第4話 孤児院での再会
二十一時、診療所の休憩所にいるラーラの周囲に看護師が集まっていた。
医者がラーラに花束を渡した。
「長い間、本当にありがとう。平和の宿に行っても、きみならうまくやっていける。寂しいけど応援してるよ」
ラーラは花束を受け取った。
「ありがとうございます」
ラーラと仲良しだった看護師がハンカチで涙を拭った。
「ほんと寂しくなるわ。いつでも遊びに来てね」
「大袈裟ね。いつでも会えるじゃない。泣かないでよ」
魔法医療学校を卒業してから、ずっとこの診療所で働いてきた。だが、この病院を退職し、終末期患者を看取る、平和の宿という入院施設へ勤務先を変えることにしたのだ。今年で三十四歳を迎えるラーラにとって大きな決断だった。
いままでは延命治療を行い、寿命を延ばすことを考えてきた。そして、生かすことを考えてきた。人の命を救うことこそが医療だと思っていたからだ。
しかし、勝つことのない病魔に冒されている患者に施す身体の痛みを緩和させる医療も、人を救うことなのではないだろうか……看取る側の悲しみをも緩和させるために自分にできることがあるはずだ……と、考えるようになった。
人は大事な存在を失ったときに、その存在の大切さを改めて知る。その存在が身近にいたときには、それが当たり前になり、感謝や愛に気づけないこともある。そんな自分に対し、後悔の念をいだく。ああしておけばよかった、こうしてあげればよかった、と……
それはとても愚かなことなのかもしれないが、誰もが思うことだ。だが、愚かで不完全な部分もあるから人なのだろう。完璧な人などいないし、神も人に完璧を求めてはいない。よって完璧である必要もないのだが、せめて大事な人の最期まで付き添い、看取ることができれば、その後悔も軽減されるはず……ラーラはその手伝いがしたかった。
長年に渡り診療所で働いてきたスキルを平和の宿で発揮させるべきだ、と、使命のようなものを感じるようになり、深く考えた結果、退職を決めたのだ。
「それじゃあ、みんなありがとう」微笑んだラーラは、ほうきを手にして、窓に歩み寄った。「いつもどおりここから帰るわ」
医者が笑った。
「好きにしなさい。魔法使いにとって窓は玄関みたいなものだ」
「それ、あたしの口癖」
看護師が言った。
「あたしたちも窓は玄関よ」
「そうだったわね」と、ラーラは笑いながら返事した。
貰った花束をトートバッグに入れたラーラは、窓を開けた。雨風が強い。横殴りの雨が降っている。室内にいるうちに、シールドで体を覆い、ほうきに跨がった。
看護師は軽く手を振った。
「元気でね」
「あなたもね。じゃあね、おつかれさま」
「おつかれさま」と、いつもどおり窓の外へ飛び出した。
民家の窓から漏れる蛍光灯の光はいつもと変らないが、今夜の空は暗い。満天の星が見える夜なら、景色を眺めながら飛ぶのが好き。きょうは退職日だというのに、こんなにも最悪の天気で残念に思った。
家路を急ぐラーラは、ほうきを飛ばす速度を上げた。
近道をするために、公園の敷地内に入った。すると、街灯の下に設置されているベンチに横たわる人の姿を発見した。周囲も暗く、雨が降っているので、ユタナだと気づかなかった。
(なぜ、こんな雨の日に? まさか、酔っ払い? それとも体調を崩したホームレス? このまま雨に打たれたら肺炎になっちゃう。放っておけないわ)
ラーラは降下し、ベンチの手間に降り立った。その瞬間、ベンチに横たわるユタナの姿が明瞭になった。
驚いたラーラは、ユタナの体を揺すった。
「ユタナちゃん! 大丈夫!?」ユタナの額に手を当てるとかなり熱かった。「すごい熱!」
ベンチに置いてあるボストンバッグに目をやった。
(家出? ここにいる理由がなんであれ、助けてあげないと)
ユタナの体にシールドを張ってから、ユタナのほうきに話しかけた。
「おねがい、この子の荷物とあたしの荷物を運んでもらえる?」
するとユタナのほうきが宙に浮いた。そのほうきの柄の部分に、ユタナの荷物と自分の荷物を掛け、「落とさないように、あたしについてきてね」と話しかけてから、ユタナを抱きかかえ、自分のほうきに跨がった。
