第7話 涙を流すとき

 雨音が聞こえる―――それは遠い過去から聞こえてきた―――


 家路に着く幼いナキは、土砂降りの中を歩いていた。まさかこんなに降るとは思わなかったので、傘を持参していなかった。だが急ごうとも思わなかった。どうせずぶ濡れなのだから、いまさら走っても意味はない。歩行速度は上げずに、いつもどおり歩いて、公園の敷地内に入った。


 そのときベンチの方向から、弱々しく鳴くモフモルの声が聞こえた。気になったのでそちらへ目をやると、黄色い体毛のモフモルの子供がベンチの下に蹲って寒さに震えていた。


 ナキはモフモルに駆け寄った。


 生後三ヶ月くらいだと思った。何日も食べていなかったのか、かわいそうなくらいに痩せている。


 モフモルを抱き上げると、ナキの腕の中で鼻を鳴らして甘えてきた。ずっと独りで寂しかったのだろう。

 

 「おまえも捨てられたのか? 俺も同じだ。似たもの同士だな。一緒に帰ろう。きょうからおまえは俺の家族だ」肋骨が浮き上がった背中を撫でた。「ガリガリだな。少し太ったほうがいい。家には食べ物がたくさんあるから、おなかいっぱい食べればいい」


 ナキはモフモルに話しかけながら歩き始めた。

 「おまえの名前は……そうだボアニーだ。よし、ボアニーに決定」名前を付けてあげると尻尾を振って喜んだ。「嬉しいか? 俺も気に入ってくれて嬉しいよ―――」

 

 ずっとモフモルが欲しいと思っていたんだ。甘えん坊でかわいいな。ボアニー、おまえに出会えてよかった―――


 ナキは、ボアニーに出会ったときの夢を見た。


 室内はまだ薄暗い。ずいぶん早く目覚めたな……と思いながら、目覚まし時計を見た。午前五時半。決められた起床時間よりも、一時間も早く目覚めた。


 全員が早寝早起き、それがここの決まり。寝付きがよい方でないので、起床時間が早いのは苦手。たいていは子供たちに起こされるか、シスターたちに起こされるか、どちらかだ。しかしきょうは、珍しく早く目が覚めた。


 クッションの上でうずくまって眠っているボアニーに目をやった。みんなと一緒の大部屋で寝ていたときは、ボアニーもそこで寝ていたのだが、一番慕っているナキがこの部屋で作業するようになってから、ここに移ってきた。


 ナキも体重は減少しつつあるが、ボアニーもずいぶん痩せた。もうすぐ病理検査の結果が出る。自分のことよりも心配だ。大好きなボアニーには長生きしてほしい。出会ってからずっと、親友のように、ときには我が子のように可愛がってきた。自分より早く逝ってほしくない。


 背中を撫でると、ごつごつとした背骨が指先に当たる。病気がよくなったら、以前のようにたくさん食べて回復してほしい。そして、そうなると信じている。


 「早く元気になるといいな」と、眠っているボアニーに声をかけた。


 

 

 



・・・・・・

 




 なにやらナキの部屋が騒がしい。楽しそうな笑い声が廊下にまで響いている。トーヤもナキの部屋に入っていった。休日のきょうはナキの学校の友達がたくさん来ている。明るい性格のナキは友達も多い。そんなナキを羨ましいと思いながら、ユタナはナキの部屋の前で足を止めた。


 ファイアードラゴンの悲劇さえなければ、自分にも友達がたくさんいたかもしれない。ずいぶんと孤独な人生になってしまった。だけれど、いまはまだ救われている。ラーラのおかげでこの施設に来ることができたから、以前よりも寂しくない。


 でも……ナキの友達やみんなみたいに笑うことができない。


 ため息をついて、ふたたび歩を進めたそのとき、みんなが寝ている大部屋から、子供たちが出てきた。ほうきを手にしているユタナを見るなり、少しだけほうきに乗れるルッカがこちらに駆け寄ってきた。


