第3話 冷たい雨
目覚めると看護師のラーラの顔が見えた。彼女と会うのは、両親が死別して数年経ったころ、叔母にここの診療所の精神科へ連れてこられたとき以来だ。いつも叔母に言われていたのは、無表情で気持ち悪い。精神科医にも同じことを言っていた。何度か通院したが、精神科に行っても両親が帰ってくるわけではないし、笑うことなんてできなかったので、結局途中で通院をやめてしまった。
叔母もラーラくらい優しければよかったのに……
叔母と叔父は口論していたが、診療所に運んでくれたのは彼らなのだろうか?
「誰があたしをここへ?」
「あなたの叔母様と叔父様よ」
「険悪じゃなかった?」
「喧嘩している口調だったかな。口論している内容はわからなかったけど」
「やっぱり……」
ユタナが両親と死別したあと、彼らに引き取られるまで、ラーラはユタナの担当の看護師だった。そのころから、彼らにはよい印象を持たない。自殺未遂の原因はあのふたりにある、と察した。彼女の手首の傷よりも心の傷のほうが深い。だけれど、魔法ではどうすることもできない。人生の困難とつらい試練は自分の力で解決する以外方法がない。しかし、周囲の人たちの支えによって乗り越えられることもある。ユタナの場合は支えてくれる人が周囲にいない。
「傷はすぐによくなるわ」
(かわいそうに……どれだけの孤独感をいだいているのだろう?)
命に未練はなかった。死にたかった。だが……本当に死にたかったのかと訊かれると、自分でもよくわからない……衝動的なもの……切ると痛かったのに、なぜか生きている気がした。あのときの痛みが生きている証だったのかもしれない。なぜなら……死んでいたら痛くないから……やはりいつも、死にたい気持ちと生きたい気持ちは同時にあるような気がした。
「……」
「精神的な問題もあるから、先生の診断だと一週間の入院になるわ」
できれば一生いたいくらいだと思った。ここにいれば、奴隷のような召使いになる必要もない。
「わかりました」
ユタナはベッドから降り立ち、カーテンを開けて景色を望む。沈みかけた太陽が街並みを優しく照らしていた。橙色と青が溶け合った壮大な空を見つめていると、なんだか切なくて涙が込み上げた。
いつかあたしの人生も、この空のように綺麗な色に染まればいいのに……と思いながらため息をついた。
(気晴らしでもしよう)
ジュースでも飲もうと思い、院内の売店に歩を進めた。
売店に着いたユタナは、飲料コーナーに陳列されているジュースを手に取って、レジカウンターに置いた。
財布から硬貨を取り出した直後、手を滑らせて、硬貨を落とした。
床を転がる硬貨が、売店に入ってきた少年のつま先に当たった。
少年は硬貨を拾い、ユタナに渡した。
「落としたよ」
初対面の人と喋るのが苦手なユタナは、「ありがとうございます」と、小声で礼を言ってから、支払いを済ませ、廊下へ歩を進めた。
少年も飲料コーナーに歩を進めてジュースを購入し、待合室に戻っていった。
ユタナは軽く振り返って少年を一瞥した。
待合室の座席に腰を下ろした少年の隣には、修道服を着た四十代のシスターがいた。シスターは泣いているように見えた。少年は慰めるようにシスターの背中を撫でながら、いましがた購入したジュースを渡していた。
ユタナは少年が悪い病気に罹ったシスターの付添人かと思った。だがどうして、少年とシスターが一緒にいるのだろうという疑問をいだいたが、自分には関係ないことなので、とくに何も考えずに廊下に歩を進めた。
病室に戻ったユタナはベッドに腰を下ろし、ジュースを飲んだ。
しばらくここにいたいと思うけど、いつまでもいられるわけではない。時間はあっという間に過ぎ去ってゆく。気づけば六日が経過し、退院日となった。
思ったとおり迎えはこないので、帰宅する準備をしていたところ、ラーラが病室に入ってきた。
「大丈夫?」
「はい」
「もし、自宅がつらいなら、あたしでよければいつでも話は聞くし、泊まりに来てもいいのよ」
「どうしてそんなに優しいの?」
「心配だからよ」
なぜ、友達でもないあたしを心配するのだろう……と思った。両親が死んでから、優しさとは無縁の場所にいたせいで、人の好意を受け取るのが苦手になっていた。
「ありがとうございます。でも大丈夫。慣れてるから」
「そう……でも、助けがほしいときはいつでも言ってね」
「はい。それより、入院の費用は……」
「それなら、叔父様が払っていたわ」
叔父が自費で払ってくれるはずがない。ユタナの生活に必要なお金は、すべてヤドルドのお金から支払っている。
