第9話 またね、ボアニー

 ボアニーから摘出した腫瘍の病理検査の結果が陽性だったので、みんな安心した。長くは生きられないかもしれないが、また一緒にいられる、そう思っていた……だがボアニーはいつまで経っても具合が悪そうだった。


 いままでは子供たちと外で駆けっこするのが好きだったのに、一日の大半を寝て過ごしている。そんな姿を見て、メルがもう一度、動物病院に連れて行った。その後すぐに驚くべき事実がわかり、ボアニーは余命宣告された。その余命はたったの十日。


 摘出した腫瘍は良性だった。だが、その裏側に僅かな変異細胞が潜んでいたのだ。皮肉にも大きな腫瘍によって変異細胞が抑制されていた。腫瘍の摘出後は、自由となった変異細胞が飛び火し、体の至る所に転移した。だが、腫瘍を摘出しなければ死んでいた。結局は助からなかったのだ。ナキの訪問をしたココロの見立てどおりの結果だった。


 全員が落胆し、涙した。


 余命十日なら苦しむことなく、ろうそくの火が消えるかのように、天国へ行けるのではないだろうか……と考えて安楽死は選択しなかった。もしそれを選択した場合、罪悪感に苛まれる人も多い。ボアニーが苦しまないかぎり、できれば自然なかたちで見送りたい。


 絵を制作するために別の部屋で寝ていたナキも、大部屋へ戻り、ボアニーが最後の時を迎える日まで、みんなと寝ることにした。ユタナは、体が小さいミーハイのベッドで一緒に寝ることになった。


 ボアニーは、一日中、ソファーの上で蹲っている。催した際、立たなくてもすむように、おむつを着けてあげた。だが、おむつを着けるのが初めてだったので、その意味がわからず、立ち上がって用を足そうとする。


 ボアニーはふらふらと歩いて、ナキを見上げた。


 いつも排泄用のシートの上で用を足す。それが置いていないので、どこにすればよいのかわからない。


 「寝たまましてもいいんだぞ」ボアニーの頭を撫でた。「そんなこと言われたって、わからないよな……」


 動物は立てるかぎり最後まで立とうとする。それが本能。命の制限を知っているのはナキたちだけで、ボアニーにはわからない。なぜ、こんなにも体調が悪いのか……それすらわからないのだ。


 いつものように、たくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん寝る。そんな日常がまた戻ってくる。だから僕はこんなに頑張っているんだ、頑張っている僕を見て、と、ボアニーが言っているように思えた。


 「信じてるんだよな……生きられるって……」ナキの目に涙が浮かんだ。「ごめんな……ボアニー……」


 排泄用のシートを持ってきたトーヤが、ボアニーのソファーの周囲にそれを敷いた。すると、ボアニーは用を足し、ソファーに戻って蹲った。排泄物はおむつに収まっている。シートは汚れていない。元気なときなら、それに疑問を感じただろう。しかしいまのボアニーは、まったく気づいていない。


 その後、夜になってもご飯は食べず、ただ眠っているだけだった。水を飲むこともできないので、時間ごとに注射器で与えた。


 ナキは、日に日に痩せていくボアニーの姿を見て、未来の自分のように思えた。


 本当はおなかが痛いのではないのだろうか……だからボアニーは何も食べないのかもしれない。


 自分は痛みがあれば、それを抑制する鎮痛薬のケシを使うことになる。その薬を使った時点で死へのカウントダウンが始まる。あっという間に死ぬわけではないが、安楽死に近い。


 だが、ボアニーにはそれらの薬は使われない。いますごく痛いのならかわいそうだ……


 「おまえは痛いから食べないの? それともただ食欲がないだけなの?」


 心配なのでメルたちに相談しにいこうと思い、ナキは大部屋を出た。


 大部屋からナキが出て行くと、悲しみの表情を浮かべたフロがトーヤに尋ねた。

 「どうして神様はナキもボアニーも救ってくれないの? 何も悪いことしてないのに、どうして命を奪われなくてはならないの? 俺、ずっと祈ってたよ。俺にとってナキは兄ちゃんみたいな存在だ。いなくなってほしくない。ボアニーも大事な友達だ。どうすれば助けてもらえるの?」


 トーヤの目に涙が浮かんだ。

 「俺にもわからない……」


 「ナキはもうすぐ死んじゃうのに怖くないのかな……」


 「神の許に行く……そう思えば……怖くないのかもな」


 「俺は怖い……ナキのいない世界が来る日が怖いんだ」


 「俺もだよ」


 ナキが戻ってきたので、ふたりは話を切り上げた。

 「……」


 その後、十日目の朝を迎えたが、ボアニーの生命力は強く、まだ生きていた。だが、夜十一時頃、いままでなかった症状が現れるようになった。それは全身の痙攣(けいれん)。まさかこんな症状が出るとは思わなかった。見ているほうもつらいが、ボアニーのほうがつらい。


 その様子を見たマザーやシスターも安楽死のほうがよいのではないだろうか……と考え、メルが獣医のところに連れて行こうとした。


 子供たちが寝ているので起こさないように、獣医のところに連れて行く準備をし始めた。ナキは、その手伝いをするため、メルの部屋に入った。ボアニーから離れていたのはほんの十分程度だった。準備を終えてから部屋に戻って様子を見てみると、痙攣が治まっていたので安堵した。


