第14話 急変
ナキは絵筆に絵の具をつけた。もうすぐ仕上がるので、嬉しくて笑みを浮かべた。そのとき、腕に痛みが走り、絵筆を床に落とした。その直後、締め付けられるように全身が痛くなったので、キャンバスに布をかけて、創作を一時中断した。
こんなにも強い痛みを感じたのは初めてだ。悪性変異細胞腫は急変する。いままで元気だったのが奇跡のようなものだ。この病気を診断されてから現在に至るまで、胃の調子が悪いと感じることはあったが、こんなにも痛くなることはなかった。だからだろう、冷静でいられたのは。死ぬことを理解しながらも、本当の意味で死と向き合っていたわけではなかったのだ。だが、ついにそのときがきた。
俺は死ぬ―――
怖くて手が震えた。
だけれど平静を保とうとした。
わかっていたことだ。いまさらじゃないか―――
ナキはベッドから降り立った。痛くて背筋を伸ばすことができないので、前屈みで歩き、廊下に出て、メルを呼ぼうとした。ナキにとって彼女は誰よりも面倒を見てくれた人。つまり、母親のような存在だ。いまは痛みと死への恐怖に駆られている。一番頼りにしているメルに助けを求めた。
「メル……」
玄関の掃き掃除をしていたメルが廊下に顔を出した。
「呼んだ?」
「体が痛いんだ」
ナキの顔色が悪い。末期の症状が表われたあとは、死への秒読みとなる。メルにとってもナキは、我が子のような存在だ。気丈に振る舞おうとするが、手が震えた。
「いま先生を呼ぶわ。ベッドに入って待ってなさい」
ナキが部屋に戻ると、メルは急いで自分たちの休憩室へと走った。
室内ではマザーとアリとマロネが紅茶を飲んでいた。
血相を変えて室内に飛び込んできたメルにマザーが顔を向けた。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
メルはナキの状態を説明した。
「体が痛むってナキが言うの。かなり痛そう。いますぐ先生のところに電話をします」
急変したのだ、と理解したマザーたちは、深刻な表情を浮かべた。
マザーは目に涙を浮かべた。
「かわいそうなナキ……」
マロネがマザーに顔を向けた。
「いまみんなで様子を見に行くのは、ナキがつらい。ココロ先生が処置してくれたあと、みんなで会いにいきましょう。それまではメルに任せましょう」
「そうね、そのほうがいいわね」
メルは受話器を耳に当て、平和の宿に電話した。
「もしもし、神の子のメルです。ナキの体調がよくないんです。かなり痛いようで……」
ナキに末期の症状が現れていることを受付に説明した。すぐにココロとラーラがここに来ると言われたので、電話を切った。
アリがメルに歩み寄った。
「あたしたちはあとでナキに会いにいくわ」
「わかったわ。いま苦しんでいる最中だからそのほうがいい」
廊下に出たメルは、急いでナキの部屋に向かった。ドアを開けるとナキの体をさするユタナがいた。ナキの体の痛みは先ほどより増しているようで額に脂汗を掻いていた。
不安なユタナは、メルに訊いた。
「ココロ先生は来るんですか?」
「ええ。すぐに来るわ」
痛みに顔を歪めるナキは、息を切らせた。
「くっそ……なんでこんなに痛いんだよ……」
メルはナキに話しかけた。
「大丈夫よ、ココロ先生が来たら、その痛みはすぐに消えるわ」
「ほんと? だといいけど……」
そのとき部屋のドアが開き、トーヤと子供たちがやって来た。心配そうにナキを見つめているが、メルは彼らに言った。
「いまはそっとしておいてあげて」
トーヤが返事した。
「俺らにできることがあったらいつでも言ってくれ」
「ありがとう」
部屋のドアを閉めたトーヤは、子供たちを連れて大部屋へ戻った。その後、施設に現れたココロとラーラは、マザーに案内され、ナキの部屋に入った。
マザーはナキの顔を見た。我慢強いナキが苦しんでいる。心配だったので、マザーも彼らと共に見守ることにした。
ココロはナキの様子を見て、話しかけた。
「痛むかい?」
歯を食いしばって、頷く。
「うん」
メルもナキが我慢強いことを知っている。
「ちょっと痛いくらいじゃ何も言わない子なので、かなり痛いんだと思います」
「いま楽にしてあげるからね」と、ナキを安心させる台詞を言ったココロは、訪問用の医療鞄から緑の液体が入った小瓶を取り出した。「これがこの世で最も痛みを緩和させる鎮痛薬のケシだ」
そのあと、ラーラがナキのTシャツを捲りあげて、胸部を出すと、ココロは心臓の位置にケシをかけた。すると、ケシが皮膚に吸収された。
いままで痛かったのにあっという間に楽になった。だが、痛みと入れ替わるように、急な眠気に襲われ、気を失うかのように眠りに落ちた。
すぐに眠ってしまったナキを見てマザーは、彼が死んでしまったのではないかと不安になった。
「ナキ? 生きてる?」
