第20話 ダイバー

 初動の激突からしばらく、両者の均衡はギリギリのところで保たれていた。じょうは何度も大技へ移行することを試みたが、相手の妨害にあってうまくいっていなかった。じょうたちに技の構えを取らせない作戦の要となっていたのは、まことかけるきずな、そして神住かすみの4人だった。じょうたちが攻勢に出る瞬間の機微にまことが間髪入れず突っかけてきて、それを援護するように他の3人が飛び込んでくる。

 

 最初の内はまんまとその作戦に絡めとられた。だが、前半半分を過ぎたあたりから、相手選手1人の暴走によって、場が混乱し始めた。神住かすみが、なりふり構わずボールを保持している相手のもとへ突撃するようになった。にもかかわらず技を出せなかったりする。たいそう頑張っているのだろうが、こちらとしては大した圧ではないし、なんなら味方の輪を乱してこちらにチャンスを与えてくれているまである。


「目も当てられないな。」


 試合前とは異なり、神住かすみの心の海は、海面だけを写していた。もはや海よりも灼熱の空と砂浜の割合のほうが大きいぐらいだ。海中の景色を恐れ、自分を痛みつけることでその臆病さを贖った気になっている痛々しい景色がそこにある。そんな神住かすみを、じょうは見捨てることはできなかった。



・・・



 海人かいじん じょうはダイバーだった。海に潜る者という意味ではなく、心理学的な意味で。彼は、人の心模様が海として見えてしまう性質を持っていた。今まで見てきた海には、シャチとアザラシが共存している、危なげながらも慈愛に満ちた海や、ペンギンしか存在しない平和で排他的な海があった。

 

 そんな異能を授かったじょうであったが、大した問題はなく日常生活を過ごせていた。自分が見ている世界と友人たちが見ている世界が違うことによるズレに苦しんだことはあったが、人の心が見えすぎて他者から恐れられたりといったトラブルは無かった。彼は良い人たちに恵まれていた。善意には善意を、悪意には悪意を返してくれる良い人たちに恵まれた。自分の行動が他者にとって善か悪かを知ることができた彼は、好奇心に満ち溢れながらも他者を尊重できる好青年へと成長していった。

 

 はたから見れば毎日を充実して過ごせているように見えるじょうにも、1つだけ根深い悩みがあった。人智を超えた力は、対外的な不利益をもたらさなかった代わりに、終わることのない己との戦いを課した。じょうは、睡眠時に己の心へと潜らざるを得なかった。寝付いた直後は、その日経験した海がじょうを豊かな夢の世界へ誘ってくれた。だが、眠りが深まるにつれて周囲から他者の海が消えていき、己の海と向き合わざるを得なくなった。体が沈んでいくさきの深淵から目をそらし、自分の海の豊かさに目を向ける。現代を生きる生物はもちろん、古代から未来、宇宙生命体のような生物までが所狭しと息をしているこの海は、我ながら豊かな海だと思う。日の光が差し込む部分だけでなく、真っ暗な深海までびっしりと生命の息吹を感じられる。


 それでもじょうが沈む先に目を向けられないのは、そこに深海すらも浅い自分の心の深淵があるからだった。そこには、冷たい暗闇と、音とは違う、既存の言葉では表現できないような低いうねりがあった。自分の心であるのに、何一つ自分のものではない不気味さが、恐怖と欲を掻き立てた。きっとこの力を持ちえない人間には到達しえない深淵の領域。そこへ手を伸ばしたら更なる力を得ることができるような予感があった。ただ、それと同時に大事なものを失いそうな予感もあった。何よりも怖かったのは、大事なものを失う可能性があるにも関わらず、自分の好奇心が不意に深淵に手を伸ばしてしまいそうなことだった。それ故に、じょうは強い理性で深淵から目をそらした。



・・・



「どうした。」 


 ある日、うまく寝付けずに布団から抜け出し居間へ向かったら、親父がテレビでサッカーを見ていた。普段はテレビの奥の人間の海はぼんやりとしか見えないが、その日は違った。絶望的な点差のなか、1人の男が覚醒した。その男はみるみるうちに点差を詰め、最後には逆転を果たしてしまった。後になって知った話だが、これは親父が録画していたもので、今でもなお伝説として語られている一戦だそうだ。そんな情報どころか、サッカーすらやってなかった俺でも分かるほどに、それは劇的なものだった。一寸先も見えないほどに視界を覆う豊かな海が次々と姿を変えながら押し寄せてきた。それは俺の心の深淵すらも覆いつくすほどに、衝動的で、泥臭く、雄大だった。呆けたように立ちすくんでいる俺に、親父が一言言った。


「惚れたか。」


「…あぁ…そうだな…。」


 それを認めることの気恥ずかしさなんてものは一切なく、心の底から言葉が出た。


「親父。」


「なんだ。」


「俺、デッカイ漢になってくるわ。」


「そうか。」


 噛みしめるように微笑んだ親父は、何かを思い浮かべるようにそっと目を閉じながら応えた。そのときの親父の心境は、海をまじまじと見ずとも分かった。



・・・



 あの日から3年。紆余曲折ありながらも、俺は蒼海そうかい高校の部長として全国大会出場を掴み取った。出発前の事前確認をしているとき、親父が潜水ゴーグルみたいなごついサングラスを渡してくれた。