人を抱えてほうきに乗るのは初めて。 “落とさないように” それは自分に言ったほうがいいかも、と思った。
ラーラはふたたび空へ浮上し、ほうきを飛ばした。向かった先は、神の子という名前の孤児院だ。三人のシスターと、年嵩の院長のマザーが、八人の孤児を見ている。ちなみにマザーやシスターも魔法使いだ。
全員と仲が良いラーラは、神の子に遊びに行くこともあるので、内部が賑やかで楽しい環境であることを知っている。彼らの愛の力によって、ユタナの心の病も良くなるのではないだろうか……と考え、向かうことにしたのだ。
だが、ひとつ不安な点が……ユタナと同い年で余命四ヶ月の少年、ナキの存在。ナキは、どんな魔法医療でも助かることのない進行性の病、悪性変異細胞腫の罹患者だ。
人の体を構成する約六十兆個の正常な細胞は新陳代謝が行われるので、人と同じように寿命がある。よって細胞分裂を繰り返し、増殖し続けることはないのだが、それがなんらかの原因により、遺伝子が傷つくことで正常な細胞が突然変異し、悪性の変異細胞が発生する。
この変異細胞がリンパや臓器に飛び火し、転移するというメカニズムとなっている。これが、この世界で不治の病とされている悪性変異細胞腫である。
この病の特徴は非常に進行が早いため、病院で診断を受けたときには、医者から余命宣告をされる。もし、ナキと仲良くなっても、寿命はたったの四ヶ月。両親の死のつぎに、ナキの死を体験することとなる。
この病が進行すると、悪性変異細胞が正常な細胞の栄養素まで取り込むようになるので、患者の体重は大幅に減少し、体力を奪われる。その後、耐えがたい激痛に襲われる。
そのため、痛みの伝達を抑制する作用のある、麻薬と魔法を融合させた鎮痛薬、ケシを使用する。このケシは、鎮痛薬としては優れた効果を発揮するが、強い副作用を伴う。
側で見ていてつらくならない者はいない……ユタナに耐えられるだろうか……
しかし彼女は、将来、医者になる。死と向き合わなければならない職業だ。ナキだからこそ、ユタナによい影響を与えてくれるかもしれない。
孤児たちと交流のあるラーラは、ナキは子供のころから前向きで明るく、信念を貫く性格、ということをよく知っている。
ナキが診療所で医者から余命宣告をされたとき、ラーラも隣にいた。彼は、泣き崩れるシスター、メルを慰めながら、医者の話を冷静に聞いていた。
そのとき、近くで見ていたラーラは、ナキはひとりになったときに涙を流すのだろう、かわいそうに……と思っていた。しかし、メルの話によると、神の子に帰ったナキは、やるべきことがあると、天に召されるまでのあいだ、生きた証を残すために絵画の制作をする、と言っていたそうだ。
ナキの夢は、画家になることだった。それも、国王に献上する肖像画を描くような、有名な画家になるという大きな夢があった。ラーラの誕生日に絵をプレゼントしてくれたこともあった。
子供のころから絵を描くことが好きだったので、それが彼の生きがいであることを知っていたが、死が差し迫っても泣きもせずにいまを生きようとする、そして、いまできることを精一杯やろうとする、その姿勢に驚かされた。
なぜ、この子は若干十六歳という若さで、こんなにも強いのだろう……と、考えさせられるくらい、強い子だと思った。
ユタナがナキに心を開いてくれることを祈ろう……ナキに出会ったことにより、ユタナの内側に変化が起きれば、彼女の将来はきっと明るくなるはずだから。不安要素はあるけれど、懸けてみるしかない。
いま腕の中にいるユタナのことと、ナキのことを考えながら空を飛ぶラーラは、十字架が目立つ修道院のような外観の孤児院、神の子に到着した。
玄関のドアの前に立ったラーラは、ドンドンと力強くドアノックを鳴らした。
「お願い! 開けて!」
ドアを開けたのは、ユタナが診療所で見かけたシスターのメルだった。当然、メルはユタナを知らない。
ラーラが抱きかかえているユタナの姿を見て驚いた。
「どうしたの、その子」
「ちゃんと説明するから中に入れて」
「もちろんよ、入って」
