第21話 天地崩壊
「天と地は私たちが補うから、あなたは海のようになりなさい。」
まだ父がいたころ、興味本位で両親に自分の名前の由来を尋ねてみたことがあった。海になれという言葉の意味はよく分からなかったが、両親が自分を支えるためにこの名前を付けてくれたことには温かさを覚えた。
・・・
「本家の子がこんなことをして!なんてはしたないんでしょう!!」
小学校に入学したばっかの頃だったか、親の付き合いで幼いころから親しかった
俺は本家とやらに属していて、
小学3年生ぐらいのことだったか、父の葬式を終えて数日経ったころ、普段立ち入ったことのないお屋敷の奥へ母と共に呼び出された。普段生活する外屋敷と違って、内屋敷は神聖さを感じる静けさがあった。内屋敷の一室へ入ると、おばさんと厳しそうなおじいさんがいた。非日常的な場の雰囲気に自分のことでいっぱいいっぱいになった。だが、そんな自分を不安にさせまいと無理に明るく振舞っている母さんのことを見て、そちらのほうが気になるようになった。
おばさんはつらつらと母さんに話し始めた。「外様」、「大地さん」、「将来」、「責任」、「力不足」。ある程度知能には自信があったが、おばさんの話す言葉のほとんどを理解することができなかった。けれど、何とか拾えたワードから母さんが責められていることは分かった。どうにか母さんの力になれないかと目まぐるしい会話にかじりついていたら、話の流れが変わった。
「これ以上起きてしまったことをとやかく言っても仕方ありませんね。今後の話をしましょう。」
「はい。」
「まず、あなたたちはこれまで通りこの屋敷で生活していただいて構いません。」
「ありがとうございます。」
おばさんのその言葉を聞いて、母さんは胸をなでおろすように感謝した。その様子を見て、こちらも気持ちが落ち着いた。
「ただし、2人には本家での教育を受けてもらいます。」
俺にはその言葉の真意が分からなかった。けれど、母さんが明らかに動揺するので、ただ事ではないと感じた。
「ちょっと待ってください。私はともかく、
「確かに本家の教育と学校との両立は過酷でしょう。ですが、一般のご家庭でも塾と学校を両立しているところがあるのです。何も
「ですが、塾とこれとでは話が違います。」
「何も違いません。より良い人間になるための教養を得るために必要な苦労です。」
「今でなくとも良いでしょう。」
「あなたは知らないでしょうが、こういうのは早いうちにやるのが効果的なのです。」
「だから、今このタイミングでその判断をさせることは酷だと言っているんです。」
「このタイミングだからこそ、別のことに集中させたほうが良いのではないですか?」
固いおばさんの反論に、母さんは上手く言い返せないでいた。母さんが、自身のためでなく、俺のことを思って戦っていることを察した俺は、ただ母さんの助けになりたい一心で言った。
「俺、やるよ。」
「
「大丈夫だよ。俺、母さんが思ってるよりも強いんだから。」
「でも…。」
「それに、俺にはいつも父さんと母さんがついてるから。だから、心配しなくて大丈夫だよ。」
「
「話は決まったようですね。では、さっそく
そう言って、おばさんが俺に提示してきたのは2つのことだった。1つは、一人称を俺以外の慎ましいものに変えること。2つ目は、野蛮な行動を避けること。2つ目に関しては、サッカーの際に使う技のおぞましさをおばさんが嫌ったことによるものだった。母さんは「行き過ぎた教育です」と、おばさんに突っかかったが、俺…僕が「大丈夫」と言ったせいで口をつぐんだ。
長いようで短かった話し合いを終えいつもの部屋へと帰る道の途中、母さんは俺…僕に1つお願い事をした。
「辛くなったらすぐに言うのよ。お願いね。」
あまり自分の力が信頼されていないのかもと思った俺は、…僕は、大げさに明るく言った。
「僕、大丈夫だよ!」
母さんが浮かべた笑みは、少し悲しそうだった。
・・・
「嫌だ!!」
「おい!
