【4】丑三つの夜
◇
女性の来訪を、時矢は戻ってきた巽には伝えられなかった。勝手を詫びねばと咎めはしたのだが、口に出来なかったのだ。
そのまま夕飯を済ませ、汗を流して――と、いつもどおりに過ごしているうちに、話す覚悟を決められぬまま、夜も更けてしまった。
とはいえ、家の中にまで上げたわけではない。ちょっとしたことだ、と、開き直って、明日にしようと時矢は就寝を決め込んだ。不思議と妙に、眠たかったのもある。
まどろむ間もないままに、時矢は客間に敷かれた布団に横になると、すぐに夢のない眠りに落ちていった。
――それから、どれぐらい経った頃だろう。
喉の渇きに、時矢は目を覚ました。
あたりは静謐。とうに深まりきった闇の中に、万物が眠っている。夏独特の湿りけあるぬるい空気が、ぼんやりと起き上がった時矢の頬をゆったりと撫ぜた。どことなく、潮の香りがする。風鈴は、揺れていない。
それを訝るほど目覚めきらぬ頭のまま、時矢はのそのそと起き上がり、台所を目指した。
喉が、乾いていた。
(水……水が、ほしい……)
暗い廊下を進み、明かりを点けるひと手間さえ惜しんで、手近なコップを手に取り、シンクの蛇口を捻る。
冷蔵庫にも他の飲み物はあると分かっていたが、水が、飲みたかった。
ガラスのうちに注ぎ落ちる水音が、波間のさざめきのように耳を打つ。いまだ半ば夢心地なのか、虚ろとした時矢の眼差しは、溢れて零れるまで水が満ちるのをぼんやりと見守っていた。
(――海の、匂いだ……)
蛇口から流れ出てきているのに、おかしなものだと、時矢はうっそりと微笑んだ。
溢れる水へと、唇を近づける。喉が渇いていた。早く口にしなければ、干上がってしまう――
口先が、ふちからこぼれる水に触れる、一瞬手前。首を絞めるように後ろに引かれて抱きしめられ、と同時に手のうちのコップをはたき落された。
ガシャンと耳をつんざく音をたてて、コップが粉々に砕け散る。蛇口から流れ出たままの水流が、ジャアジャアと鼓膜を揺する雨のような音に打たれて、はっと時矢は、己を抱き寄せた相手を振り向いた。
「たつ、」
「招き入れたな?」
咎めるに似た口調。見た覚えのない友の明確な敵意が、流れ落ちる水へ注がれていた。
言葉を返せずに、時矢は固まる。が、すぐに、時矢を抱きしめていた腕の力が抜け、ひとつ、安堵交じりの溜息が耳元に落ちた。
「……いや、俺の油断だな。わりぃ……」
「いや、俺の方こそ……?」
訳が分からないながらも、どうもなにかをしてしまったらしい。詫びてはみたが、時矢はいささか混乱していた。
そもそも、どうして自分は、こんな真夜中に台所で友人に抱きしめられているのだろう。いつの間にここまで来たのか、なにをしていたのか、まったく覚えていなかった。
おもむろに時矢を放して、巽が蛇口の栓をきつく硬く閉める。そのまま振り返ると、彼は時矢の左手をとった。
「道は塞いだが、しつこそうだ」
ぶつぶつとなにやら耳慣れない響きで唱えながら、巽は時矢の手のひらに指を滑らせた。三角形を連ね重ねるように、なぞっていく。彼の神社の紋のようだ。
それにしても、柔らかく撫でる指先がくすぐったい。だが、思わず引っ込めようとした手を、いやに強く引き留められた。
「――入っていいかと聞かれても、次は許可するんじゃないぞ」
夜に溶け込むような黒い双眸が、念を押すように言い含める。その気迫に否を申し出られるはずもなく、ただこくりと、時矢は気圧されるままに頷いた。
少し開いた台所の窓から、吹き下ろした山風が首筋を冷やりと撫でて通り過ぎていく。
風鈴の音が、ようやく聞こえた。
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