ラーラは、室内に足を踏み入れた。
「ありがとう」
「何があったの?」
「話はあとよ。この子、熱があるから着替えさせたいんだけど、タオルと寝間着を用意してもらえる?」
「わかったわ、ついてきて」メルはラーラのほうきを持ち、ユタナのほうきに言った。「あなたはもう少し荷物を持っててね」
廊下の向こう側から、ふたりのシスターがこちらに向かって歩を進めてきた。
二十代後半のシスターのアリがラーラに尋ねた。
「その子は?」
「メルにも言ったけど、あとで説明する」
メルがふたりに指示を出した。
「この子、熱があるのよ。タオルと寝間着を持ってきて」
アリが返事した。
「わかったわ」
もうひとりの三十代後半のシスター、マロネが廊下の先を指した。
「マザーも呼んでくるわ」
メルは頷いた。ユタナの事情は知らないが、訳ありなのは見ていてわかる。大事なことなのでマザーに伝えるべきだ。
「そうね、そのほうがいいわね」
アリとマロネはマザーを呼びに向かった。
ラーラとメルは、白い壁に一定の間隔を置いてドアが続く長い廊下を歩いた。
ラーラは半開きのドアに目をやった。ここが子供たちの寝室であることを知っている。寝室を見ると、七台のベッドに子供たちが眠っていた。一台は空いている。
「あれ? ナキは?」
「絵の題材がまだ決まってないみたいで、集中して考えたいみたいだから、子供たちがいる部屋の隣に移ったわ」
「体の調子は、その後どうなの?」
「いつもどおり、元気なの。だから病気だなんて信じられなくて」
「……そう」
(いつ急変するかわからないのが、この病気の怖いところ……)
「ナキの隣の部屋でいいわね。ここにもベッドがあるから」
ラーラは、突然、ふくらはぎに生暖かい息を感じた。なんだ? と思い、視線を下ろした。すると、全長五十センチ程の大きさで、大きな尻尾を持つ、長くて濃密な黄色い体毛に覆われた動物、モフモルの雄がラーラを見上げていた。
人が大好きなモフモルの名前はボアニー。ラーラのことを友達だと思っているので、大きな尻尾を振って、喜びの感情を表現する。ちなみに、今年で十一歳になるボアニーは、人の年齢にたとえると六十歳くらいだ。
「こんばんわ、ボアニー。ごめんね、いまこの子を抱っこしてるから、撫でてあげられないの」舌を出して尻尾を振り続けるボアニーに声をかけた。「いいわね、あなたはいつも元気そうで」
「それがそうでもないのよ。なんだか最近、食が細くなっちゃって」
「ついこの前まで食欲旺盛だったじゃない。おやつなんて丸呑みよ」
「それが急になの。もう少し様子を見て、食欲が戻らないようなら、獣医さんのところに行ってみる」
「そのほうがいいわね。もし病気なら大変だもの」
「なんともなきゃいいけど」
メルはドアを開けた。六畳の部屋には、ユタナが出入りできるくらいの大きさの窓があった。壁の中心に沿ってベッドが置いてあり、そのベッドの横には小さな収納棚が置いてあった。
「いい部屋ね」
「でしょ」
ベッドにユタナを寝かせ、濡れた衣服を脱がせたところで、寝間着とタオルを手にしたマロネと、額を冷やすための手ぬぐいと氷水が入った桶を手にしたアリが、眼鏡をかけた七十代のマザー、テルマとともに、室内に入ってきた。年嵩だが若いころは美人だったと思わせる切れ長の瞳でユタナを見つめた。
マロネは、ラーラにタオルと寝間着を渡した。
「使って」
「ありがとう」
受け取ったラーラは、ユタナの体を拭いて、寝間着を着せてから、雨で冷えた体に布団を掛けた。
アリは収納棚の上に、氷水が入った桶を置いた。それから冷えたタオルをラーラに渡した。
「頭はこれで冷やして」
「気が利くじゃない」と、冷えた手ぬぐいをユタナの額の上にのせた。
突然、ボアニーがドアへ駆けていったので、そちらに視線を向けた。すると、わずかに開いたドアの隙間からこちらを覗いているナキの姿を見つけた。
ラーラと目が合ったナキは、ドアを開けて室内に入ってきた。
「なんだよ、おまえのせいでバレちゃったじゃん」ボアニーの頭を撫でたナキは、そのあと「ベッドに寝かせた女の子は誰?」と、ユタナの顔を覗いた瞬間、「あ! この子、診療所で会った!」と驚きの声を上げた。
