第8話 平和の宿
神の子のドアノックを叩く音が室内に響いた。玄関に向かったメルがドアを開けると、ラーラと平和の宿の院長ココロが立っていた。白衣を纏って、眼鏡をかけた白髪の六十代後半のココロは、思慮深い性格だ。そして心の優しい人柄で人望もある。
ナキは終末期患者の入院施設である平和の宿には入院しないので、ここで最期を迎える彼の様子を見に来たのだ。これからも定期的にふたりが訪問する。
ユタナと偶然に診療所の売店で出会った数日後、ナキはメルと一緒に平和の宿へ行き、詳しい診察内容と病状が記載されたカルテを診療所から受け取ったココロの診断を受けている。きょうが初めての訪問となる。
ココロは口元に笑みを浮かべて、「こんにちは」と、挨拶した。
だが、ここでその後の体調の変化をメルに訊かなかった。この病は、突然、苦しい症状が現れる。それまでは普通の日常生活を送ることができるので、他者にナキの様子を覗っても、いつもと変らないように見えるため、訊いても意味はない。おそらく本人にも自覚症状はほとんどない。だがナキには診察の流れとして念のため訊く。
ラーラも挨拶した。
「こんにちは」
「こんにちは。訪問ありがとうございます。どうぞ入ってください」
ココロとラーラは玄関に足を踏み入れ、壁にほうきを立てかけた。
廊下で駆けっこをするミーハイとオリハはふたりを見て、「こんにちは!」と同時に挨拶した。
返事したココロは、似たような年齢の自分の孫と彼らが重なり、思わず顔がほころぶ。家の中を走り回るからいつも騒がしく、まるで小さな怪獣だ。それに遊び疲れて昼寝をしているときの顔は天使そのものだ。孫は自分の人生を豊かなものにしてくれた。甘やかしすぎはいけないと思いながらも、ついつい甘やかしてしまう。すっかりそのかわいさの虜だ。元々子供好きだが、最近はみんな孫のように見えるからなのか、以前にも増して可愛く見えるから不思議なものだ。
「こんにちは。元気でいいね」
ラーラもふたりを見て微笑んだ。仕事には意欲的だが、若いころとは異なり、夜勤明けは疲労感がある。とくに三十歳を過ぎてから体力的な衰えを感じるようになった。疲れたときはスタミナのある料理を食べて、体力を回復させるようにしているが、可能ならこの子たちの体力を分けてほしいと思った。
「ほんと、元気でいいわね」
メルがふたりに注意した。
「廊下を走り回らないで。駆けっこなら外でしなさい」
「はーい」と、返事したふたりは、玄関を出て、外へ駆け出した。
ココロが言った。
「素直でかわいいね」
いつもなら “お転婆すぎて困っているくらいです” と冗談を交えた返事をするのだが、ナキが不治の病となってから、元気すぎるくらいがちょうどよいと思うようになった。
「はい。明るくていい子たちです」
ココロとラーラとともにナキの部屋に向かったメルは、彼の部屋のドアをノックした。きょう訪問があるとナキに伝えていたので、すぐにドアが開いた。
部屋から出てきたナキは、ココロに挨拶してからいつもの調子でラーラに言った。
「ココロ先生、訪問ありがとうございます。ラーラもありがとな。俺の担当の看護師で嬉しいよ」
ナキはいつもと変らない。赤ちゃんのころから彼を知っているし、哺乳瓶でミルクをあげたこともある。本当に可愛かった。急変せずにずっとこの状態が続いてほしい……だが、この病は必ず人の命を奪う。彼は湿っぽいのが嫌いだ。だからこそ、ナキの同級生らのように、いつもどおり振る舞うのが一番よいのだ。
「あたしもナキの顔が見られて嬉しいわ」
ナキはココロに目をやった。
「それじゃあ、部屋に入ってください」
「そうさせてもらうよ」
ココロたちはナキの部屋に入った。三人はベッドの前に用意された椅子に腰を下ろし、ナキはベッドに腰を下ろした。
ココロは診察の流れでナキに体の変化を尋ねた。
「その後、調子はどうだい?」
ナキは笑顔で答えた。
「楽しく絵も描けてるし、まだ余裕で生きられるよ」
ある日、突然、急変する。いまは元気そうに見えるが、いつまで続くのかわからない。この先ずっと、いつもと変らない日常生活を送れる体ではいられるわけではない。“余裕で生きられるよ” と、その言葉には触れずに尋ねた。
「どんな絵を描いているんだい?」
「ここに来た新入り、ユタナの絵だ」
「ユタナ?」
メルがココロに小声で言った。