「そうですか」
「これ、あたしの家の地図よ」と、メモ帳に書いた地図をポケットから取り出し、ユタナに渡した。
「ありがとうございます」あれだけ人に気にかけてほしかったというのに、どのように反応すればよいのかわからず、とりあえず受け取ったメモ帳をポケットに収めて、窓を開けた。「ここから出てもいいですか?」
「ええ。魔法使いにとって窓は玄関同然よ」と、悪戯っぽい笑みを浮かべて言ってから、壁に立てかけていたユタナのほうきを渡した。「はいどうぞ」
いつもどおり愛想はなく、無表情のまま、ほうきを受け取った。
「ありがとうございます」
ほうきに跨がったユタナは、空へと飛び立った。だが、すぐに家に帰る気分にはなれなかった。叔父と叔母の顔を見たくない。
なんの苦労もなかったあのころに戻りたい……と思った。
もしかしたら、幸せだったころの思い出がいまの自分を癒やしてくれるかもしれない……勇気を出して、子供のころ住んでいた田舎町へ向かってみた。ほうきを飛ばせば一時間程度で到着するので、空を飛ぶ速度を上げた。
赤いレンガの屋根が立ち並ぶ街の上空を通り過ぎ、砂利道が続く山間の道へ入った。ファイアードラゴンの襲撃に遭ったこの場所に来ると、どうしてもここから先に進むことができない。ほうきを止めて考える。
あの日もほうきだったら、ファイアードラゴンから逃げることができたかもしれない……と、実家が近づくにつれ、心の中が後悔でいっぱいになった。
(あたしは意気地なしだ。やっぱり無理……行けない……)
ユタナは引き返すことにした。街へ向かって、ふたたびほうきを飛ばした。
街の上空に辿り着いたので、家路につく。結局、あの家以外、行く場所なんてない。
家に到着したユタナは、大地に降り立った。玄関を開けて室内に入ると、叔母の姿はなかった。その代わり、叔父と体を密着させてソファーに腰を下ろしている見ず知らずの若い女性がいた。
「あいつは出ていった。おまえもこの家にいたくているわけじゃないだろう。昔住んでいた実家に帰るんだ。もうじゅうぶん面倒は見た。だいぶ使わせてもらったが兄貴の残した金もある。これからは自由にひとりで生きろ。つまり、荷物をまとめてきょうじゅうに出ていってくれ」
あの家に……戻りたくても精神的につらい。でもここにいるのも嫌だ。ここを追い出されれば、行く場所はない。行く当てがなくても、養子とはいえ、居候のような自分は、出て行けと言われてしまえば出て行くしかないのだろう。
「わかりました」
ユタナは自分の部屋に行き、ボストンバッグに荷物をまとめはじめた。棚に置いてある写真立て収まった両親の写真を手にし、それをぎゅっと抱きしめてからボストンバッグに収め、部屋を出た。若い女とキスをしている叔父を無視し、そのまま家をあとにした。
玄関のドアを開けると、雨が降っていた。いましがた晴れていたのに、どんよりとした鈍色の空が広がっている。通り雨ではなく、本格的に降りそうだ。
いつもならシールドを張って濡れないようにするのだが、いまは雨に打たれたい気分だった。この感情をひとことで言えば、無気力。何もかもがどうでもよく思えた。
ボストンバッグを肩にかけたユタナは、ほうきに跨がり、空を飛んだ。家を出たけれど、行くところがない。ラーラはいつでも助けになると言ってくれたが、家を追い出された少女に何をしてくれるのだろう…迷惑だろうし、彼女に頼れるほど親しい間柄でもない。
どこに行けばよいのかわからないので、とりあえず公園に行くことにした。
公園に到着して、街灯の下に設置されているベンチに腰を下ろした。大粒の涙を流しているかのような鈍色の空は、まるでいまの自分の心を映し出す鏡のように思えた。
寒い……
ああ……このまま雨水にみたいに、あたしの身体も水になって、海にでも流れてしまえばいい……
ママとパパに、あたしの姿が見えているのだろうか? 天国は遠すぎて、あたしの姿が見えないの?
もし見えていないならなんて伝える?
あたしは大丈夫、なんでもひとりでできるし、愛してくれる人がたくさんいるから心配しないで……なんて気を使った優しい嘘でもついてみる?
もし見えているならなんて伝える?
ここから救って、助けて、会いたい……って、正直に言いたい。
愛されたい。
心から誰かに愛されたい。
あたしはここにいる……
この孤独に沈んだ手を救い上げてほしい―――
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