それを認めたくなかった
「入れて!!」
「ダメです。」
「入れて!!!」
「ダメです。」
「う~~」と、犬のように低く唸る
「何の騒ぎですか。」
「すいません。ちっちゃい子が中に入りたいと言って聞かなくて。」
「全く、門番がそんな体たらくでどうすのですか。…おや?あなたたちは…。」
俺たちのことを知っている様子のおばさんは、ため息をついた後お屋敷へと戻っていった。そのおばさんと代わるように
「2人ともどうしたのさ?」
「
「え?確かに忙しくはなる思うけど、遊べなくなることはないんじゃないかな?」
「そ、そうなの?」
「大丈夫だよ。俺…僕はすごいからね。」
「
「もちろん!」
・・・
その約束を交わしてから1年。俺たちは未だに
いてもたってもいられず、屋敷や
しかし、ことはそううまくいかなかった。分家の中でも末端も末端に位置する俺たちの家は、屋敷の中に入るどころか屋敷の人と連絡を取るのすら難しかった。幼いころは当然のように
想定よりもずっと大きくなってしまった問題に頭を抱えながら過ごしていたら、分家で最も勢いのある家の人がうちへ来た。その人はお父さんの古い友人らしく、お屋敷入りのついでに家に寄ったらしい。
「俺も連れて行ってください。」
俺の家族は、突然何を言い出すのだと困惑していた。ただ、その人だけは俺のことを見極めるように目を合わせてきた。
「何のために屋敷に入るんだ?」
答えは決まっていた。
「生きやすい世界を作るため。」
そしていつか、また3人で楽しくサッカーをするため。
・・・
屋敷という化け物が自分を監視しているようだ。
高校1年生の夏、
お屋敷生活の始まりは、無力さを知ることから始まった。漠然とした全能感で一歩を踏み出したが、その全能感も最初の一か月で完全に消え去った。自分のための試練であれば乗り越えられたかもしれない。無力を知ったうえで上を目指せたかもしれない。けれど、この試練は母さんのために乗り越えなければいけない試練だった。母さんの助けになれないことが、何よりも無力さを痛感させた。「気持ちが嬉しいから」と、母さんは僕のことを慰めてくれた。でも、1人では何も為せない自分の無力さを受け入れることはできなかった。
次に、失敗の恐ろしさを知った。ある日、母さんがおばさんに叱られているのを見た。盗み聞きをしてみると、僕が屋敷での授業中にした失敗について話していることが分かった。授業の時はおばさんはいなかったから、担当の先生から報告を受けたのだろう。話の続きを聞いていると、日常生活での些細な失敗も告げ口されていることが分かった。まるで人格者のように接してくれていた屋敷の方々が、自分の失敗を知らせるための密告者だったことを知り、人の視線が怖くなった。それと同時に、母さんに余計な苦労をかけていたことに対する悔しさが湧いた。「無理しないでね」と、母さんは言ってくれたが、これ以上母さんに負担をかけるなど自分が自分を許さない。母さんには苦労を悟らせず、屋敷の方々には隙を見せない、地雷原の上で平静を装うような生活は6年間続いた。
最後に、自分を知った。いつ頃だったかは忘れたが、
ある日、日常となった叱責を受けた後外廊下を歩いていると、
脳が揺れるような気分だった。その理由を2人が話しているようだが、一切頭に入ってこない。きっと悪い気など一切無いのだろう。けれどこの時の僕には、「あなたはもういらない」という意味に聞こえた。僕が目指していた母さんを助けるポジションには
・・・
何事も無かったかのようにその場を後にした僕は、自室で棒立ちになっていた。ふと、棚の上にある卓上鏡が目に入った。そこに映る自分は、張り付けたような笑顔を浮かべていた。理想としていた自分の姿とは程遠い現実を見て、ふつふつと感情が湧いてきた。
「お前は誰だ。」
そう言葉が漏れた後は、自分が自分でないかのようだった。
「お前は誰だ。」
卓上鏡に映る中身の無い自分を問い詰めるように歩を進める。
「お前は誰だ。」
一体お前は何を為した。
「お前は誰だ。」
俺ならやれた。
「お前は…」
「
部屋の外から聞こえた
「今行く。」
それが失敗だった。指に引っかかった鏡が棚から落ちそうになる。ギョッとし、慌ててそれを阻止しようとしたが、逆に鏡を下方向へ加速させてしまった。
ガシャーン
屋敷中に響きわたってしまうのではないかと思うほどの大きな音を響かせながら鏡が砕け散った。五臓六腑にガラスをこすり合わせるような悪寒が走った。
吸った息が熱を帯びてるのに気づいたとき、引きつった口角をなぞるように熱いものが流れ落ちた。
「あれ?」
手の平に絶え間なく落ちてくる水滴が涙だと気づくのには、そう時間はかからなかった。自分が泣いているということに焦りが出た。
止めようとすればするほど溢れ出る涙で視界が歪んでいく。今まで抑え込んでいた言葉が、嗚咽となって呼吸を乱す。嗚咽が慟哭へと移り変わるにつれ、意識が内側へと向かっていった。もはや理性など無く、ただ突っかかっている言葉を引きずり出すことしか頭になかった。体の内側でどんどんと膨らんでいく感情が、全身を床へと押し倒した。押し付けてくる重圧と戦うかのように、床に頭をこすりつけ、散らばるガラス片ごと床を握りしめた。
ただ、人として認められたかった。そのたった一滴の想いは、体という枠では収まりきらないほどに膨張し、ついには全身から海があふれ出すかのような絶叫となって曇天に轟いた。
サー
散り散りになった五感が最初に捉えたのは、室内で聞こえるはずの無い雨の音だった。瞬間、自分がしでかしたことを知り、体が跳ね上がる。誰かが、自分の体をゆすっていたような気がする。背後から、ドアがあるほうから。確信にも近い予感を感じながら振り返る。そこには
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