「その子についてあとでお話が……」
その様子から “訳あり” と、いうことが判断できたので、ひとことだけ返事した。
「わかったよ」
窓の下に置いてあるソファーの上で蹲るボアニーを見たラーラは、不安げな表情を浮かべた。ボアニーと最後に会ったのは、ユタナをここへ預けたときだ。あれからさほど日数は経っていないのに、ずいぶん痩せた。
「なんだか具合悪そう……大丈夫なの?」
ナキはボアニーが受けた手術を教えた。
「直径五センチの腫瘍と一緒に脾臓を取ったんだ」
ラーラは腫瘍の大きさに驚いた。
「五センチ!? あの小さな体に!?」
「そうだよ。いまその組織を病理検査に出しているところなんだ。もうすぐ結果が出る。きっとよくなる。俺はそう信じてるんだ」
ココロはボアニーに歩み寄り、屈んで、「やあ、初めまして、ボアニー。大丈夫かい?」と話しかけながら様子を見た。
蹲るボアニーはココロを見ても、いつものように元気な反応はなかった。
ココロはボアニーを見て考える。
「……」
あくまで推測だが……摘出した腫瘍がたとえ良性だったとしても、その付近に僅かな変異細胞が隠れている可能性がある。おそらく……大きくなった腫瘍が隠れていた変異細胞を抑える蓋のような役割だったはず。それがなくなったいま、隠れていた変異細胞が全身に飛び火しているのではないだろうか……とは言え、腫瘍を切除しなければ死ぬ。切除しても死ぬ。結局は助かることのない命。
たぶん……この子はナキよりも早く逝く……
「ココロ先生、ボアニーは大丈夫だよな?」と、ナキは尋ねた。
ココロは言葉を濁した。
「なんとも言えないよ。だって僕は獣医じゃないからね」
「そっか、そうだよな」
「Tシャツあげてもらえるかな」と、首から提げた聴診器を手にした。
「はい」と、Tシャツを捲りあげて、胸を見せた。
「吸って、吐いて……」と、胸に聴診器を当てながら、呼吸を確認した。「はい、もういいよ。ありがとう」
Tシャツを整えながら尋ねた。
「いまのところ大丈夫だろ?」
「ああ」と返事してから、「それじゃあ、また来るよ」と腰を上げ、メルに顔を向けた。「ナキの体調が悪くなったときはいつでも連絡してくれ。すぐに来る」
メルは返事した。
「はい」
ラーラはナキが、夜になればここを抜け出す常習犯であることを知っている。いまは魔法使いのユタナがいるので、おそらく抜け出していると察していた。
「また来るわね。夜更かししないで、いい子にしてるのよ」
妖精の森へ行ったことに気づいたな、と、ナキは勘づいた。
「いいじゃん、大目に見てよ」
ラーラは笑みを浮かべた。
「しかたないから、少しだけ大目に見てあげる。でもあんまり無茶しちゃだめだよ。それじゃあ、またね」
「うん、またね」
ナキの部屋から出た三人は、廊下へ歩を進めた。
ナキの部屋にいるときとは異なる不安げな表情を浮かべたメルは、ココロに尋ねた。
「あの子はいつまで元気なんでしょうか?」
ココロは真面目な面持ちで答えた。
「診療所で受けた診察のとおり、残念だがあと僅か……」
目に涙を溜めた。
「そうですか……」
「君たちができることは、いま彼が取り組んでいる創作がしやすい環境に整えてあげること。そしていつもどおり明るく振る舞ってあげることだ」
「はい……」
「ところで、さっき言っていたここに来た新しい子の話とは?」
「休憩室でお話しします」
「わかったよ」
三人はシスターたちの休憩室に入り、テーブルを囲む椅子に腰を下ろしたふたりに、メルは紅茶を出した。
「どうぞ」
ココロとラーラは礼を言う。
「ありがとう」
メルも椅子に腰を下ろし、本題に入った。
「じつは……」
両親を失ったユタナの生い立ちや、心の病気であること、自殺を図ったこと、ここにいる理由などをココロに話した。そのあと、学校でのいじめが原因で不登校になり、単位が足りずに留年が決定していることを話したうえで、夜間の魔法医療学校への入学の相談をしてみた。
ココロは尋ねた。
「笑うことができないって、愛想笑いのような、作り笑いもできないのかい?」
「はい。悲しみの表情以外は無表情なんですよ」
「う~ん」困った表情を浮かべた。「患者さんのほとんどが意識がない状態だが、笑顔が作れないと付き添いで看病している人が不安になる。たとえいい仕事をしたとしても、無愛想と思われては意味がない」
