第16話 最後の愛

 いましがたここに到着したココロがナキの容体を確認した。

 「今夜が峠だ」

 

 ユタナは恐る恐る尋ねた。

 「死んじゃうの?」


 「おそらく……今夜」と、答えたココロは、メルに顔を向けた。「みんなにこのことを伝えてくれ」


 ナキがこの病気を発症してから死は覚悟はしていた。誰もが神の許へ行くのだ……と、自分に言い聞かせていたが、そこへ行くにはまだ早すぎるという思いのほうが強かった。


 「わかりました……」


 「日没後、ラーラ君とまた来る。そのあとは、ここで夜を明かすことになる」


 「はい、わかりました」


 「それじゃあ」


 ココロとラーラはナキの部屋から出て、施設をあとにした。


 メルは泣いているユタナを慰めようとした。

 「ナキは苦しみも痛みもない世界へ旅立つの。最後まで側にいてあげて。それがナキの最後の願いだったのを覚えているわね?」


 「……はい」


 大好きな人を看取る。本当は彼のお嫁さんになりたかった。出逢いとは、ある日突然、やって来るものなのだろう。だけれど、出逢ってからたったの四ヶ月で、こんなにも人を好きになれるものなのか……彼とは運命なのに……普通の恋人同士みたいに、手を繋いで、街を散歩する。そんな小さな願いすら叶わない。


 「先生に言われたことをみんなに伝えてくるわ」と、言ったメルは部屋を出た。


 ベッドに歩み寄ったユタナは、ナキの顔に触れた。


 痩せこけた頬……


 元気だった頃の面影を探そうとすると、涙が止まらなくなりそうだ。


 いまケシの効果で眠っているナキは、どんな夢を見ているのだろう……


 (その夢の中にあたしはいる?)


 ユタナの中で、初めてナキと出逢ったときからの出来事が走馬灯のごとく蘇る。


 自殺未遂して入院していたとき、診療所の売店で落とした小銭を拾ってくれた。妖精の森で、この出逢いは運命だと言っていた。


 あのときは理解できなかったが、いまならわかる―――自分たちはあのときから始まっていたのだと―――


 ナキと一緒に星空を見るのが好きだった。いつもひとりでほうきに乗っていたのに、ナキと出逢ってからはふたりだった。ふたりを知らないころは、ひとりでいることがあたりまえだっだ。いまはひとりに戻ることが怖い。


 妖精の住処で、初めて男の子と手を繋いで歩いた。だけれど……大好きなナキと手を繋いで歩く日は、もう二度とこない。あなたは空の彼方へ行ってしまうから……


 そして、初めて身を委ねたあの夜のことを、あたしは一生忘れない―――


 ユタナは、動くことのないナキの唇にキスした。その唇は乾燥してかさついている。妖精の森でキスしたときのような瑞々しさはなかった。口の中も乾燥している。水分を摂取することができないからかわいそうだ。ひとりになりたくないと思うのは、自分勝手なエゴだろうか……


 「本当は楽になりたいの?」


 ナキの顔にユタナの涙が零れ落ちたそのとき、みんなを連れてきたメルが部屋のドアを開けた。すると一斉にナキの側へ歩み寄った。


 ナキの大親友であるトーヤは、静かな声で話しかけた。

 「おい、ナキ、聞こえてるか? おまえは湿っぽいのが嫌いだから、おまえの前では泣かないって決めてたんだけど……」涙を流した。「やっぱり泣いちゃうよな……ごめんな、笑顔でおまえに会えないよ」


 マザーがトーヤ肩にそっと触れた。


 赤ちゃんのころからふたりは一緒だった。兄弟のような関係であり、親友でもある。マザーはやんちゃなふたりをいつも見守ってきた。そして自分にとってもナキは子供のような存在だ。トーヤの気持ちは痛いほどよくわかる。


 「きっとナキにはあなたの声が届いています」


 「ナキはもう苦しくないんだよな?」


 「ええ。いまは眠っていますから」


 ミーハイがマザーに尋ねた。

 「夜に天国に行っちゃうの?」


 マザーはぽつりと言った。

 「神のみぞ知る―――」


 


・・・・・・・



 日没後、ココロとラーラが施設にやって来た。ナキの様子を見たココロはラーラとともに、マザーたちの休憩室に入っていった。トーヤたちもいたのだが、まずは大部屋に戻った。この部屋にいるのはユタナとメルだけだ。


 ユタナはカーテンを少し開けた。室内の電気の光が窓ガラスに反射し、夜空がよく見えないので、窓を開けた。


 今夜の空は綺麗だ。白銀色の光を放つ星々が散りばめられた夜空に、大きな満月が浮かんでいる。最後にナキと妖精の森へ行った夜のようだ。


 またふたりで星空を飛行したい……この空から月と星が消えたら暗黒の世界だ。闇があるから光が際立つと、妖精の住処でナキが言っていたのを思い出した。


 あなたが星という光なら、あたしは夜空という闇―――光と闇は一緒にいてこそ美しい。ナキがいなくなってしまったら、人生に光という喜びや愛を見いだすことはできない。闇に染まった心に光を与えてくれてたナキは、あの星空の彼方へ行ってしまう。


