【5】かはたれどき

 ◇


 空が、早い夏の朝焼けに白みだしてきていた。


 あれから巽とまた就寝のあいさつを交わして、客間の布団に戻ったが、うつらうつらとまどろみはしたものの、あまり眠りはできなかった。


(なんだったんだろう……)


 左手を掲げ、ぼんやりと見上げる。障子越しの薄明りに儚い輪郭を描く手のひらは、なんの変哲もなくそこに広がっていた。


 その時、また風鈴の音が甲高く鳴り響いた。かたかたと障子を揺らし、生温い風が隙間から吹き過ぎる。


「ねぇ、そこにいるの?」


 外から、女性の声がした。障子に細い影が差す。長い髪と、麦わら帽子だ。時矢は跳ね起きた。


「すごく素敵な場所を見つけたの。島の南海岸端にある洞窟。そこを抜けた先で見る日の出が最高なの。一緒に行かない?」


 高いが心地いい声音は、うきうきと跳ねる。華やかな笑顔が見えるようで――こんな常識外れの時間の訪問でなければ、つられて心躍ったのかもしれない。


 だが、時矢は薄い布団を握りしめながら、思わず後ずさった。


「ねぇ――入ってもいいかしら?」

「そ、それは、だめ」


 ぞくりと冷たいものが背筋を滑って、時矢は反射的に返していた。障子の影がゆっくりと、首を傾ぐ。


「――どうして?」

「あ、あの洞窟は、近づくなって小さい頃から言われてる」


 たぶん求めた答えは違うのだろうが、咄嗟にはぐらかして、時矢は話題を少しずらした。だが、障子の向こうからは笑い声。ぼんやりと映り込む影が、ゆらりと長く揺れた気がした。


「君、もう小さくないでしょう?」


 手を添えられたのか、かたりと障子が鳴る。


「入れてくれなくてもいいわ。代わりに、そこを開けて。一緒に行きましょう?」

「いや、それも、」

「開けて」


 惑いながら紡いだ時矢の言葉を、柔らかに誘うようでいながら、どこか命じる響きが遮った。


「だって君、ずっと変わらないここでの暮らしが退屈で、島を出たはずなんでしょ? その時のこと、思い出して。言いつけ守って、ここでじっとしてても、何も変わらないわ。新しいことしてみないと、ずっと同じままよ?」

「ずっと、同じ……」


 そそのかす声が、甘く耳朶を撫で上げる。その最後の言の葉が、いやに胸裏をざわつかせた。


 握りしめていた布団が、するりと手のひらから滑り落ちる。


(そうだ……そうだった……俺は――)


 退屈な暮らしを抜け出したくて、ずっと前に島を出たのだ。ずっと同じ――繰り返す、のんびりと平穏で何事もない毎日に飽いてしまって、進学を理由に家族を説き伏せ、飛び出した。


 いつもと違うこと。新しい刺激。そういうものが欲しかった。


 この夏に、友に誘われこの島へ一時戻ってきたが、退屈に飼いならされていたのは確かだ。そしてそれを崩してくれた彼女との出会いに心躍ったのは、まやかしではない。


 気づけば、ふらりと時矢は立ち上がっていた。覚束ない足取りで、たれどきの光に白む障子へ――そこへ映る黒い影へと歩み寄る。


 ――ねぇ、開けて、と囁く声にひかれるままに、時矢の手は障子を開いた。


「行きましょう」


 にんまりと、赤く色づく唇を引き上げて、ご満悦の笑顔がそこにはあった。


 長い黒髪が、まどろみの薄明にしなやかに舞う。左手を細く華奢な白い手が、思いもかけぬ強い力で掴んで、時矢を引っ張った。


 そのまま彼女は、時矢を連れて縁側を飛び降り、走り出す。


「急ぎましょう。夜が明けきらないうちに」


 裸足のままのはずなのに、足は痛みもなく軽やかで、見知っているはずの景色が、それと認識できぬまま風切るように過ぎていく。


 朝のおと ないを待つ、闇とも光ともつかぬ灰色の空気。それに飲まれ、島のなにもかもが、色も形もなくしたようだった。


 見上げれば、遙か空の彼方には有明の月。まだ熱を帯びる前の朝の風には、夏の香りの内に、海の息吹が混じっていた。


 気づけば、時矢が立つ場所は、もう海岸だった。白く滑らかな砂が、吸い付くように足裏をくすぐる。息を切らす間もなく、時矢はそこに辿り着いていた。


 巽の家は山のそば近く。本来なら、自転車でも数十分はかかる。


 有り得ないことだった。それに、不審に思うべきことは、他にもたくさん溢れている。けれど――


「なんで、俺を誘ってくれたの?」


 それらは疑問として芽吹かずに、時矢からこぼれた戸惑いは、ただ、彼女が手を取る理由を尋ねた。


「君、本当に気づいてないのね」


 おかしそうに華奢な肩が揺れ、白いワンピースが裾をひらめかせて振り返る。その視線が舐めるように、海辺にたたずむ時矢を見つめた。


「ほっそりか弱く見えるのに、肌艶は健康的。蜂蜜みたいな珍しい髪と目。天が丹念に心いれたとしか思えない、綺麗な顔かたち」


 満足げに時矢を眺め渡し、彼女は最後にひとつ、大きく頷いた。


「ええ、やっぱり、とっても素敵よ!」


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