【2】夏の庭
◇
「溶けてる」
「うん、だから……ごめんって」
熱気をさらに煽るように蝉の鳴き声が響きわたる。それなのに、突き刺す視線の冷たさがやわらぐ気配がないがないのは、なぜだろう。時矢はそろそろと、視線を隣の彼から、庭先へと逃した。
緑陰が心地よい影をさす縁側。広い庭には生き生きと蔓を伸ばした
「普通に買ってきて、いままでこんなことなかっただろ? なんかあったのか?」
その美しい庭の主が、そう溶けかかったアイス片手に首を傾げる。
冷涼な一重の双眸と、凛とした背筋正される端正さを持つ青年だった。すらりと背が高く、少し長い硬めの黒髪を後ろに束ね、藍のしじらを着流している。年に似合わず着慣れた様子と、透けた布の質感が艶っぽかった。さすが神主の息子なだけある。和装の板につき方が違う。
「いや、ちょっと帰り道で、観光に来たっていう女の人に会ってさ」
珍しく出くわした島外からの来訪者のことを、時矢は友に話して聞かせた。
「先月の夏祭りに間に合うように来られれば良かったのにね。その方が、いい写真、たくさん撮れただろうに」
同じく溶けかけたバニラアイスを、ふやけたモナカの皮ごと齧って時矢はぼやく。白いうなじをうっすら汗が伝った。
七月の終わりは、この島が常と違い活気づく。神輿が島のうちを練り歩き、社には数限りない風鈴が、無数の提灯と共に飾られるのだ。それが奏でる爽やかな音色とともに、夜ともなると、山の社を柔らかな灯りが照らし出す。
それは遠目にも鮮やかに映える光で、山の下から眺めれば、夜の衣に眠る山のうち、社の周りだけ、ふわふわと朱色が妖精のように揺れて見えた。星の子どもが降りてきて、ささめき合っているようなその光景は幻想的で、時矢の数少ない、この島の好きなところだった。
「あれは生で見ないと、綺麗さが伝わらないだろ」
残念そうな時矢の響きにつれなく返して、着物に落とさないよう器用に、柔らかくなってしまった棒つきの氷菓を黒髪が齧る。
「まあ、確かに」
写真に撮れば、あの繊細な灯りの儚さは、削ぎ落されて消えてしまうだろう。風鈴の音は、そもそも残るべくもない。
「そういや、
なにせ、彼は祭りを行う神社の息子だ。のんびり山の下で過ごしてなどいられない。
「――なに? お前、俺と一緒に見たかったの?」
「いや……他に一緒に見る相手もいないし、と思ったんだけど……なんかこの年になってそれも虚しいか……」
「んだよ、誘っといてつれねぇな」
夢うつつの闇と光の戯れを、寄り添い見つめ合う関係でもないのだ。ふいに虚無を覚えて遠くを仰いだ時矢に、そうなると分かっていたのか、言葉とは真逆に楽しそうに巽は喉の奥で笑い声を転がした。
「しかし、祭り云々は置いといて…その外から来た女、得体が知れないな。だいたい知り合いって誰なんだ?」
「そういえば……そうだね」
この狭い島では、大方みんな顔見知りだ。変わった話があれば、望むと望まないとにかかわらず、たいていすぐに耳に入る。だが思えば、彼女のことは、どこかの誰かにそんな知り合いがいるという話も、遊びに来たという噂も、聞いた覚えがなかった。
「あんま、関わり合うなよ」
「巽はすぐそうやって外者を嫌う」
棘のある言い様に、時矢は苦笑した。この友は、外者や変化を好まない。
「いまは僕も、外者だよ?」
「……お前は、違うだろうが」
少し意地悪く言ってやれば、黒い双眸は溜息交じりにこぼして、時矢を見上げた。梢の落とす緑の影が、その中で揺らめいている。
「それに……そいつのせいで、俺のアイスが溶けたんだろ」
「あ、そこに戻る?」
応える代わりに、巽はふてくされた風にアイスを口に運んだ。本来ならしゃりりと清涼感ある歯ごたえを楽しめるはずのそれは、確かにふにゃりと持ち味をなくしてはいた。
けれど、美味しいのは変わりないようで、巽の舌先が、ちろりとその口角を舐めたのが見えた。好きなものを食べた時の彼の癖だ。
それを見て取って、なお不服げな顔を崩さない彼を時矢は笑う。
「今度はちゃんと、溶けないうちに買って帰るよ」
「ああ、今度はちゃんと、いつもどおりな」
お前のもだいぶ溶けてるぞ、と指摘され、慌てて時矢は、したたりかけたバニラごと、モナカアイスにかぶりついた。
山から下りてきた風が、ふわりと一瞬、涼を与えて吹き去っていく。軒先の風鈴が軽やかな音をたて、縁側から下ろした時矢の裸足の足裏を、ちょうど足元まで伸びていた鉄仙の蔓が、風に揺られて小さくくすぐった。
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