 「星がいっぱい見えるよ」とナキに話しかけた。


 微動だにしないナキは、ずっと眠っている。

 

 メルは思い出話をした。

 「ナキは星空がすごく好きで、子供のころ、月や星を描いていたわ。とても上手だった」


 ユタナは窓を閉めた。

 「あたしもナキの絵が見たかった。いつも描いていた絵も見せてもらってない。どんなふうにあたしを描いたんだろう?」


 「……」それについては返事せずに、メルは話を逸らした。「今夜は星が綺麗だからカーテンは開けておきましょう。そのほうがナキが喜ぶわ」


 「はい」


 ユタナが返事したそのとき、突然、ケシが効いているはずのナキが目を見開き、胸を掻き毟って、もがき苦しみ始めた。息ができないのか、顔が紅潮してゆく。


 驚いたふたりは、急いでナキに駆け寄った。


 ユタナがナキを揺すった。

 「ナキ! どうしたの!」


 「先生を呼んでくる!」と廊下に出たメルは、大声でココロを呼んだ。「先生! ナキが急に目を覚まして苦しんでいるんです! 早く来て!」


 ココロとラーラとマザーたちは急いでナキの部屋に入った。メルの声は大部屋にいる子供たちにも聞こえていたので、彼らも部屋に足を踏み入れた。ナキの様子を見て小さな子供たちは、死への恐怖を感じた。


 トーヤがココロに頼んだ。

 「先生、お願いだ。ナキを楽にしてやってくれ。もうこいつはじゅうぶん頑張ったよ」


 ココロはラーラと顔を見合わせてから、全員に確認した。

 「肺に水が溜まるとケシでもどうすることもできない。これから僕がかける魔法がある。でもこの魔法をかけると、ナキ君はそのまま死んでしまうこともある。それでもいいでもいいかね?」


 “死ぬ” ユタナは身を強張らせた。だが、トーヤの言うとおりだ。彼を楽にしてあげるべきだ……

 

 涙を零したマザーも、トーヤと同じ意見だ。

 「こんなに苦しんでいるんですもの。早くなんとかしてあげてください」


 「わかりました」と、返事したココロは、光を帯びた手でナキの胸部に触れた。


 すると、その数秒後、ナキは静かに目を閉じ、ふたたび眠り始めた。


 発作のような症状が落ち着いたので、全員が安心した。


 ココロは言った。

 「いま魔法をかけたから、このような症状はもう起きないと思う。また何かあったら呼んでくれ」


 と、ココロとラーラが部屋を出ようとしたとき、ユタナが異変に気づいた。


 いましがた呼吸していたはずなのに、寝息が聞こえない。


 「先生……」不安げな表情を浮かべたユタナはココロに尋ねた。「ナキはいま息してる?」


 ココロとラーラはふたたびナキの許に向かう。


 ココロは首の頸動脈に触れた。それから、指先から光を放ち、ナキの瞳孔を確認した。腕時計に視線を下ろしてから、ナキの命の終わりを告げた。どれだけの患者を看取ってきただろう……この瞬間が一番つらい。


 「二十一時、天に召されました」


 ユタナはナキに覆い被さるようにして泣きじゃくった。トーヤもみんなナキの死を悲しんだ。いままで気丈に振る舞っていたメルでさえ、堪えきれずに号泣した。


 ナキと友達だったラーラも悲しみの涙に頬を濡らした。看護師となってから十年以上が経つ。仕事柄、ココロ同様に何人もの患者を看取ってきたが、通常なら若者が罹患しないこのような病で亡くなる者を看取ったのは初めての経験だ。こんな経験したくなかった。


 「本当によくここまで頑張ったわね。あなたに出会えてよかった。ありがとう、ナキ。もう苦しまなくていいからね」


 涙を流すマザーはナキの頬を撫でた。元気いっぱいだった幼い頃のナキの姿は、昨日のことのように思える。死を受け入れなければならない。


 「神様とボアニーが待つ天国に行きました。そこは誰もが行く場所です。わたしたちが命をまっとうしたのち、また会うことができる。長い別れになるけれど、わたしたちには彼との思い出がたくさんある。その思い出はいつまでも色褪せない。いつも心の中にナキがいます」


 享年、十六歳―――ナキはみんなに愛され、短い生涯に幕を下ろした。月が綺麗な夜に天国へと旅立った。


 勝つことのない病魔と戦いながら、懸命に生きた。元気だったころのナキとは異なる、痩せ細った姿となってしまったが、決して病魔に負けたわけではない。命が尽きるまで戦ったのだ。