 だが、なんだか様子が変だ。


 どこか一点を見つめたまま動かない眼を見て、ナキは首を傾げた。


 「ボアニー?」


 呼吸もしていない……


 痙攣が治まったわけではなく、ボアニーは死んでいたのだ。


 安楽死はボアニーの死を覚悟しての選択だった。それでも実際に死んだ姿を見ると、死んでほしくないと思う。もしボアニーが目覚めたら、そのときは元気が回復しているのではないだろうか、とあり得ない期待をしていた。ずっと側にいてほしかった。


 “よく頑張って偉かったな。楽になってよかったな” と、言うべきなのかもしれないが、あまりにも悲しくて、戻ってきてほしいと、願わずにはいられなかった。


 「ボアニー……いやだよ……起きてよ」ボアニーの体を揺すった。「死ぬなよ……俺をおいていかないでよ」


 起きていたユタナとトーヤは、ナキに歩み寄った。


 動かなくなったボアニーを見て、トーヤは涙を流した。ボアニーの顔を撫でると、まだ体温を感じられた。

 

 「いつ死んだんだ? さっきまで生きていたのに……」


 目に涙を溜めたユタナがぽつりと呟くように言った。

 「動物は人が見ていないときに死ぬの」


 人前で涙を見せるのが嫌いなナキは、泣くのを我慢し、ボアニーを抱き上げ、腰を上げた。

 「ごめん……俺ひとりでメルのところに行ってもいいかな?」


 「ボアニーはおまえを親のように慕っていた。俺たちのことは気にするな」


 「ありがとう」


 大部屋から出たナキは廊下を歩いて、メルの部屋に入った。


 「獣医のところに行く必要はなくなった」


 ボアニーを抱きかかえたナキを見て、メルは何が起きたのかをすぐに理解した。

 「まさか……死んだの?」


 ナキは部屋のドアを閉めて、メルに歩み寄った。

 「俺たちが見ていないときに……」


 床に腰を下ろしたナキは、ボアニーをぎゅっと抱きしめ、涙を堪えきれずに号泣した。モフモルの寿命は短い。それでももっと生きてくれると思っていた。こんなにも早く逝くなんて……それも自分と同じ悪性細胞腫に罹っていたなんて……なぜ、こんなにも現実世界は残酷なんだろう……


 メルは涙を流し、ナキを抱きしめた。

 「ボアニーはすべての苦しみから解放され、神の許に行ったの」


 「どうして死んじゃったんだろう? どうして病気になったんだろう? ボアニーにいろんな話を聞いてもらっていたんだ。俺の話を聞くのに疲れちゃったのかな……」


 このとき、ナキがボアニーに弱音を吐いていたということを始めて知った。メルは胸が張り裂けそうになった。


 「そんなことないわ。捨てられていたボアニーを助けたのはあなたよ。ボアニーはあなたが大好きで、ずっと親のように慕っていた」泣いているナキの背中をさすりながら言葉を続けた。「聞いてほしい話があるなら、あたしに言ってちょうだい。赤ちゃんだったあなたにミルクをあげて、子守歌を歌って育てたのよ。あたしはあなたの母親でもあるの。わかってるでしょ、あたしがどれだけあなたを愛しているかってことを」


 「もちろんわかってるよ。俺もみんなのことを愛してる。だからこそ、みんなの心に残る俺のイメージは元気じゃないといやなんだ」


 「どんな話を聞いても、あなたのイメージは変らない。いつだってナキはナキよ」


 「ボアニーには、俺が死ぬときまで側にいてほしかったんだ。もう会えないと思うとすごくつらい……」


 「この世に生を受けた者は、みんな天国に行くことになっている。だからね、ずっと会えないわけじゃないの。天国で必ず再会できる。その日までのお別れよ。永遠の別れじゃない。きっとまた会えるから……」


 「天国で俺のことを待っててくれてるかな」


 「ええ」メルは涙が止まらなかった。ナキはもすぐいなくなる。ここにいる孤児はみんな我が子同然だ。「だからさよならじゃない。さよならは言わなくていいのよ」


 「じゃあなんて言えばいい?」


 「思い出をありがとう。またね、ボアニー……そう言ってあげるのが一番いいのよ」


 「本当にたくさんの思い出をもらった。楽しい思い出をたくさん……」


 「ボアニーは本当にいい子だった」


 「俺もそう思う。ボアニーほどいい子はいない」


 メルの部屋に来てから二時間が経過した。死後硬直が始まったボアニーの体は硬くて冷たい。首の後ろの毛に顔を埋めても、大好きだった日向の匂いはしなかった。


 死は匂いをも掻き消してしまうものなのか……魂が抜けた体は、まるで剥製のようだ。


 「朝までボアニーを抱きしめていたいんだ。大部屋じゃなくて、いま使っている部屋に戻ってもいいかな?」


 「あなたの思うようにしなさい。だって、ボアニーの親はあなたなのだから」


 「うん」


 ボアニーを抱きかかえたナキは、自分の部屋のベッドに戻った。


 元気だったころは、ボアニーと一緒に寝た。あのころと同じように今夜も一緒に寝よう。


 おまえのお墓の中に、大好きだったおやつをたくさん入れてあげるよ。


 丸呑みにしないで、よく味わって食べるんだぞ。


 一足先に待っててくれ。おれもすぐにそっちに行くから。それまでの別れだ。だからメルに言われたとおりさよならは言わないよ。


 思い出をありがとう。またね、ボアニー―――

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