ラーラは尋ねた。
「ユタナを知ってるの?」
「いや、知ってるってほどじゃないけど、売店でジュースを買おうとしたときに、この子が落とした小銭を拾ってあげたんだ」
「そうなんだ」
「信じられないくらい、超偶然」
「あなたと同い年で、ユタナっていうの。仲良くしてあげてね」
「それは、もちろんだよ。てゆうか、ユタナは何者? ボストンバッグもあるけど、家出少女?」
それが一番肝心なこと。なぜ、こんな土砂降りの日にずぶ濡れになって公園のベンチで寝ていたのか、当然、テルマはその理由が知りたい。
「わたしにも経緯を教えて」
ラーラは、横たわるユタナの左手首を軽く持ち上げて、切り傷の痕を見せた。
「うちの先生の魔法をかけた塗り薬が効いて、あっという間に傷はここまで治った。診療所でナキと会ったとき、ユタナは手首を切って入院中だったの」
四人は驚いて、目を見開いた。
ナキが尋ねた。
「自殺未遂ってやつ?」
「ええ、そうよ」と、隠さずに教えたラーラは、ユタナが子供のころファイアードラゴンの襲撃に遭い、両親を亡くしたことや、里親のこと、そして、心の病によって笑顔を失ってしまったことを彼らに話した。
ユタナが負った心の傷は計り知れない。同情したテルマは、涙を拭ってから尋ねた。
「大変な人生だったのね。ひとつ訊いてもいいかしら? 笑顔を失うって、まったく笑うことができないの?」
「ええ、そうよ。にこりともしない。ひとことで言えば、無表情。悲しむといったネガティブな感情はあるんだけど、喜びや楽しいとかポジティブな感情表現はまったくできないの。子供のころ両親を亡くしたばかりのころは、会話すら難しい状態だったのよ」
「いまは話せるの?」
「すごくおとなしいけど、話せるわ。あと、人に頼ることが苦手なんだと思う。連絡先を教えたんだけど、こんな状態だし」
「つらい思いばかりしている子は、人に頼るのが苦手なのよ。心のどこかで、何でもひとりでやらなきゃいけないって思い込んでいる」
明るい性格の自分と同様に、仲間たちも明るい。心が癒やされれば、きっと笑顔が戻ってくると、ナキは思った。
「ここにいれば、人との関わり合いもうまくなる」
ラーラもここのみんなが彼女の心の支えとなってくれるのではないか、と、期待してこの施設へ連れてきたのだ。
「ほんと、そうなってくれると嬉しいわ」
ナキはユタナの頬に触れた。その表情はとても優しくて、まるでユタナに好意を持っているかのようだった。
「初めて診療所で見たとき、可愛いって思ったんだ。だからユタナの笑顔が見たい。俺たちと一緒にいれば、絶対にユタナは笑うようになる。きょう会ったことにも意味があるはずだ」
ナキの頭を優しく撫でたテルマは、口元に笑みを浮かべた。
「偶然にも意味がある。神様のお導きかもしれないわね」
「俺もそう思うんだ。そのうち笑顔になる日が、きっとやってくる」
テルマは、ラーラに肝心なことを尋ねた。
「ここにいるのは構わないし、わたしもそうしたほうがいいと思う。だけど、里親のほうはどうなの?」
「あたしにもわからないわ。ユタナちゃんが家出した理由……目覚めたら訊かないとね」
と、ラーラが言った、そのとき、ユタナが目を覚ました。
公園のベンチに横になっていたはずが、知らない一室にいる。そしてラーラもいる。
「あたしが目覚めると、あなたがいる。窮地のときには必ず……不思議だね……」
「それだけ縁があるってことよ。いつでも頼ってって言ったのに」
「迷惑かと思って」
「そんなことないわ」
ボアニーがベッドに前肢を乗せ、ユタナに挨拶しようとした。
「かわいい」
「その子はボアニー。男の子よ」
ユタナはボアニーを撫でた。シャンプーしてから日が浅いため、ふんわりとした体毛が心地よかった。
「いい子だね」
「モフモルが好きなの?」
「はい」と返事したあと、尋ねた。「ここはどこなんですか?」
