ウロボロスの夏

かける

【1】島の外から

 突き抜けるような青空が、押し迫るように広がっている。そそり立つ大きな雲が、万物を射ぬきゆく日差しを全身で反射して、白銀に輝いていた。眼前には緑鮮やかに幾重も重なる山々。されど耳元には、遠く潮騒の音が響いてくる。山を背に、ぐるりと首を巡らせれば、眩く光る海原が遠く見渡せた。


 ちょうど時矢ときやが差し掛かった道の脇。そこから伸びる大橋の下を流れる川が、ゆるりと島を巡って、流れ着く先だ。


 大橋、といっても、大した長さも幅もない。ただ過疎化が進むこの小さな島のうちでなら、一番大きいというだけだ。


 人も減ったうえ老人ばかりが多く、時矢のような青年と呼べる齢の者は、この島にはあまりいない。だから、一陣。強い風が吹き抜けた後、ふいに耳に届いた呼びかけに時矢が驚いたのも、無理はないだろう。


 それは、若い女性の声だった。


「ごめんなさ~い。帽子が飛んで行っちゃって」


 見れば、ちょうど時矢がいるのと反対側。橋の向こうに、いつの間にかその姿はあった。


 時矢と同じ、十代の終わりか二十代に差し掛かったぐらいの女性だった。長い黒髪に、遠目でも分かる透けるように白い肌。まるで淡雪のようだ。遮るものなしでは、確かにこの陽射しは堪えよう。


 時矢は、言われてようやく気づいた足元の帽子を拾い上げた。つばの広い、可憐なつくりの麦わら帽子。先ほどの風であおられたに違いない。


「拾ってくれて助かる! そっちに取りに行ってもいいかしら?」

「どうぞ~」


 わざわざ律儀に断らずともいいのにと、時矢は笑って女性へ返す。


 真っ白なワンピースの裾を躍らせながら、橋を走り寄ってきた彼女は、時矢の手から帽子を受け取ると、嬉しげに満面の笑みを湛えた。


「ありがとう!」


 釣り目がちの人懐こい大きな瞳。ノースリーブからのぞく肩は華奢で細いが、背丈は時矢とそう変わらなかった。時矢も別に小柄な方ではないから、女性としては長身の方だろう。そう、足元のぺたんとしたサンダルへ目を落として思う。


 それにしても、靴の有様もだが、手荷物のひとつもなく、ずいぶんと軽装だ。このあたりでは一度も見たことのない顔であるが、どこから来たというのだろう。


「観光?」


 年の近さと、どこか漂う打ち解け切った空気から、つい初対面というのに、気軽に時矢は問いかけていた。それに彼女は気を悪くした風もなく、むしろ楽しげに肩を揺らして頷く。


「そう。ちょっと知り合いのところに泊めてもらって。素敵なモノとりに来たの」

「ああ、写真? でも素敵なものかぁ。ここ、ほんと何にもないからなぁ」


 言って、時矢は苦笑した。吹き抜ける風が、その首筋にかかる薄茶色の髪をくすぐるように撫でていく。空から降りかかる陽射しのきらめきを纏って、それは琥珀糖のように涼やかに揺らめいた。男性としては線の細い整った横顔が、山の中腹を見つめ、指さす。


「あれぐらいかな? 山にある神社」


 濃く青々とした緑に包まれた一角に、ぽつんと朱色の点が、花のように鮮やかに見えた。


「あれ、鳥居なんだ。あのあたりにこの島の神様のお社があってさ。そこそこ古いけど、よく手入れもされてるから、いい感じに写真映えすると思うよ」

「ふぅん……」


 女性はちらりと、その朱色をどこか興味薄く見やって、すぐに時矢の顔を見つめ上げた。きらきらと陽光を宿した瞳が、わずか青みがかって、海のようだ。


「詳しいのね。この島の人なの?」

「元、ね」


 時矢はちょっときまり悪そうに微笑んだ。


「高校から、本土に一家で引っ越しちゃったんだ。いまは大学の夏休み利用して、ちょっと戻ってきてるだけ。友達がまだこの島にいるから、そいつのところで厄介になってるの」

「へぇ……そうなんだ」

「どうしても、住むにはちょっと退屈で、不便だからね」


 そう、時矢は手にしていた小さなビニール袋を掲げた。中にはアイスがふたつ、放り込まれている。


「たいした娯楽もないし、都会じゃコンビニですぐ買えるようなものも、たった一軒の店まで結構歩いて買いに行かないといけないし。ま、そういう、のんびりしたところが、良さではあるんだけどさ」


 溶けてないかな、とちらっと中身を気にしながら、アイスの帰りを待っている友人の姿を時矢は思い出した。思いもかけず、長話になってしまった。こんな炎天下、彼女をいつまでもここで引き留めるのも配慮がない。


「少しの間楽しむには、いい島だよ。素敵なもの、撮れるといいね」

「そうね。頑張るわ!」


 時矢の声掛けに、女性は細い両腕をぐっと両脇で小さく掲げて、おどけた様で意気込みを示した。花咲くように、その綺麗なかんばせを笑みが彩る。


 それにくらりと、頭の片隅が痺れたのは、少し夏の太陽を浴び過ぎたせいだろうか。


 確かなことは、時矢には分からなかった。ただ、耳元に遠く、潮騒の音が鼓動のように響いていた。

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