 「ユタナ! ほうきの乗り方を教えてよ!」


 他の子もユタナに歩み寄った。


 ポーポもユタナと過ごしたい。彼女と過ごせばほうきの後ろに乗せてもらえる。これが楽しくて仕方ない。当然みんな同じなので、じゃんけんで勝った者からの順番待ちになる。

 「一緒に遊ぼう」


 ユタナは子供たちと遊ぶことにした。

 「うん」


 ルッカが呟くように言った。

 「ユタナは魔法使いでいいなぁ。魔法使いになりたい」


 魔力を持たない人間にとって、ほうきに乗るのが夢だというひとも少なくない。とくに子供は魔法使いを羨ましがる。将来の仕事も魔法使いのほうが有利。海をもひとっ飛びなので、魔力を生かし、配達業で生計を立てる魔法使いもいる。


 この街は魔法使いの数が比較的多いが、世の中を全体的に見れば、魔力を持たない人間のほうが圧倒的に多い。魔力を持って生を受けるとういうことは、才能のある選ばれし者のように感じ、そこに劣等感を覚える人もいる。うまくいかないことがあると、どうせ自分は平凡だ、と、生まれた瞬間から優劣があるように考えてしまう。


 たしかにほうきに乗って夜空を飛べるのは羨ましいけれど、人間に生まれたことに誇りを持て、と、以前ナキが供たちに説明した。


 そして、もし夢を追うライバルに魔法使いがいたとしても、決して諦めるな。想いと行動を一致させ、信念を貫けば、いずれそれが現実化する。きっと見てくれる人がいるはずだ、と、言葉を続けた。


 小さな子供たちには、それを理解するのは難しいようだったが、成長し、夢を持つようになれば、この言葉の意味がわかるだろう。彼らの励みとなるはずだ。ナキはどんなときも前向きに努力するように伝えた。深刻ではなく真剣に取り組む。できれば楽しいほうがよい。ネガティブなエゴに負けないようにな、と―――


 「魔法使いはほうきに乗れてすごいけど、人間にだってすごいところがたくさんある」と、ポーポはミーハイに顔を向けた。「前にナキが言ってたじゃん。人間に生まれたことに誇りを持てって」


 「うん……難しくてよくわからない」


 「そのうちわかるよ」


 「そうだよ、人間もすごい」と、ぽつりと言ったユタナは、子供たちと玄関を出て、外に出た。子供たちはユタナに笑顔がないことは気にしていない。彼らは楽しく遊べればそれで満足なので細かいことは考えない。


 外で一時間ほど子供たちの遊び相手をしたユタナは、そろそろ室内に戻ろうとした。玄関に向かって歩を進めると、ちょうどナキの友達が外に出てきた。ナキの部屋にいたときは、楽しそうに笑い声を上げていたのに、みんな泣いていた。


 ナキの前では涙は見せずに、いつもどおり振る舞ったのだろう。仲の良かった友達を失う。誰だってつらい。ナキが泣かないのに、こちら側が泣くわけにはいかない。だからいつでも明るく振る舞おうと、みんなで決めていた。


 歩を進めるごとに、泣いているナキの友達との距離が近くなる。人見知りするユタナは彼らに話しかげずに、そっとすれ違って、玄関を通り、室内へ戻った。


 ナキがいない未来はユタナにとってもつらい……余計なことは考えたくないので、掃除をしようと思い、廊下の掃き掃除を始めた。


 無心で廊下を掃いて、礼拝堂までやって来た。半開きになっている礼拝堂のドアの向こう側からすすり泣く声が聞こえたので、覗いてみた。すると、神が祀ってある手前に設置された長椅子にトーヤが座っていた。