ラーラが、ユタナをこの施設へ連れてきた理由を話した。
「ここの子供たちは明るいし、何よりナキと会ってもらえれば、ユタナちゃんの心に変化が起きるかもしれない、そう思って彼女をメルたちに託しました」
ココロは考えた。死を受け入れるのは簡単なことではない。だからこそ、ユタナは未だに苦しんでいる。
「たしかにナキ君は明るくて強くていい子だ。だがこれから、そのナキ君の死を体験することになる。両親の死をも受け入れられないのに、ユタナちゃんに耐えられるだろうか?」
「あたしもそれを考えましたが……ここのみんなに懸けてみようと思ったんです」
「なるほどね。君の考えはわかったよ。来年の入学式までに笑顔を取り戻せればよいのだが……僕もできるかぎり協力しよう」
「ありがとうございます」
「そうだ……彼女を院内に案内しよう。現段階でどんな様子なのか確認しておきたいんだ」
「きょうですか?」
「ああそうだよ。笑顔になれない理由は、両親の死別だけではないはずだ。もっと別の何かが心の枷となっているに違いない。それがわからないかぎり、彼女は笑顔を取り戻せないだろう。僕はその足枷となっているものがなんなのか知りたいんだ」
「いま連れてきます」
と、ふたりに言ったメルは、休憩室を出た。彼女はユタナに事情を話し、ここに連れてきた。これから平和の宿に行くことも伝えたので、ユタナはほうきを手にしている。
「こんにちは」と、ユタナはココロとラーラに挨拶した。ココロとは初対面なので、緊張のせいか声が少し震えた。ここにいても対人恐怖症とコミュニティ障害のようなものは簡単に克服できない。
ユタナの気持ちを察したラーラは優しく話しかけた。
「緊張しなくていいのよ。大丈夫」
「はい」
ココロが本人の意思の確認を行った。まずは本人の気持ちを直接聞いてみないと何も始まらない。
「初めまして、ユタナちゃん。夜間の魔法医療学校に通いたいのかい?」
「はい」
「将来は医者になりたいんだよね?」
「はい。それが両親との約束でした。実家の診療所を再開させることが、あたしの目標です。いまのままでは、ほど遠い気がしますが……いちおう……」
ココロがユタナを平和の宿の見学に連れて行く最大の理由は、死を目前としている患者を見て、どのような反応を示すのか知りたかったからだ。取り乱すようなことがあれば、夜間の魔法医療学校への入学は難しい。来年の入学式までに心の健康を取り戻すことが最優先となる。
「いまから一緒に平和の宿へ見学に行こう。夜間の魔法医療学校では二年目から実践授業がある。看護師と一緒に夜勤をするんだ。言うなれば、助手みたいなかんじかな」
「わかりました」
ココロはメルに顔を向けた。
「それじゃあ、また来るよ。見学が終ったら、すぐに返すから、心配しないで」
結果はまだわからないが、とりあえずひと安心した。
「はい。よろしくお願いします」
ココロとラーラはユタナを連れて、平和の宿へと向かった。
・・・・・・・・
平和の宿の上空に到着した三人は、玄関の手前に降り立った。広い敷地には剪定された木々が立ち並んでおり、綺麗な花がたくさん咲いている。
想像していたよりもずっと大きな建物だったのでユタナは驚いた。ドアを開けて玄関に入ると、大きな窓があり、太陽の光が院内を明るく照らしていた。
観葉植物が飾られた待合室は安らぎを感じられる空間となっており、天井付近に取り付けられたステンドグラスが外の光を受けて、まるで万華鏡を覗いているかのような燦然とした美しい模様が壁に反射していた。ユタナが想像していた暗いイメージとはまるで違った。
ココロはユタナにここの感想を訊いてみた。
「どうだい?」
ユタナは思ったとおりに答えた。
「とても綺麗で驚きました」
「みんなそう言ってくれるんだ」
ラーラがココロに言った。
「あたしは勤務に戻ります」
「わかったよ」
死を目前にした患者を見たときのユタナの反応を知りたいのだろう、と、察しがついていたので、ラーラは少し不安を感じていた。
「入学のために見学してきてね」
(取り乱さなきゃいいけど……)
「はい、ありがとうございます」
「じゃあね」と、勤務に戻るラーラはこの場をあとにした。
ココロはユタナを連れて階段を上り、入院病棟がある二階に向かった。一定の間隔を置いて、終末期患者が入院している病室のドアが並んでいる。出入りしているのはみんな付き添いの人たちで、患者ではない。