「これは?」


「あっちは人がたくさんいるからな。」


 俺の目のことを心配してくれたのか。こんなの見たことないから特注品だろう。激しいスポーツとはいえ過剰なごつさのゴーグルを見て、口下手な親父が口下手なりに一生懸命俺のことを考えて注文してくれたことが察せられた。本当に、最後まで支えてもらってばっかだな。俺は貰ったゴーグルを首にかけて、出発の準備を整えた。


「じゃ、行ってくるわ。」


「あぁ、行ってこい。」



・・・



 親父だけじゃない、今フィールドにいる仲間も、死闘を繰り広げたライバルたちも、俺が出会ってきた全ての人が俺を支えてくれている。だから、1人で抱え込んでるだけのお前は、万が一にも俺に勝てることはない。


 前半ラスト。DFの俺のもとへ、孤独なバーサーカーが襲い掛かってきた。自分を追い詰めた甲斐があったらしく、DFが苦手な俺の仲間を次々になぎ倒していく。鎖を引き千切らんとする巨人の熱は周囲の空気を歪め、今日一番の威力をもってゴールを奪い取る気迫が感じられた。だが、それをもってしても俺のほうが強い。一瞬にしてせりあがった水の城壁は、内部の生命と共に留まることを知らずに天へと伸び続ける。バベルのようにせりあがった海壁が示すのは、無数の命とその記憶の神々しさ。


大海の記憶バベルダイブ


 孤独な巨人に、神の裁きが落とされた。



・・・


 前半終了のホイッスルが鳴った。


 神住かすみ 天地あまつちは、じょうの技の余韻で降りしきる水滴を呆然と眺めていた。


 これでもダメなのか。どうしたら、自分は前に進める。理性は前へ進むことを理解している。感情も進めと叫んでいる。なのに、なぜ俺の体は、俺が力を使うことを許してくれないんだ。


 そう苦悩する神住かすみのもとへ、じょうがやってきた。


「答えが欲しいか?」


 心を見透かしたかのような言葉に、思わず顔を上げてしまう。ただ目が合ったというだけなのに、海人かいじんという男はオーバーに喜んで見せた。そして、一転静かな笑みを浮かべると、なんの脈絡もなく変な質問をしてきた。


「海ってなんであんなにでかいと思う?」


 意味も分からなければ答える理由もない問いに、無言で返す。それを気にした様子も無く、海人かいじんが続けた。


「海はな、一番低いところで全部を受け止めてるからでっかいんだぜ。」


「…俺はそれに値しないって言いたいのか?」


「おいおい、自分の妄想と会話しないでくれよ。俺はな、DFは海みたいにでっかくなれるポジションだと思ってんだ。GKがどんと構える山なら、DFは海。俺もあんたも他の誰だってそうなれる。」


「…。」


「だからな、あんたの仲間の顔も見てやれよな。」


 無我夢中に足掻くことで精いっぱいで、仲間の顔どころか姿すら意識して見ていなかった。海人かいじんが、その行為を非難するでもなく、精一杯気を使って言ってくれていることからも、自分がどれだけ痛々しくプレーしていたかが分かる。


「すんごい気迫だったぜ、あんたのお仲間。あんたが乱した均衡を保つ為に鬼気迫るって感じ。」


 「まさか気合の面で上回られるとは思わなかった」と、素直に感心したように海人かいじんが言う。そして、話を締めるように再び俺と目を合わせた。


「あんたが本当に答えが欲しいって言うなら、まずは外を見てみるといいぜ。そうしてでっかくなった後に、また自分と向き合えばいい。そしたら答えが見つかるかもな。」


 何もかもお見通しですと言わんばかりの海人かいじんは、言いたいことは全て言えたと満足げだった。なんの根拠もないのに、こちらの核心をついてそうな理論をぶつけてくる海人かいじんに、醜い感情が湧いた。


「敵に対して、随分と塩を送るんだな。」


「お生憎様、海からは大量に塩が取れるんでね。この程度屁でもないのさ。」


 感謝の言葉すら言えず吐き出した偏屈な言葉も綺麗にあしらわれた。一体俺は何をしているんだ。自己嫌悪に苛まれながらチームのもとへ戻る。

 

 その最中、無意識に観客席へと目を向けてしまった。そこには、先日この試合に招待した人の姿があった。俺が傷つけた相手であり、そんな俺を許してくれた善人でもある阿狛あこまがそこにいた。招待券を渡した日、俺は阿狛あこまの善意に報いるために、全力を尽くすと約束した。けれど、そのとき想定していた阿狛あこまに見せる姿とは正反対の現在の自分の姿に反吐が出る。みっともなくて情けない。あの日から何も変わってない。


 俺は何もできない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る