09-03 惨めな生き物
「どうしてそんなふうに思うの?」
彼女はまだこちらをむこうとしない。声には笑みさえも含まれている。
「どうして……?」
「うん。すごく不思議。だってわたしは歩いているだけ、犬を探しているだけ。べつにおかしなところなんてないじゃない?」
軽やかな話し声、静かな歩きかた。
「わたしとあなたはついさっき会ったばかりなのに、どうしてそんなことを聞かれるんだろう? とっても不思議」
あなたはわたしのことを何も知らないのに。彼女はそう言ってくすくす笑う。真底おかしい、というみたいに。
俺は間違っているのだろうか。そうかもしれない。なにもかもが薄い皮膜越しに見るようにぼんやりしている。
いつからだ?
はじめからだ。
「あなたはそれをわたしに訊ねることで、あなた自身を思いがけずに晒し出してしまってはいない? そもそも、どうしてあなたはこんな森の中にいるの? あなたは、ほんとうに、猫を探すためにここにきたの?」
答えに窮する。猫は、もう見つかった。
「あなたは帰ったほうがいい。待っている人はいないの?」
ちせは、ましろ姉は、俺をまだ待っているだろうか。
俺が帰ったら、世界は消えてしまうかもしれない。だから帰れない。帰らない。
……本当に?
もしそうでなかったら、俺は帰っていただろうか?
フィガロの失踪に、ちどりの出現に、夜の声に、俺は飛びつきはしなかったか。あれは、ほんとうに冷静な、やむを得ない決断だっただろうか。
「あなたはほんとうは、帰れるんじゃない?」
俺は、
帰れないのではなく、帰らなかったのではないか。
「逃げてきたのね」
と彼女は言った。
「生きることから、逃げてきたのね。理由をつけて、迷い込んだふりをして……」
俺が、宮崎二見なのか、それとも三枝隼なのか。それはもう、どうでもいいことなのかもしれない。俺は、それを問題にするふりをして、ずっと自分自身から目をそらしてきた。
そもそもの問題は、俺が俺であるというその当の事実だったのではないか。
「まだ着いてくるつもり?」
足取りは変わらない。いつまでもいつまでも、彼女は歩き続けるだけだ。
「……きみは、もといた場所に帰らないといけない」
「だからね」
と彼女は言う。
「わたしは犬を探しているの」
「違う」
「なにが」
「きみも逃げていたんだな」
「わからない人」
「きみはさっき、俺が思いがけず自分を晒したと言った。俺もそう思った。でもその言葉によって、きみも思いがけずきみ自身を晒したんじゃないのか。きみは……」
俺は。
「俺と同じなんじゃないか」
そうだ。
ようやく、赤井吉野は立ち止まった。
俺は、彼女のことをなにも知らない。
けれど俺は、少なくとも俺は、
ちせが、ましろ姉が、父が、母が、フィガロがいようと。
三枝隼であろうと、なかろうと。
誰からも忘れ去られて消えてしまいたいと思っていた。
なぜ?
喜びを感じられないわけじゃない。
悲しみを感じられないわけじゃない。
なにかを楽しいと、思わないわけじゃない。
苦しいと、思わないわけじゃない。
どうしてだろう。
周りに恵まれている、と思う。
肉体にも、不調はないはずだ。
とりたてて不幸だとは思わない。
満たされていないとも、思わない。
何も欲しくない。
なにかをほしいと思う、その欲望が、皮膜のむこうがわにある。
喜びを喜べず、悲しみを悲しめず、怒りを怒れず、苦しみを苦しめず、全部が全部、皮膜いちまいのむこうがわにじっとりと淡くきざすだけだ。頭の芯が熱くなってのぼせるような感覚がないわけじゃない。目の前のすべてが生々しく感じられる瞬間がないわけじゃない。思考を忘れるような時間がないわけじゃない。それでも。
なにもかもが、皮膜いちまいのむこうがわに遠のいている。
生きていることが怖い。
怖くて怖くてたまらない。
猿真似で覚えた振る舞い、意図的に作り出した自分らしさ。
こういうときにこういうものを欲しがるものだという、学習の結果としての自分。
周囲と同じように振る舞えない。奇妙に褪せた視界のなかで、自分だけがどこにもいない。
誰かの望んだとおりに振る舞う。誰かの求めたとおりに振る舞う。ほかに、生き方を知らない。どこまでいっても、どれだけ親しくなっても、どれだけそれらしく振る舞っても、そのなかに自分がいない。語るほどの自分さえいない。聞かれたときに困らないように、質問の答えだけを用意して、それで不自然のないようにする。
誰かが憎いわけじゃない――そもそも憎むだけの自分がいない。
なにかに怒っているわけでもない――欲望の不達成は、欲望がなければ発生しない。
ただ一瞬だけ、誰かに必要とされたとき、誰かを安心させたとき、誰かを満足させたとき、その一瞬だけ自分を許せる、そういう種類の人間がいる。
けれど、誰かに必要とされるのは、誰かを安心させるのは、誰かを満足させるのは、俺じゃなくていい。それはいつだって交換可能だ。
だから俺は宮崎二見でもいいし、三枝隼でもいい。
そして、俺が宮崎二見じゃなくてもいいし、三枝隼でなくてもいい。
その空疎さから、俺は逃げ出したかった。
ちどりを手伝うふりをして、フィガロを探すふりをして、誰かの引き止める声も聞かずに、俺は逃げてきた。
誰かを好きになったとしても。
その誰かを、求めたとしても。
俺にできるのは、その相手が俺に求めていると思えるとおりに振る舞うことだけだ。相手が言われたいだろう言葉を選んで、相手がしてほしいだろうことをするだけだ。あるいは誰かを好きになることさえも。それが完璧に達成されなかったとしても、俺がとりうるコミュニケーションはいつだって、反応でしかない。反射でしかない。
そしていつか、それを達成できなくなった瞬間に、見捨てられることだろう。
だから、逃げてきた。
そんなふうに、赤井吉野も逃げてきたんじゃないのか。
誰がいようと、いまいと、なにがあろうと、なかろうと、眠れようと、眠れまいと、誰が死のうと、死ぬまいと、変わりようがない己のがらんどうから。
「きみも、自分自身が嫌で、逃げてきたんじゃないのか。理由をつけて、何かを探すふりをして」
彼女は、やっと振り返った。
仮面のような無表情が、気持ちひとつうつさない瞳が、俺を見た。
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