ふたりの横を通過した付き添いの人が病室を開けた。そのとき、病室のベッドで眠っている患者が見えた。中にはもうひとり看病している人がいて、意識のない患者の体を拭いていた。その体はひどく痩せており、骨と皮だった。その患者の姿はナキの未来の姿でもある。ナキの死を意識した瞬間、両親が死んだ直後に病室で目覚めたときの悲しみを思い出したユタナは、心拍が上がり、取り乱した。
息が苦しくなって、涙が止まらなくなった。
「こんなの……医療じゃない……みんな死ぬ……」
ココロは、ここで口にしてはならない言葉を吐いたユタナを注意しなかった。心が病んでいるのを知っていて、ここに連れてきた自分の責任だ。だが、患者の家族に聞かれたくない言葉でもあるため、優しく休憩室へ誘導した。それに足枷となっているものが何なのかを知りたいので、そこでゆっくりと彼女の話を聞こうと思った。
「大丈夫かい? 休憩室で休もうか」
「ただ死を待っているだけなんて……」
「僕が女子の休憩室に入るわけにいかないからね」と、男子の休憩室のドアを開けた。
いまは休憩時間ではないので、室内には誰もいなかった。ふたりはテーブルの前に置かれた長椅子に腰をかけた。
ユタナは顔を伏せて泣いた。大事な人を失った悲しみが心を苦しめる。
「ナキもみんな死んじゃうの。あたしの大事な人はみんな……」
「君が言うとおり入院している患者たちは助からない。人はどんな最期を遂げるかなんて誰にもわからない。僕たちにできることは、彼らが死への恐怖と身体の痛みから解放されるために必要な手伝いをすること、そして付き添う人たちが最期まで看病できるように、その環境を作ることなんだよ」
「解放って死ぬってことでしょ? ここは必要な場所なの?」
「彼らはいままで一生懸命に生きてきた。そしてここが彼らにとって最期の場所となる。だからこそ、この施設はとても神聖で大切な場所なんだ」と、言ってから、尋ねた。「君は将来、医者になりたいって言ってたね。なぜ、医者になりたいんだい?」
「両親の願いだったから」
「君自身はなりたいのかい?」
「このままだと無理なのはわかってます……でもあたしが医者になったら、石になった人も魔法で蘇る、死んだ人をも蘇らせる、そんな医療を目指しています」
ココロは驚いた。
死人を生き返らせるだって? そんなのは医療じゃない、黒魔術だ。この子は死を受け入れることができていないのか? だが、さっきまでの話だと、死を理解している口ぶりだった。それなのにどうして……もしかしたら……僕らが思っている以上に、この子の精神は壊れているのかもしれない……
「人間には神の領域を超えることはできない。死んだ人は蘇らないんだ。君には理解できているはずだ」
心の病のせいで普段は感情の起伏がほとんどない。だが、両親を失った過去の記憶に引き戻されたユタナは、あのころと同じように悲鳴に近い鳴き声を上げた。
「神なんかいやしない! 神がいたらあたしから両親を奪わなかった! ナキも死なずにすむ!」声を荒げた。「あたしが両親を殺してしまったの! あたしのせいなの! 大事な人を殺してしまった気持ちが先生にわかる!? あなたのせいじゃないってみんなそう言う! あたしがあの日、街に誘わなければ、両親は死なずにすんだの! 自分が許せないの! 人を殺した自分なんかが笑っちゃいけいない! 笑顔なんかとっくの昔に封印した!」
言葉の選択を間違えた。神の子にいるユタナも神を信じているのかと思い、神という言葉を使ったが、強く否定された。両親を失ったのと同時に信仰心を失ったのだ、ということを、いま理解した。
「酷なことをしてごめんな……」と、ココロはここに連れてきたことを後悔した。それと同時に、どの学校でもユタナの受け入れは無理だと思った。
ユタナの額に手を当て、鎮静の魔法をかけた。手から光が放たれると、ユタナはすぐに眠った。そのときユタナの左手首の傷跡に目がいった。
自殺を図ったと言っていたな……その原因は家庭環境やいじめも関係していると思うが、自分を許せないという感情が自殺の引き金となった可能性がある。
つまり彼女の足枷となっているのは、自分を許せない気持ちだ。
