09-04 うたかたの日々



 どうして、なんだろう?



 森の木々に隠れた空のむこうで、鳥の羽音が静かに響いた。


「鳥はいいよね」


 彼女は言った。


「なにが」


「空を飛べて」


「……」


「わたしは、鳥じゃない。だから、空を飛べない」


「……飛べなきゃ、だめなのか?」


 彼女は、泣き笑いのような、頼りない顔で俺を見た。それが、俺が見た彼女の最初の表情だった。


「出口が、あればいいんだけど」


 彼女の口からようやくこぼれたのは、そんな抽象的な言葉だった。とっさに、俺は、


「ないよ、そんなの」


 と、言いかけて、どうしてか言えなかった。胸が詰まるような、苦しいような感覚。どうしてもそれが、喉元につっかえて出てこない。


 ほんとうに、出口があれば、どれだけよかったか。


「家族仲は、よくてね」


 赤井吉野は、そう言った。


「ともだちもみんな、いい子で、仲良くしてくれる男の子もいて、彼はわたしが好きだし、わたしも彼が好きなの。それはちゃんとわかってる」


「うん」


「わたしは、満たされた人間なの。恵まれた人間なの。だけど……こんな人間は生まれてくるべきではなかった」


 そうかな。

 どうかな。


「わからないの。ねえ、笑わないで聞いてほしいの」


 俺は、黙ったまま頷いた。


「自分が誰だか、わからないの。わたしは、赤井吉野という名前で生きて、赤井吉野という名前で人と関わって、赤井吉野として喜んで、赤井吉野として悲しむの。そこにはたしかにわたしがいるはずなの。でも、それが、いつもの。

 ほんとうじゃないの。ほんものじゃないの。嘘なの。ううん、嘘じゃない。……わたしは何を言ってるの? 何を言ってるの、じゃないよね、何を言ってるんだろう?

 人間のモノマネをしてるだけなの。マネキンみたいなものなの。……ううん、違うよね、だって、こうして何かを感じてるもの。でも……どうして? どうしたらいい? ねえ、どうしたらいいと思う? ……ちがう、自分で決めないと。どうするかくらい。……でも、どうして? どうしてなの?」


 彼女は俺を見ている。見ている……のだろうか?

 目は、合ったままだ。それでも、彼女が、どこを見ているのかわからない。

 俺も……俺が見ているのが、彼女なのか、自分自身なのか、わからない。


「楽しいよ、楽しいこともある。でも、どうしてからっぽなんだろう? 誰もわたしのことなんて好きじゃないんだと思う。……ちがう、そうじゃない。そうじゃないよね。わたしがまちがってるだけ。嫌われるのがこわいから、ただ、周囲に合わせる。適当にごまかす。可能な限り上手に。失敗しても、またごまかせばいい。そうしてるだけ。

 ……それでなにが悪いっていうの? わたしの返事が上辺だけだろうと本心だろうと、相手に都合のいい答えのほうが、相手は喜ぶの。だったら、そのほうがいい。相手が喜ぶ。相手を喜ばせたら、わたしも安心できる。自分には居場所があるんだと思える」


 彼女のからだから、力が抜けていく。瞳が色を失っていく。ため息みたいに、言葉は漏れ続ける。俺は黙ってその声を聞いている。


「でもどうして、そんなことをするたびに、自分の居場所が少しずつ削れていくような気がするんだろう。わたしのなかにいる赤ん坊の泣き声が、少しずつ小さくなっていく気がするんだろう……。でも、そうしないと、わたしの居場所なんてどこにもない。

 ……誰が知りたいっていうの。知って、誰が好きになるっていうの。こんな……子供みたいなこと。ありのままを受け入れてほしいなんて、そんなわがまま、誰が聞いてくれるの。そんなこと、いまさら期待してない。だから、相手に合わせて……それでいいじゃない。なにがだめなの。

 だって、みんなきっと嫌になるじゃないわたしがひとたびそんな姿を見せようものなら、すぐに面倒になっていなくなってしまう。 わたしの内面は、言い訳と、卑屈さと、憎しみと、それ以外のみすぼらしい何かでいつも溢れている。 それを誰かにさらすことなんてできない。だから、ずっと隠していたんじゃない……」


 どうして、鏡を見ているような気がするんだ?

 

「……だめなの? もう、無理なの? 結局、道化の真似事だったの……?

わたしはわたしなりに一生懸命やってきたつもり。わたしはできるかぎり完璧にやろうとした。転ばないように歩こうとしたし、ふらつかないように立っていようと思っていた。何かを言うならば大きな声で言おうと思ったし、しっかりと目を見開いて物事を見ようと心掛けていた。

 でも……でも、全部が全部、上手くいかなかった。わたしの手も足も、目も喉も、欠陥だらけのガラクタだった。 いつだって、いつだって自分のことしか考えられない……。自分なりにがんばった、なんて、そんな言葉、なんの意味もなかった。

 どうしたら……どうしたら、いいっていうの。顔色をうかがって、誰かのほしがる言葉を言って、誰かがしてほしそうなことをして……そんなことをしているうちに、。誰も、わたしのことなんて必要としてない。ほんとうのわたしになんて、誰も興味がない。だったら、わたしじゃなくてもいいはずじゃない。それは、取替可能なはずじゃない。」


 この扉は、押しても引いても開かない。

 ノックの音も、呼び声も聞こえない。


 どうすればいいの。

 助けてって、言えばいいの。

 でも、なにを助けてほしいのか、わからない。

 それに、どうせ、声なんてどこにも届かない。


 誰かに、そばにいてほしい。

 だいじょうぶだよって言ってほしい。

 心配ないよって言ってほしい。

 手を握ってほしい。ここに縛り付けていてほしい。

 そうしてもらわないと、どこかに弾き飛ばされてしまいそうな気がする。


 誰でもいいから。


 わたしがここにいるって、教えてほしい。


 でも、そんなことを考えて、そんなことを人に求めれば、いつか気付かれて軽蔑されるに決まっている。だから、誰ともどうにもなれない。こんなちっぽけなわたしは封印して、ちゃんとした自分だけを見せないといけない。……ちっぽけなわたしは、いらない。わたしは、求めすぎてしまうから。自分が相手に求めるほどのものを、同じように与えることができないから。


 とても渇いているから、相手を吸い込みすぎてしまう。肺がおかしくなって死んでしまうまで。そして自分が満たされることに必死すぎて、相手を満たすために力を割くことができない。

 誰かと一緒に生きるべきではない。誰かに心を開くべきではない。


 誰かに傍にいてほしい。

 

 でも、


 だから、だから……。



「だからわたしは、消えてしまおうと思うの」

 

 赤井吉野は、そう言った。


「散歩にいくみたいな気安さで、このまま、消えてしまおうと思うの」



 きっかけひとつ、あるかないかの問題なのだ。きっかけさえあれば、いつだっていい。世界を救うために誰かひとりの命が必要だったなら、喜び勇んで名乗り出るだろう。


 そんなふうに、俺は、彼女は、

 犬と猫とを言い訳に、生きることから逃げ出した。

 

 俺は、いま、世界を言い訳に、生きることから逃げ出そうとしている。

 

 もう、なんにもほしくないから。

 

 どうして?

 




 

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