ココロはマザーに顔を向けた。
「大丈夫。ナキ君は死んではいないよ」
メルはココロに尋ねた。
「こんなにすぐに眠るものなんですか?」
ココロは答えた。
「強い副作用がある。それが眠気なんだ。起きているあいだは、少しばかり吐き気を感じることもある」
「ただでさえ痛いのに、吐き気がするんですか?」
「人によって吐き気の強さは異なる。だが、眠っているあいだは幸福感があるはずだ」
「幸福感? なぜ?」
「ケシは医療麻薬の一種だからだよ」
「医療麻薬……怖い夢を見るよりはいいわね」
「ウチの病院では八時間おきくらいにケシを投与しているんだが、初めてナキ君を診断したときに、生きた証を残せずに眠ったままになるのはいやだと言われているから、ここにケシは置いていかないよ」
医療に関して素人の自分たちにできることならなんでもするが、ココロの言葉に疑問を感じたので尋ねた。
「ケシはあたしたちがナキに投与してもいいものなんですか?」
「この薬には魔法がかけてある。だから心臓の位置にかけてあげるだけなんだ。だから八時間おきにナキ君の様子を見るようにしてくれ。もし途中で目覚めて体が痛くならないようなら、朝まで眠れると思う。もう少し進行すると、痛みに耐えられなくなるから、必ず八時間おきに投与することになる」
想像を絶する痛みなのだろう。私がしっかりしなくては、と思った。
「ナキは生きた証を残すために必死なの。痛みに耐えてでも描くのでしょうね……」
「ところで、彼が言う生きた証ってなんのことだい? 病院で訊いたときに内緒だって言われたから知らないんだ」
こちら側から見えないように、イーゼルに設置された布を被せたキャンバスを指した。
「画家になることが夢だったんです。いま絵を描いている途中なので、それを完成させたいのです」
夢のある若者の命がもうじき尽きる。これからの未来を繋ぐ若者は希望の光だ。ココロは神は信じていない。だがもし神がいたなら、 “なぜナキの命を奪うのか?” と、尋ねてみたい。神はなんて答えるだろう? どんな魔法でもナキの命は救えない。それなら神業で治してくれ。これが決められた寿命なのか……なぜ彼は死ななければならない……
「どんな絵を描いているんだい?」
「ユタナを描いているそうです」
ココロの目に涙が浮かんだ。子供のころのトラウマにより、笑顔を失ったユタナの人生を取り戻すための手伝いがしたんだな、ということがすぐに理解できた。
「目覚めてまた痛くなったら呼んでくれ。いつでも来るよ」
「はい、お願いします」
ラーラはナキの顔を撫でた。
赤ちゃんだったころからナキを知っている。よく抱っこした。まさか、三十四歳の自分より早く逝くとは考えもしなかった。患者やその家族の前で涙は見せないが、彼らとは友達だ。ラーラの目に涙が浮かんだ。
「ユタナちゃん、ナキを看病してあげてね」
ユタナは零れ落ちる涙を拭った。
「はい」
「それじゃあ、きょうは帰るよ。また痛がるようならすぐに連絡をくれ」と言ったココロは、ユタナに話しかけた。「じゃあね、また来るよ」
ユタナは訊いた。
「あとどのくらいナキとお喋りができるの?」
「この状態だと……おそらく、あと数日だろうね」
たったの数日……あとは眠ったまま……それを受け入れなくてはならない。
「わかりました」
部屋から出たココロとラーラは玄関に向かい、ほうきを手にして、空へ飛んでいった。ふたりを見送ったアリとマロネは、ナキの部屋に入った。
アリはマザーにナキの今後のことを尋ねた。
「先生はなんて?」
マザーは、自分たちがケシをナキに投与することと、強い副作用があることを伝えた。
「吐き気があまり強くなければいいんだけど、それが心配」
アリはナキの手を握った。
「かわいそうに……」
マロネが言った。
「病気ひとつしたことなかったのに……どうしてこんなことに……」
ユタナが布をかけてあるキャンバスに目をやった。モデルを頼まれてからきょうまで、一度もこの絵を見たことがなかった。どのような絵なのか気になっていた。笑うこともできない無表情な顔をどのようにして描いたのか……
絵が見たかったのでキャンバスに手を伸ばした瞬間、「だめよ」とメルが注意した。
「気になったの」
「できあがってからあなたに見せたいんだと思う。ナキが眠っているあいだに見るのはよくないわ」
「そうですね。ナキが見せてくれるのを待ちます」
マザーがメルに言った。
「わたしたちは子供たちにナキの状態を伝えてきます」
「はい」
マザーたちが部屋から出た直後、メルはナキのTシャツに触れた。強い痛みを堪えていたため、汗で湿っていたので、箪笥からナキの寝間着を取り出した。
「このままだと風邪をひいちゃうわ。寝間着に着替えさせましょう」
「手伝います」