 人の気配を感じてこちらに気づいたトーヤは、泣き腫らした目をユタナに向けた。

 「見られたくないところを見られちゃったな……」


 礼拝堂に足を踏み入れたユタナは、トーヤの隣に腰を下ろした。

 「来ていた友達も泣いてた」


 「ナキは弱音を吐かないし、俺たちがあいつの前で泣くのは……なんか違うだろ。だからあいつの前では絶対に涙は見せないようにしている」


 むせび泣くトーヤの背中を優しく撫でたユタナは、何も言わずに彼の話を聞いた。

 「……」


 「俺もナキも親の顔を知らなくて、この施設で兄弟みたいに育った。あいつは俺の親友なんだ。平穏な日常があたりまえのように続くって信じていた。でも、あいつが死ぬって知った瞬間、いままでの日常はあたりまえじゃなくて、ありがたいものだったんだなってことに気づいた。

 あいつがいない人生なんて考えられないし、あいつのいない世界も考えられない……大人になっても助け合って生きていく……そう思っていたのに……」


 あたりまえの日常は突如としてあたりまえではなくなる……と、あの日の惨劇を思い出し、目に涙をためた。

 「平穏な日々こそ大きな幸せだった……」

 

 「俺たちの年齢でなる病気じゃないんだ。神様はなぜこんなことを……天界の手違いなら、いますぐナキを助けてあげてほしい……」


 ぽつりと本音を口にした。

 「神はいない……」


 「子供のころからずっとマザーやシスターから神様の教えを学んできたから、神様がいるって信じたいんだ。でも最近……わからなくなってきた。悲しみを乗り越えることが残された者の試練なら、死にゆく者の試練ってなんだ……どんな試練があってあいつは十六歳で死ななければならないんだ……」涙を拭った。「ごめん……こんなこと訊かれても困るよな」


 「いいよ、あたしもそう思うから」


 「あいつに俺が泣いていたって言わないでくれよな」


 「言わないよ」


 「俺はもう少しここにいる」


 「あたしは掃除の続きをする」


 返事したユタナは、礼拝堂から廊下に出た。そして、頬を伝う涙を拭った。


 生きる者の試練、死にゆく者の試練……トーヤの言葉に納得せざるを得なかった。


 どんな試練があって死ななければならないのだろう……


 こんな試練、乗り越えられない。生きることだってこんなにも苦しい。




・・・・・・・




 

 ユタナが掃き掃除の続きを始めたころナキは、元気がないボアニーを撫でていた。いましがた友達がここにいたときは、尻尾を振っていたのだが、彼らが帰ると、具合悪そうにクッションの上で蹲っている。


 痩せてきたボアニーの背中に触れた。ふっくらした体だったのに、背骨に触れることができる。動物病院から帰ってきてから、すっかり食が細くなった。今朝見た夢の中のボアニーのように痩せてほしくない。あんなにもかわいそうな姿を二度と見たくないのだ。


 (痩せ細って死ぬのは俺だけでじゅうぶんだ)


 「ボアニー……つらいか?」声をかけながら撫でた。「どうしてだろうなぁ……なんで俺たちこんな目に遭わなきゃけないんだろうな……何も悪いことしてないのに……どうして……」

 

 ナキの目から涙が零れ落ちた。


 「俺……死ぬことが怖いんじゃないんだ。覚悟はできてるから……怖くないんだ。おまえの前で泣いている理由は、夢が叶わないことが悔しいんだよ……どうしても叶えたかった。子供のころからの夢だったから。人はいつか死ぬ。だけどこんなに早く人生が断ち切られるとは思わなかった。本当に悔しいよ……」


 ボアニーには、何を言われているのかわからない。だけれど、涙を流すナキの匂いは、悲しみのときに感じる匂い。ボアニーの口元にナキが顔を寄せると、鼻をぺろぺろと舐めてきた。本当は立ち上がって、ナキに抱きつきたい。しかしいまはその体力がない。


 「俺が弱音を吐ける相手はおまえくらいなんだよ。みんなの心の中に生き続ける俺は、元気じゃないと嫌だから。だからボアニー、俺が死ぬまで側にいてくれ……お願いだから……」


 ナキは、ボアニーの背中に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。


 何もしてあげられなくてごめんな―――


 

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