?」
どこが痛いのかわからなかった。とにかく全身が痛くて、吐き気がしていた。
「全部が痛い……苦しい……」
ナキが赤ちゃんだったころ、哺乳瓶でミルクを与えながら、元気にすくすく育ってくれることを願った。熱が出ても、人間なのに魔法使い並みに回復が早くて、願ったとおりとても健康な子だった。人にも動物にも優しい子なのに……なぜこんな目に遭わなくてはいけないのか……何も悪いことしていないのに。
「かわいそうに……」
ユタナはナキの背中をさすり続けた。
「ナキ……」
(どうしてあげることもできなくて、ごめんね……)
メルが平和の宿に連絡してから十五分ほど時間が経過してから、ココロとラーラが施設に到着した。ふたりは急いでナキの部屋に入った。
ラーラはメルに顔を向けた。
「待たせたわね」
ふだんなら十五分くらい平気で待つ。しかしいまは、とても長く感じた。
「早く診てあげて」
ラーラはナキの寝間着のボタンをはずした。胸骨と肋骨が浮き上がり、痩せ細った上半身が露わになった。ココロがケシを手にした直後、強烈な吐き気を催したナキは、ベッドの下に置いてあるゴミ箱に吐き戻した。
一瞬にしてゴミ箱の中が赤く染まった。吐血した直後、咳き込んだ。そしてもう一度、吐血した。息を切らせていると胃に激痛が走った。あまりにも痛くて、体が震えた。
ココロはナキに声をかけた。
「ナキ君!」
ラーラはうめき声を上げているナキに言った。
「ケシですぐに楽になるから、胸を出して」
吐血を見て怖くなったユタナは、部屋から出ていこうとした。現実から目を背けたい。これ以上、見たくない。ナキも両親と同じように死んでしまう。ここから逃げたい。
人は死ぬためだけに生まれてきたかのように思えた。だから自分にも試練ばかりが訪れる。立ちはだかる壁のような試練を乗り越えられる日なんてやってこない。ナキを奪われたら、自分の精神はもっと壊れてしまう。
ユタナはドアへと駆け出した。
だが、ナキはかすれた声でユタナに言った。
「ここにいなきゃだめだ……将来は医者になるんだろ。俺を見ろ……どんなに苦しくてもまだ生きている。この前言っただろ、人生は悪いことばかりじゃないって……だけど……悲惨なことも起きる……そう、いまの俺みたいに……それでも俺はいま生きている。もうすぐ死ぬけど、生きているんだ……
喜びも悲しみも、痛みも苦しみも……すべてで人生なんだ。それが生きるってことなんだ。たとえつらくても、いまの俺から目を背けちゃだめだ。俺を看取って、両親の死を乗り越えるんだ……」
ナキがいないのに両親の死を乗り越えることなんてできない。ユタナは大粒の涙を零した。
「生きられない……ナキがいない人生はいやだよ……」
「俺は……ユタナの心の中でずっと生き続ける……ずっと……」
ココロはナキの心臓の位置にケシを垂らした。ケシが体に浸透すると、ナキは静かに眠った。
ナキが眠ると、ココロは真摯な面持ちでユタナに話しかけた。
「これがナキ君の最後の願いだ。最後まで看病し、看取ってあげてほしい」
ナキの最後の願い……彼が言ってきた少し前までのお願いは夜空の飛行がしたい、という好奇心旺盛な子供みたいなことだった。あのときに戻りたい。ナキを看取ることがつらい。だけれど、それが彼の願い……ユタナはココロに返事できなかった。
ココロはケシが数本入ったケースをメルに差し出した。
「約八時間おきに、ナキ君に投与してほしい。ケシの効果が切れたら、またいまのようになる。これ以上我慢しても意味がないし、本人も苦しいだけだ」
メルはケシを受け取った。
「はい、わかりました」
「僕たちはナキ君の容体を診るために、毎日ここに来るよ」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、僕たちは帰るよ。何かあったらすぐに連絡してくれ」
「はい」
ココロとラーラが廊下に出ると、ユタナも部屋から出た。そして、泣きながらラーラに話しかけた。
「ラーラさん……」
ラーラはユタナに歩み寄り、優しい声で尋ねた。
「どうしたの?」
「お願い……あたしを抱きしめて……」
ラーラは驚いた。ユタナからこんなことを言われる思わなかったからだ。ラーラはユタナの華奢な身体を抱きしめた。
ココロは女性同士にしたほうがよいだろうと判断した。
「僕は先に帰ってるよ」
ラーラは返事した。
「はい」
ココロが玄関に向かい、この場でラーラとふたりきりになると、いまの気持ちを打ち明けた。
「あたし……ナキのことが好きなの。ナキもこんなあたしのことが好きだと言ってくれる。彼はあたしにとってかけがえのない人なの」
ユタナの言葉で、ふたりが恋仲であることを理解し、相槌だけで話を聞く。
「うん」
「たとえ意識がなくても、ナキの前で絶対に言ってはいけない言葉がある。でも、いま、それを言いたくて仕方ないの……苦しくて……」
「言ってごらんなさい。言えば少しは楽になるから」
ユタナは泣きじゃくった。
「死なないで、死んじゃいや。あたしを置いて行かないで。どうして、大好きな人はみんな死んじゃうの? どうして……」
生きたいのに生きられない人の前で “死なないで” だなんて言えない。でも死んでほしくない。
ラーラの頬に涙が伝った。
好きな人は生きているけど、二度と会えないつらさと……好きな人と両思いだけど、死んでしまって二度と会えないつらさ……どちらも同じくらいつらい……
どうして人生ってこんなにもつらいんだろう?
楽しいこともあったけど、いまがつらいと、過去の楽しい記憶まで掻き消されてしまうか…もしくは過去の記憶に縋ってしまうか……どちらかだ。
ドアの向こう側でユタナの声を聞いていたメルは、思わず涙した。
「せっかく出逢えたのに……」ナキの顔を撫でた。「彼女はあなたのこと、本当に想っているのよ……」
・・・・・・・・
ラーラに泣きついてから数日が経過した。ユタナは骨と皮になったナキの体を拭いていた。腕も細くて、折れてしまいそうだ。
毎日、八時間おきにケシを投与しているので、ナキは目覚めることなく、ずっと眠っている。話しかけても返事はない。ナキの声が聞きたくても、もう聞くことはできない。
ユタナはナキの顔を拭いて、キスした。
「またふたりで妖精の住処に行きたいね。ナキ……大好き。ねぇ……聞いてる? 夢の中でもいいから、あたしの声が聞こえてる? ひとりじゃ何もできない……ナキがいないと、何もできないの……」
ここに来てからもうすぐ四ヶ月が経過する。彼らと出会う前は最悪のところにいたが、この施設は自分にとって楽園のような場所だ……そう思えるのは、ナキに出逢えたから。彼といられたらどんな場所でも楽園となる。彼に逢わせてくれたラーラには感謝している。そして、なにより……心の病気を患っているのに好きだと言ってくれたナキに感謝している。彼を愛している。
ユタナは窓に歩を進めた。もうすぐ日が暮れる。きょうは天気がよかった。壮大な空は鮮やかな橙色に染まっている。
この綺麗な空もナキと見られたらよかったのに……
もうすぐ、ナキがいない世界が来る……
どうすれば前を向けるの?
寂しいよ……
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