09-02  鏡の前で立ち尽くす


 何かを言わなければなかった。それはたしかだ。俺はたぶん、既にその内容を知っている。それなのに口から出る言葉は周縁をさまよい続ける。触れなければならないところに決して触れようとしない。


 でも、はじめからそうだったようにも思う。


 どれくらい歩いた?

 眠りを忘れ、食べることを忘れ、何のためにここまで来た?


 その間、俺はいったい何をしていた?


「どこへ」


 と、俺は口を開く。


「向かってるんた?」


「さあ……」


 赤井吉野は振り返らずに笑った。


「どこに向かってるんだと思う? わたしは、犬を探してるの」


「そうだな」


 俺は頷いた。ほんとうに、そうなのだ。彼女は、犬を探している。それは嘘じゃない。


 心配、しているだろう。

 祈っているだろう。

 どうかみつかりますようにと。

 どこかに、痕跡だけでも見付かればと。

 きっと思っているのだろう。

 

 けれど……。


 それだけ、だろうか。

 

 俺は猫を……猫を探していた。


 猫、を……。



 理由も意味も目的もない夜の森。そのなかで、理由と意味と目的のない世界を守るために、それを存在の意味として生きること。


 夜と朝との領土の削り合い。


 その途方もない世界から離れて、今ここに、俺と彼女はいる。

 犬を探して……?

 

 ほんとうに……?


「ずいぶんと、疲れた顔をしているのね」

 

 前を歩く女が、さっきと同じような言葉を繰り返した。疲れている……疲れているのだろうか、俺は。


 女は振り返らない。ただ前へ前へと進んでいる。それでも、この暗い夜の森のなかで、進む先がはっきりとわかっているとは思えなかった。


 それなのに、彼女の足取りに迷いは感じられない。不可思議な自信さえ感じられる。自分の進む先が、自分ではわかっているのだ、というように。


「以前にも、この森に来たことがある?」 


 彼女は首を横に振った。


「あなたは?」


 どうだろう、と俺は考える。


「あるような気もするし、ないような気もする」


 そう、とそっけない返事。

 まただ。


 ずっとなにかがおかしい。俺は気付いている。気付かないふりをしている。


 どうして彼女の背中はこんなに頼りないんだろう。それなのに、どうして分厚い壁のようになにひとつ寄せ付けない感じがするのだろう。


 声音は柔らかなのに、どうしてその言葉は空疎に響くのだろう。


 俺はそれを知っていて、たぶん、いま、口にしなければならない。


 けれど、それを口にして、どうなる?


 なにが変わる?

 ……なにも、変わらない。


 ずっと不思議だった。

 赤井吉野は、どうして失踪するのか。

 どうして、いなくなってしまうのか。


 犬を探して、森に迷い込んだから。

 それが完璧な答えだ。


 でも違う。


 佐久間茂がいようと、いまいと。

『薄明』がどうであろうと。


 彼女は消える。


 彼女は、犬を探して森に迷ったのではない。そのことが、今の俺にはもうわかっていた。


「きみは」


 声をかけても、彼女の足取りは変わらない。さまよい歩き、犬の姿を求め、敬虔な巡礼者のように、ほんとうに、ほんとうにそうなら、どれほどよかったか。


「消えたいんじゃないのか」


 返事はない。

 彼女は歩くのをやめない。


 だから、も、それでも、もない。

 全部後付けだ。


 赤井吉野は姿を消す。

 彼女がそう望んだから。

 







 

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