「ここは神の子っていう孤児院なの。マザーと三人のシスターが、八人の子供たちを見ているの。ここにはあなたを傷つける人はいないから安心していいわ」テルマから順に紹介した。「ここの院長、マザーのテルマ、シスターのメルとアリとマロネよ。それからナキ」
ユタナは、ナキの顔を見てはっとした。
「あなたは……たしか診療所の売店で……」
ナキは微笑んだ。覚えていてくれるなんて嬉しい。
「そうだよ、仲良くしようぜ。よろしくな」
仲良くしよう、よろしく……ひとからこんな言葉をかけてもらったのは、友達がいた子供のころ以来だ。あれからずいぶんと月日が流れた。心を閉ざした状態で、どのように返事すればよいのかわからなかった。
「……」
ラーラは、ユタナが公園のベンチに横たわっていた理由を知りたい。里親のことや、どのような事情があったのか、この施設で暮らすのも詳しく訊いてからの方が良いと思った。
「ひとつ訊いていい? どうしてあんなところにいたの? もしかして、家出したの? その辺の事情を聞かせてちょうだい」
ユタナは、自ら出ていこうとしたわけではなく、出ていけと言われたことや、叔父の新しい女性のことも、家で起きた出来事をすべて打ち明けた。
「……だから公園のベンチにいたの」
ユタナがベンチにいた理由を理解し、ラーラたちは胸を痛める。
「かわいそうに、信じられない人たちね」
気の強いナキが言い放った。
「クズだな」
「そんな汚い言葉を使ってはいけませんよ」と、テルマはナキに言葉遣いを注意してから、ユタナに提案した。「ここで生活してみない? きっと楽しいわ」
自分がここにいては迷惑になると感じた。それに、ひとの優しさには久しく触れていないので、素直に本心を言うことができない。本当は、ここにいたい。
「でも……」
「自分の家だと思っていいのよ」
心の傷が原因で素直になることができない……ラーラはユタナの気持ちに気づいていた。
「人の好意は受け取るものよ。行く当てもないんでしょ?」
ラーラはいつも自分を助けてくれる。いままで寂しくて凍りついていた心の氷がゆっくりと溶けていくような温かさを感じた。
「はい」
「じゃあ、決まり! ユタナは今夜からここで暮らす」ナキはユタナに笑みを見せた。「もう決定だ」
ユタナはここにいる全員に改めて挨拶した。もう叔母の召使いになることもないし、叔父に冷たくされ傷つく必要もない。きっとここが自分にとって楽園のような場所になる。ありがたくて、心の中でラーラに感謝した。
「よろしくお願いします。なんでもお手伝いします」
この施設の大先輩のナキは、頼りがいのあるところを見せたかった。
「わからないことがあったら、なんでも訊いてくれよな」
「はい、ありがとうございます」
消灯は九時だもうとっくに過ぎている。ナキも病気、ユタナが熱を出していることもあり、テルマはそろそろ休んだ方がよいと判断した。
「すべて決まったところで、今夜はもう寝ましょう」
魔力を持つものは人間とは異なり、怪我を含めて回復が早い。
「あたしは魔法使いなので、あしたにはよくなっています」
「でも今夜は安静にしてないとね」テルマは返事してから、ラーラたちに言った。「消灯しましょう」
ラーラはユタナに軽く手を振った。
「おやすみ。また来るわね」
「はい。おやすみなさい」
自分のほうきを手にしたラーラは、部屋の明かりを消し、テルマたちと廊下に出て、ドアを閉めた。
テルマは廊下に出て早速、ナキに顔を向けた。夜更かしや、施設を抜け出す常習犯なのはわかっている。
「さあ、あなたも寝て」
ナキは不満そうに言い返した。
「消灯時間、九時って早すぎ。ガキのころからそれだけが気に入らないんだよなぁ」
「もうとっくに十時過ぎています。夜更かしはだめよ。文句言わないで寝なさい」
「はいはい」と適当に返事して、ボアニーを連れて自分の部屋に戻った。
ユタナを預けて安心したラーラは、今夜はもう遅いので帰宅することにした。
「また来る。あの子のことよろしくね」
テルマも悪い環境で育つより、ここのほうが心が豊かになると確信していた。なぜなら、この施設で育った子供たちはみんな明るいからだ。
「もちろんよ。安心してちょうだい」
メルが笑みを浮かべた。
