【6】海への洞《うろ》
◇
こっちこっちと、洞窟の奥へ誘われる。岩の内はそこまで深くはないが、たとえ朝日が昇っていても届かない。明け方のいまはことさら闇が色濃く思えた。
けれど女性の歩みはよどみなく、ぐんぐんと、いっそ軽やかなほど先へ先へと進んでいく。滑らかな岩場なおかげで足裏は痛まず、逆にひんやりとした感触が心地よかった。たまにぴしゃりと水たまりを踏み抜くのは、潮が満ちるとここまで海が手を伸ばしてくるからだ。
そのせいか、波の音がやけに耳を打つ。時に轟くようにさえ聞こえて、妙に不安を掻き立てられた。
それを察してか、打ち消すように明るい声が洞窟内に響き渡る。
「もう少しよ、もう少し。大丈夫。あそこに飛び出た岩がふたつあるでしょう? あれを越えれば、すぐだから」
確かにふたつ、ぽこりと目を引く岩が、向かい合わせに突き出ている。そこに、しなびた縄がかけてあった。ずいぶんと古い荒縄のようで、圧し掛かる時の重さにあらがえず、ちぎれてしまっている。
ぐいっと、繋いだ手を一際強く彼女が引いた。まるで逃すまいとでもするかのように。
けれど、その時だ。
ばちりと、時矢の手のひらから雷のように閃く光が走り、ふたりの目を射抜いた。同時に、弾かれるように女性の身体が吹き飛ばされる。縄の渡された岩の方へと、強かに身体を打ち付け、女性は転がり倒れこんだ。
驚き見れば、繋いでいた左手のひらに、洞窟の闇をほのかに照らして、見慣れた神社の紋が浮かび上がっている。
なんだこれは、と、慌てる時矢の耳に、女性のうめき声が聞こえた。
だが、案じて駆け寄ろうとした時矢の行く手を、すっと伸びてきたしじらの袂が翻り、留める。
「巽……?」
思いもかけぬ姿に、時矢は目を見開いた。いつの間に、こんなところまで来たのだろう。
しかし、その驚愕を尋ねることはできなかった。
「謀ったわね!」
麗しく笑顔を湛えていた彼女の表情が、怒りに歪んで叫んだ。見間違いか、気のせいか、その双眸がぎらりと赤く光って見えた。
思わず身を引いた時矢を背にするように、さらに一歩、踏み出した着物の後ろ姿が、かすか口角を引き上げる。
「入り込んだ
ふっとその口元から嘲りの笑みが消える。冷ややかに、突き刺す視線が、女性を貫いた。
「去れ。ここは貴様の領域じゃない」
憤怒の相で、女性が唇を噛みしめる。その髪が風もないのに蛇のようにおどろおどろしく揺らめき――次の瞬間、苛立ちもあらわに、彼女は岩の後ろへ身を翻した。
とたんに彼女の姿は闇の向こうに掻き消え、ばしゃんと、どこからか音高く、なにかが飛び込んだような水音がこだまする。
そして――しん、と静寂が訪れた。さきほどまで、洞窟内で繰り返しさざめいていた波の音すら、もう聞こえない。
ひとつ、大きな吐息を落として、時矢を友の呆れた眼差しが振り返った。
「まあ、確かに、『開けるな』とは言わなかったがな」
「ご、ごめん……」
事態がいまひとつ把握しきれてはいなかったが、よからぬことをしでかしたのだけは理解できた。気まずげに身を小さくする時矢に、また、今度は柔らかな溜息がなだめるように落ちる。
「……いい。どうせ、アレに惑わされたんだろ。あの手合いは、人の心を引っ搔き回すのが得意だからな」
そう着物を纏った黒髪は、ちぎれた縄の元へ歩み寄った。切れ落ちた左右を拾い上げて結び、その上に懐から出した紙片を巻き付ける。神社の札のようだった。
「――巽。彼女はさ、いったい……」
――何モノだったの?
問うはずだった言葉は、振り向いた視線に、喉の奥に縫い留められた。涼やかな鋭い双眸が、知らぬ風合いで微笑む。そこに揺蕩った慈しみに似た色に、声を奪われた。
「お前は知らなくていい」
聞き馴染んだはずの声が、耳慣れぬ穏やかさで耳朶をくすぐる。
行くぞ、と、次にはいつもの調子で頭を優しくはたかれて、時矢は頷き、彼と来た道を引き返すしかなかった。
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