【7】わだつみの底


 昼夜の別すら溶かして失くす、暗い海の中。そこを、白いワンピースが花のように揺らめき泳ぐ。


 やがてその裾は足に沿うように泡となり、美しく青緑にきらめく鱗へと変じていった。腰から、背へ、そして腕へ。鱗はあっという間に広がりゆき、黒髪靡かせる女性の姿は、優美な尾ひれで海を行く、長く大きな魚へと成り変わった。


 そこへ、ゆったりと身体をくねらせ泳ぎながら、一回り小さな、似た種の魚が泳ぎよってくる。


『お戻りになられましたか』


 波の音すらない海の内。低い声が淡々と紡いだのに、女性であった巨大な魚は、応えはせずにじとりと一瞥をくれてやった。


 それに嘆息した有様で、近寄ってきた魚は付き従うように隣を泳ぐ。


『お嬢様の悪癖はかねがね承知しておりますが、此度ばかりは多少心配いたしました。お父上の目を盗んでどこに行かれたかと思えば……まったく。趣味のよろしくないお戯れも、ほどほどになさいませ』

『趣味が悪いのは私じゃなく、あのオロチのじじいの方よ!』


 ちくちくと突き刺す小言を、黙々と泳いで聞き流していた尾ひれが、苛立たしげに大きくびしゃんと水を叩き打った。


『お気に入りを自分の腹のうちに囲って閉じ込めて。繰り返し、繰り返し、味わいを楽しんで。その肉体どころか、魂が擦り切れるまで、丹念にゆっくりと、時間をかけて溶かしてんでいくのよ』


 怒りに身もだえするように、巨大な魚は体をうねらせた。迷惑そうに隣を泳ぐ魚が距離をとったが、構いはしない。


『あいつ、あと何百年かは、ちまちまちまちまちまちま、じわじわあの子を嬲るようにして、繰り返す退屈を味わい尽くすつもりよ! 根性ねじ曲がってるわ!』

『……人のモノばかり欲しがってがっつくお嬢様も大概ですが』

『だってあの子は本当においしそうだったんだもん! それに、悔しいけど、あのオロチ、食の好みはいいから。あんな素敵なモノ、盗りたくなるに決まってるわ!』


 冷静な諫めの言葉も左から右へ。お嬢様は腹立ちのままに、荒々しく海原を泳ぎゆく。


 降り積もる時が与えてくれた千載一遇の機会は、潰えてしまった。もうあの岩場の入り口は、とうにオロチの手でしめ縄を結び直され、隔てられてしまったに違いない。


 閉ざされた彼の島へ立ち入る術は、どこにも残されていない。


『……端っこだけでも齧りたかったわ……』

『諦めてください。下手によそ様に喧嘩を売らないように』


 すかさず窘める声に耳もかさず、ふんと顔を背けて、彼女は不満げに、さらに奥へ、水底へと泳ぎだした。


 二匹の大きな魚の姿は、やがて静かに、深海の闇の彼方に沈んでいった。


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