「子供たちは人見知りしないし、すぐに仲良くなれるわ」
アリがふと思う。肝心なことを訊くのを忘れていた。十六歳なら学校に通っているか、そのまま社会人として働いているか、どちらかだ。
「そういえば、あの子、学校は?」
ラーラにも詳しくはわからない。
「魔法医療学校に通っているはずだけど、あした本人に訊いてみて」
「わかったわ」
「それじゃあ、帰るね」
「雨風が強いから気をつけてね」
「ありがとう」と、返事したラーラは玄関へと向かった。
・・・・・・・・
自宅に到着したラーラは、玄関の壁にほうきを立てかけ、室内に入った。廊下は、常夜灯の仄かな明かりに照らされている。両親と同居なので、彼らを起こさないように、静かに歩を進め、台所へ入った。
食卓テーブルには野菜サラダとチキンのソテーが用意されていた。チキンのソテーを電子レンジに入れ、温めているあいだに、冷蔵庫からお茶を取り出し、グラスに注いだ。その後、温めたチキンのソテーとお茶を持って、ふたたび食卓テーブルに戻り、椅子に座った。
年齢的に夜十時以降の食事は控えたいのだが、空腹には勝てない。食べることが好きだし、なんだかんだ言い訳をして、つい自分を甘やかせてしまう。
(仕事で動いてるから大丈夫。チキンだから脂肪も少ないし、問題ないわ)
ラーラは大好きなチキンを食べた。噛むたびに甘みのある肉汁が口いっぱいに広がると、心も幸福感に満たされる。皮はパリッと、中はふっくら。好みの焼き加減で最高。今度は野菜サラダと一緒に食べてみる。さっぱりしていておいしい。野菜の歯触りと柔らかいチキンの食感がなんともいえない絶妙な組み合わせ。
思わず恍惚とした表情を浮かべる。
(これ大好き。ほんと、最高だわ)
食事に関しては、母親に頼ってばかりいる。仕事はできても家事は苦手。両親には感謝しているが、意見が合わないこともあるので、一人暮らししたいと思うこともある。子供は親の分身ではなく個人なのだから、考えが違ってあたりまえのこと。そのため、たまに窮屈さを感じる。
(そのうち一人暮らしをしよう。でも両親のことが心配だから、実家の近くがいいわね)
食事を終え、冷たいお茶を飲み干してから、食器を洗って片付けた。
(お風呂に入って寝よう)
ちょうど台所から出ようとしたとき、母のティナがこちらに歩を進めてきた。
「お帰りなさい。ちゃんと食べたの?」
「いつもどおりよく食べたわ。寝てたんじゃなかったの?」
「きょうは起きてたの。あなたに話があるのよ」
ふたりは食卓テーブルの椅子に腰を下ろした。
早くお風呂に入ってベッドに行きたい。
「話って何? 手短にね」
ティナは本題に入った。
「じつはお父さんの友達の息子さんがね、出会いを探しているのよ。会ってみない?」
これで何度目だろう、と、ため息をついた。仕事から帰ると見合いの話を勧めてくる。はっきり言ってうんざりしていた。仕事に生きがいを感じているのに、最近では結婚の話ばかりする。たしかに周囲や同級生はみんな結婚して、子供がいる。だから両親も孫が見たいのだろう。その気持ちはわかるが、これだけは親の言うことは聞けない。自分の人生は自分で決める。他人軸になりたくない。
「またそういう話? 前にも言ったでしょ、あたしは出会いを求めていない」
「母さんも父さんも心配なのよ。幸せになってほしいのよ」
「あたしはじゅうぶん幸せよ。仕事に生きがいを感じているわ。天職よ」
「それはわかってる。でも、結婚や出産はしたくないの?」
「ママに関係ないでしょ」
「あなたが出会いを求めない理由は、未だにカルのことが忘れられないからなんじゃないの? 彼は変った。もう昔のカルじゃない。あなたの心の時計は、あのころのまま止まっている。だけど人は歳をとる。あなたは今年で三十四歳なのよ。望みのない人を待っていて何になるの?」
ずっと伏せていた想い。自分でも考えないようにしようとしていた。年月はあっという間に過ぎ去ってゆく。カルがドラゴンハンターになってから、十年以上の歳月が流れた。たしかにティナの言うとおり、出会いを求めていなかったのは、カルのことがどうしても忘れられなかったからだ。
