【4】丑三つの夜



 女性の来訪を、時矢は戻ってきた巽には伝えられなかった。勝手を詫びねばと咎めはしたのだが、口に出来なかったのだ。


 そのまま夕飯を済ませ、汗を流して――と、いつもどおりに過ごしているうちに、話す覚悟を決められぬまま、夜も更けてしまった。


 とはいえ、家の中にまで上げたわけではない。ちょっとしたことだ、と、開き直って、明日にしようと時矢は就寝を決め込んだ。不思議と妙に、眠たかったのもある。


 まどろむ間もないままに、時矢は客間に敷かれた布団に横になると、すぐに夢のない眠りに落ちていった。


 ――それから、どれぐらい経った頃だろう。


 喉の渇きに、時矢は目を覚ました。


 あたりは静謐。とうに深まりきった闇の中に、万物が眠っている。夏独特の湿りけあるぬるい空気が、ぼんやりと起き上がった時矢の頬をゆったりと撫ぜた。どことなく、潮の香りがする。風鈴は、揺れていない。


 それを訝るほど目覚めきらぬ頭のまま、時矢はのそのそと起き上がり、台所を目指した。


 喉が、乾いていた。


(水……水が、ほしい……)


 暗い廊下を進み、明かりを点けるひと手間さえ惜しんで、手近なコップを手に取り、シンクの蛇口を捻る。


 冷蔵庫にも他の飲み物はあると分かっていたが、水が、飲みたかった。


 ガラスのうちに注ぎ落ちる水音が、波間のさざめきのように耳を打つ。いまだ半ば夢心地なのか、虚ろとした時矢の眼差しは、溢れて零れるまで水が満ちるのをぼんやりと見守っていた。


(――海の、匂いだ……)


 蛇口から流れ出てきているのに、おかしなものだと、時矢はうっそりと微笑んだ。


 溢れる水へと、唇を近づける。喉が渇いていた。早く口にしなければ、干上がってしまう――


 口先が、ふちからこぼれる水に触れる、一瞬手前。首を絞めるように後ろに引かれて抱きしめられ、と同時に手のうちのコップをはたき落された。


 ガシャンと耳をつんざく音をたてて、コップが粉々に砕け散る。蛇口から流れ出たままの水流が、ジャアジャアと鼓膜を揺する雨のような音に打たれて、はっと時矢は、己を抱き寄せた相手を振り向いた。


「たつ、」

「招き入れたな?」


 咎めるに似た口調。見た覚えのない友の明確な敵意が、流れ落ちる水へ注がれていた。


 言葉を返せずに、時矢は固まる。が、すぐに、時矢を抱きしめていた腕の力が抜け、ひとつ、安堵交じりの溜息が耳元に落ちた。


「……いや、俺の油断だな。わりぃ……」

「いや、俺の方こそ……?」


 訳が分からないながらも、どうもなにかをしてしまったらしい。詫びてはみたが、時矢はいささか混乱していた。


 そもそも、どうして自分は、こんな真夜中に台所で友人に抱きしめられているのだろう。いつの間にここまで来たのか、なにをしていたのか、まったく覚えていなかった。


 おもむろに時矢を放して、巽が蛇口の栓をきつく硬く閉める。そのまま振り返ると、彼は時矢の左手をとった。


「道は塞いだが、しつこそうだ」


 ぶつぶつとなにやら耳慣れない響きで唱えながら、巽は時矢の手のひらに指を滑らせた。三角形を連ね重ねるように、なぞっていく。彼の神社の紋のようだ。


 それにしても、柔らかく撫でる指先がくすぐったい。だが、思わず引っ込めようとした手を、いやに強く引き留められた。


「――入っていいかと聞かれても、次は許可するんじゃないぞ」


 夜に溶け込むような黒い双眸が、念を押すように言い含める。その気迫に否を申し出られるはずもなく、ただこくりと、時矢は気圧されるままに頷いた。


 少し開いた台所の窓から、吹き下ろした山風が首筋を冷やりと撫でて通り過ぎていく。


 風鈴の音が、ようやく聞こえた。


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