両親を殺したと思い込んでいるため、幸せを望みながらも、無意識のうちに幸せを拒んでいる。笑うことができないのではなく、笑うことを拒んでいたのだろう。このままでは人生そのものが潰れてしまう。
未来のことはわからないが、彼女はこの試練を乗り越えることができるのだろうか……
人は誰しもが、 “生” という光の中に “死” という闇を持って生まれてくる。光と闇は真逆の性質でありながら、それは等しくもある。
愛、真実、喜び、裏切り、嘘、欺瞞―――ポジティブな感情とネガティブな感情の両方を体験し、人は生きる。それが人生というものだ。生(せい)は単一でありながら複雑でもある。そのため、生きていく中で様々な感情を覚え、学び、体験し、老いて、病んで、最期を迎える。
そして死も生と同じように単一でありながら複雑でもある。だからこそ、人は死にも様々な感情をいだく。が、しかし、人生の方向を選択できる生とは異なり、死は方向を選択することができない。
できれば苦痛のない老衰を選びたいが、不慮の事故で命を落とすかもしれないし、病かもしれないし、どうなるかはわからないが、それは選びようがない。
もし医者から余命宣告された場合は、生きることへの選択ができないのと同じように、死に直面したときは、その現実からは逃れられない。人は持って生まれた死への時間制限の中に生かされている。その道筋と結末は誰にもわからない。人はそれを運命と言う。
つまり自殺以外で死に方を選択することはできないのだ。
この子も子供時代は、自分が自殺を図るとは考えたことすらなかっただろう。いま死にたいと思っている人たちでも、幼いころはいろんな夢があったはずだ。そして幸せになりたかったはずだ……それなのにあがけばあがくほど、スランプから抜け出せなくなる。そんなときはすべてを手放し、成り行きに身を任せることも必要だが、人の心はときにそうはいかないこともある。まるで人生を阻む向かい風が吹いているのかのように……
幸せを望んでいたはずが、皮肉なことに、成長するにつれ、生きづらさと苦悩を抱えるようになってしまう。追い風を望んでいたのに……いつの間にか死を選択してしまう。
“この施設には生きたくても生きられない人ばかりがいる。だから君は生きるんだ” と、死にたいと思っている彼女に言ったとしても、その言葉は何の意味も持たないのだろう。
両親が生きていたころは、元気で明るいふつうの女の子だった。それなのに……いまはボロボロだ。かわいそうに……
ユタナもナキも……なぜ……
人生は意に沿わないこともある。だが、これが運命と言うなら、あまりにも悲惨……
ココロの目に涙が浮かんだ。そのとき、ドアをノックされたので「はい」と返事した。
「ラーラです」男子の休憩室なので気を使って尋ねた。「入ってもいいですか?」
「どうぞ」
ドアを開けたラーラはココロの腕の中で眠っているユタナを見た。
室内に入り、長椅子に腰を下ろした。
「いま、男子の休憩室から女の子が怒号するような声が聞こえたって、そこにいる看護師から聞いたんです。やっぱり、ユタナちゃんが取り乱したんですね」
「ああ。僕が悪いんだ」と言ってから尋ねた。「ひとつ訊いてもいいな? この子は精神科に通院していたことはあるのかね?」
「はい。子供のころ何度か。里親だった叔母と来ましたが、その叔母の説明があまりにも酷くて未だに覚えています」
「叔母はなんて言ってたの?」
「無表情で不気味だからなんとかしてって」
「それは酷い……」
「ここまで病んでしまったのは、家庭環境と学校でのいじめが原因でしょうね」
「いまは通院してるの?」
「いまは通院していないです。通院しても両親は帰ってこないから、こんなカウンセリングは意味ないって、当時の精神科の先生にそのように言っていました。それ以来、通院をやめてしまったんです」
ココロは、ユタナが両親を生き返らせると言ったことや、もしかしたら死を受け入れることができていない可能性もあると、今後の心配を話した。
「ベッドの上で寝たきりの患者を見たせいで、一時的に過去に引き戻されてしまっただけなんだと思うが……」
「そういえば……子供のころ入院中に、石になった人をも生き返らせる医療があればいいのにって、何度か言っていたわね……でもいまは彼女の口からそんな話は聞いたことないです。先生が言うように一時的なことなのでは?」