もしかしたら彼が戻ってくるかもしれない……と思ってしまう自分がいる……
「望みがないかどうかなんて、わからないじゃない!」人は本当のことを言われると、なぜか感情的になる。それが言われたくない事柄であればあるほどに。「ママにあたしの気持ちがわかるはずない!」
「あなたの幸せを思って言っているのよ」
「あたしの幸せ?」不快な表情を露わにした。「それはあたしの気持ちを最優先して考えた幸せだと本当に言えるの? ママが考える幸せの価値観を、あたしに押しつけているだけなんじゃないの? ママが思う幸せの理想像が、あたしにとって幸せとはかぎらないわ!」
何を言っても無駄なので、ため息をついた。
「執着は人の人生を食い潰す魔物よ。視野が狭くなって肝心なことが見えなくなる。あなたは完全に、執着という魔物に囚われている。たった一度きりの人生、時間を無駄にしてほしくないのよ。愛と執着を混同しないで。このふたつは別物よ」
大粒の涙を零した。
「もうやめて! そんな話、聞きたくない!」
「ママはもう何も言わないわ。とても大切なことだから、よく考えなさい」と言ったティナは、椅子から腰を上げて、台所をあとにした。
ラーラは、声を押し殺して号泣した。大好きな料理を食べて幸せだったのに、一気に地獄に突き落とされた気分だ。
たった一度きりの人生だからこそ、本当に好きな人と一緒になりたいと思うのは、いけないことなのだろうか。心から愛する人と一緒になれないからといって、なぜ他の男性を愛する必要があるのだろうか……
寂しさを紛らわすための恋愛なんて意味がない。偽物の愛なんて必要ない。それとも、寂しくて他の男性を求めれば、いつしかその人が本命になるとでもいうのだろうか……
幸せだったころのふたりの思い出は、彼の中ではすでに色褪せている。いまの自分は、彼にとってなんの価値もない女なのだろう。
思い出を描いたジグソーパズルがあったなら、とっくの昔にバラバラになっている。そこに描かれていた絵を明確に思い出せるのは自分だけなのだ。失ったピースを必死に探し、かき集め、それをつなぎ合わせて、未練という過去にしがみついているだけの馬鹿げた片思いをしている。
現実を見れば、思い出のジグソーパズルのピースは、どこかに消えてしまって見つかりそうもない。そんなことは嫌というほど理解しているけれど、そこから目を背けたくて、未だに消えたピースを探し続けている。
そのピースさえ見つかれば、思い出がふたたび蘇って、ふたりはうまくいくかもしれない……
そんなわけないのに……
結局のところ、いまを生きられていない。過去ばかりを見ている。
ママの言うとおり、この恋愛も人生も執着という魔物に囚われてしまったのだろう……
恋は人生になくてはならないもの。だけれど恋は執着を持った瞬間から幻想という名の毒に冒されてゆく……あの甘美な記憶は毒だったのだ……そう思い込もうとしても、どうしても忘れられない……
ラーラは椅子から腰を上げ、グラスの中に氷を入れて、戸棚に置いてある父親の酒を手にし、ふたたび椅子に座った。酒は滅多に飲まない。だけれどきょうは飲みたい気分だ。平和の宿の出勤日は明後日からだ。あすは二日酔いだろうとなんだろうと、どうなっても構わない。
グラスに酒を注いだラーラは、一気に飲み干した。そしてもう一杯注いで、これも飲み干した。そしてもう一杯、一気に飲む。こんなにもめちゃくちゃな飲み方をしたのは、てっとり早く酔いたかったからだ。
(わかってる……酔ったからといって、あたしがいる世界が変るわけじゃない。お酒のせいで感覚が麻痺しているだけ……酔いが覚めれば、今夜と同じ彼のいない夜が続く……)
零れ落ちた涙が頬を伝って、口の中に入った。
(しょっぱい……)
自棄酒のおかずは、過去の男を想って流した涙。格好悪すぎて、笑えやしない。
(さっき食べたチキンよりも塩味だ。あたしってバカみたい)
ラーラは四杯目の酒を飲み干した。
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