掛け布団を捲りあげてナキの体を出した。メルがナキのTシャツを脱がせているあいだに、ユタナがズボンを脱がせた。
その様子を見てメルは驚く。
(思春期の女の子がなんの抵抗もなく、男の子のズボンを脱がせるかしら? もしかして、このふたり……)
この瞬間、ふたりが恋仲であることを知った。そして、以前、彼女が欲しかった、とナキが言っていたことを思い出す。メルは十代から神に仕えている身なので、男性に恋愛感情をいだいたことはない。だけれど、想い合うふたりが死別という運命よって引き裂かれる苦しさは理解できる。
(ナキもユタナも、互いにもっと一緒にいたいだろうな……)
メルはナキに寝間着を着せながら、ユタナに言った。
「気をしっかり持ってね」
ここの施設はみんなが家族のような存在。自分が両親を失ったときと同じ悲しみを感じている。心にぽっかりと穴が開いてしまったかのように、耐え難い寂しさと向き合わなければならない。その寂しさは、未だに小さな心を苦しめる。
「はい。でも……つらいです」
メルはユタナを抱きしめた。
「あたしも同じよ」
・・・・・・・
太陽は沈み、夜になった。ケシを投与してから約八時間が経過したころ、メルがナキの部屋のドアを開けて様子を窺った。ナキはぐっすりと眠っていたので、きっと翌朝まで眠るのだろう、と、安心してドアを閉めた。
メルが部屋を覗いてから時間が経過し、ナキは目覚めた。体に痛みはないが吐き気がする。明るい時間帯にココロにケシを投与され、急に意識が落ちて、そのままずっと眠っていた。
いま何時なんだろう……と、時計を見た。
深夜零時……
これから痛みが起きる間隔が短くなることくらい、説明を聞かなくてもわかる。痛みが起きるたびに、眠ってしまったら絵が仕上がらない。
まさかこんなにも急に意識が落ちるとは思っていなかった。それに眠っているあいだは、幸福感さえあった気がする。それはいままでに感じたことのない不思議な感情だった。
このまま絵が仕上がらなくても問題ないとさえ思えた。子供のころから目標はいつも達成してきている。それなのに人生の最後に掲げた目標が達成できないのはいやだ。自分らしくない。
スタンドライトを点けたナキは、キャンバスに被せた布をはずし、絵を仕上げようとした。
吐き気があるだけで、痛みはない。描くならいましかない。もうじき寝たきりになる。
キャンバスに向かい、絵筆を持ったそのとき、また腕に痛みが走った。負けてたまるか、と思った。筆に絵の具をつけて、キャンバスに色をつけていくと、視界がぼやけ、鮮やかな絵が曖昧に見えた。目をこすって、キャンバスを見つめる。はっきりと見えない。腕の痛みも強くなってきた。
涙が込み上げた。
頼むよ、神様―――
俺から視力を奪わないでくれ―――
俺から絵を描く手を奪わないでくれ―――
せめてこの絵を仕上げるまでは―――
ナキは痛みを堪えて、体をさすり、手をさすりながら、描き続けた。泣いている暇はない。朝までに仕上げなくては。
刻一刻と時間が過ぎてゆく。キャンバスに色づけするたび、絵筆を何度も床に落とした。それでも歯を食いしばってキャンバスに向かった。
その後、頑張った甲斐あって、朝日が昇る時間帯にようやく絵が完成した。
いつもならスタンドライトを消して、カーテンを開けるのだが、力尽きたため、ベッドに倒れ込んだ。体も尋常ではないくらいに痛い。
いまはちょうど起床時間だ。メルを呼ばなくても、そのうち来る。
すると、ドアを開ける音が聞こえた。メルが来るのかと思ったのだが、そこにいたのはユタナだった。まだ彼女に絵を見せるわけにはいかない。ナキにはある計画があった。その計画がうまくいけば、ユタナは笑顔を取り戻せると考えていた。
キャンバスはドアを開けても見えないように反対向きに置いてあるため、ユタナからは見えていない。部屋を覗くように顔を出した。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」と答えてから、ユタナが部屋に入る前に言った。「メルに話があるんだ。呼んでもらえる?」
「わかった」
ユタナに呼ばれたメルが、ナキの部屋に足を踏み入れた。
ナキはユタナに言った。
「ごめん、メルとふたりにしてほしい」
頷いたユタナは、部屋のドアを静かに閉めた。
メルはナキに話しかけた。
「大丈夫なの? 痛いの?」
「ああ、すごく痛い……きのうとは比べものにならないくらい」
「先生を呼びましょう」
「待って、その前に話があるんだ。俺の死後にしてほしいことがある」
「死後……」メルは真剣な面持ちで訊いた。「あたしにできることなら、なんでもするわ。言ってみて」
ナキは、ユタナが笑顔を取り戻すために必要な計画をメルに打ち明けた。
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