「とにかく来年の入学よりも、まずは心の病気を治すことに専念したほうがいい。このままでは社会に順応できない。到底、医者なんて無理だよ」
「神様は乗り越えられない試練は与えない。きっと奇跡が起きるって信じています」
「その言葉好きだよ。乗り越えられない試練はないと思えば、前向きになれる。だけど……奇跡は人の力で引き起こすものだ。もし、この世に未知の病原体が蔓延したとしよう。それに抵抗する術(すべ)を創り出すのは我々医者だ。そしてそれを乗り越えるのは民の生命力だ。
もし、戦争が起きれば、実権を握るのは神ではなく、国王だ。国王が戦争を始めれば多くの血が流れるだろう。歴史上、神の奇跡によって事態が終息したという記実はない。すべて人の力で解決してきている。そこでなんらかの奇跡が起きたのだとすれば、人の信念がそれを引き起こした。決して神じゃない」
「先生は神様を信じていないんですか?」
「僕は宗教家じゃないけど、目に見えない存在はいるって信じているよ。ただ、神が何かしてくれるとは思っていない。神を含めた目に見えない存在は、人々の暮らしを見守っているだけなんだ。わかるかい? 見守るだけの存在なんだよ。願い事を叶えてもらうために、神に祈る人がいる。僕から言わせてもらえば愚か者だ」
「なぜ?」
「もし神と対話ができたとしよう。 “なぜわたしの願いを叶えてくれないのですか?” と尋ねる。そうすると、神はこう答えるだろう。 “なぜならわたしたちは、あなたたちを見守っているだけですから” と 。祈るだけで願いが叶うなら、饑餓もない、戦争もない、病気も治る。でも世の中そんなに甘くはない」
首を横に振って、否定した。
「あたしは神様を信じています。カルもユタナちゃんも両親を失い、信仰心をも失ってしまった。あたしはどんなことがあっても信仰心を失いたくないのです。信じる者は救われるってよく言うでしょ? マザーもよく言うわ」
「信じる者は……」と言ったあと、言葉を呑み込んだ。 “信じる者は救われる” この言葉の意味は “自分自身を信じろ” と、解釈している。それを言っても彼女と会話が噛み合うことはない。「いいんだよ、ラーラ。僕の言うことよりも、自分が信仰する神を信じなさい。信仰は自由なのだから」
「はい。あたしは見守っていただけてるだけでありがたいと思っています」
ココロは会話を切り上げた。
「ユタナちゃんの心のケアを考えないとね」
「神の子にいるみんなの愛の力でなんとかならないかしら……」
「そんなに甘いもんじゃないと思うよ」深刻な表情を浮かべた。「僕にも先のことはわからないけど……彼女の足枷は両親の死の責任だ。それが心に重くのし掛かっている。両親が死んだのは自分のせいなのだから、笑ってはならない、幸せになってはいけないと思い込んでいる。自分を許すことができないそうだ」
「笑えないんじゃなくて、笑うことを拒んでいるってことですか?」
「そうゆうことだ。本当はそんなことないのに……両親だって彼女の幸せを望んでいる。だが、誰が何を言おうと、どうにもならない。どうにかしてこの足枷をはずしてあげたいけど、僕には無理だ。精神科への通院を再開しても難しいだろうね」
「ナキならユタナちゃんの足枷をはずせそうな気がしたんです。あの子なら……」
「どうだろうなぁ……」
(ナキ君の死によって、更なる心の病を引き起こさなければいいのだが)
「一連の流れをマザーたちに話すために、ユタナちゃんが目覚める前に送り届けたほうがいいと思うんですが」
「そうだね。マザーたちに話したほうがいい。それに、ユタナちゃんも自分のベッドで目覚めたほうがいいだろう」
「あたしが送り届けます」
「お願いするよ」
自分のロッカーからほうきを取り出したラーラは「ユタナちゃんのほうき、こっちに来て」と言ってから、ドアを開けた。すると廊下にユタナのほうきが浮遊していた。「またあたしに付いてきて」
ほうきが室内に入ると、ラーラは窓を開けて、ほうきを跨ぎ、ユタナを抱きかかえた。
それを見たココロは不安げな表情を浮かべた。
「大丈夫なのかい? 落とさないかと思って」
「大丈夫です。以前もやりましたから」
「そうかい。気をつけて行くんだよ」
「はい。では行ってきます」と、ラーラは窓から外へ飛び立った。
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