 ナキは勇敢だった。


 その戦いが終ったいま、とても安らかな表情をしている。


 よく、がんばったね―――と、ユタナは心の中で声をかけてあげた。そして、ありがとう、と―――


 ユタナはナキと出会ってから、約四ヶ月間、かけがえのない思い出をたくさんもらった。そしてたくさんのことを教えてもらった。これからナキのいない世界をひとりで歩く。思い出だけを胸にいだいて―――

 



・・・・・・





 翌日、ナキの葬式が終った。喪服姿のユタナは廊下を歩いて、ナキの部屋に入ると、昨日まで彼が寝ていたベッドに腰を下ろして泣いた。一晩中ずっと泣いている。涙が止まらない。この深い悲しみは、ずっと癒えそうにない……


 突然、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 「ユタナ、ちょっといい?」とメルがドア越しに話しかけた。「いまナキの部屋に入っていくのが見えたから」


 「どうぞ」


 メルも泣き腫らした目をしていたが、ユタナに優しい笑みを向けた。

 「そんなに泣いたらナキが悲しむわ」


 「一緒に死んでしまいたい……」


 「そんなこと言わないで」メルはユタナを抱きしめ、真剣な面持ちで話を切り出した。「ナキから頼まれていたことがあるの。ついてきて」


 ベッドから腰を上げたユタナは、メルのあとについていった。ナキの部屋を出て、廊下を歩いて、足を踏み入れたことのない部屋に案内された。ドアを開けると、殺風景な部屋の中に、布で覆われたキャンバスがイーゼルに設置されて置かれていた。


 ユタナは一目見た瞬間、ナキの絵だとわかった。

 「できあがっていたんですか?」


 死後の約束を引き受けていたメルは、ナキからの伝言を伝えた。

 「ええ。ナキが命を懸けて描いた絵よ。ナキはユタナに人生を取り戻してほしくて、この絵を描いたの。すべてあなたのためよ」ポケットから遺言カプセルを取り出した。「遺言を言い終わった魂はすぐに天国に行ってしまう。魂になったナキがこれに記録できるのは一度きりなの。この中には大事な遺言が入っているわ」


 遺言カプセルを受け取り、尋ねた。

 「いつこれに記録したんですか?」


 「みんながお葬式の準備をしているときに、そっと。あたしは子供たちのところに戻るわ。ナキの最後の声を聞いてあげて」と、メルは部屋をあとにした。


 キャンバスに歩を進め、布をはずした。そこには、満天の星の下で微笑むユタナが描かれていたのだ。星空が好きだったナキは、子供のころ夜空を描いていたとメルが言っていた。ずっと絵を描き続けていただけのことはある。初めて見るナキの絵に感動を覚えた。


 この絵のモデルを頼まれたときに、“俺にはもうユタナの笑顔が見えている” と言っていた。絵の中では笑顔だけれど、現実の世界ではこんなふうに笑うことができない。ナキはずっと笑顔を見たがっていた。それはわかっている……


 ユタナは遺言カプセルを見つめた。


 これと向き合うのは十年振りだ。


 両親と死別した日……あの日からすべてがめちゃくちゃになった。崩壊した人生の始まりが、この遺言カプセルからだった……


 心の傷が増えることになっても、ナキに会いたい。これを潰せば、ナキに会うことができる。たった一度きりの再会ができる。


 ユタナは遺言カプセルを手のひらで潰した。


 すると、ナキの姿をした真っ白な煙が立ち上がった。


 「ナキ!」と、思わずナキに向かって手を伸ばした。だが、魂を記録しただけの煙なので、触れたくても手がすり抜ける。


 遺言カプセルから出てきたナキは言った。

 


 ―――自分を許してあげて。天国にいる俺に笑顔を見せてよ。俺の願いを叶えてほしい。ユタナの両親も俺も、心から君を愛してる。幸せになれよ。



 遺言カプセルによって記録されたナキの姿をした煙は、この部屋から消えていった。


 ユタナは大粒の涙を流した。


 ママ、パパ……ごめんなさい……


 きょうは聞いてほしい話があるの。


 生まれて初めて恋に落ちたの。


 天国で彼にもう会った? 名前はナキ。


 彼があたしの笑顔が見たいって言うの。大好きになった人の願いを叶えてあげたい。


 あの日、あたしがわがままを言わなければ、ママもパパも生きていた。本当にごめんなさい。


 自分を許す……それが愛するあなたの願いなら……


 あたしはあなたのために笑顔になる……


 「ナキ……愛してる」


 涙を零すユタナは、天国にいるナキに笑顔を見せるように微笑んだ。それは十年間の足枷となっていた心の重荷がようやくはずれた瞬間だった。



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