犬のための道すがら
09-01 トンネルの先のトンネル
一瞬だけ、なにかの予感のようなものがあったけれど、それは雲に隠れた月のようにすぐに見えなくなった。
赤井吉野は俺を見ていた。その瞳は、もう濡れてはいない。彼女は静かに声をあげた。
「あなたは、誰?」
その当然の質問に、どうしてか落ち着かなくなる。彼女はもう泣いてはいなかった。……はじめから、泣いていなかったのかもしれない。
質問の意味は、わかる。でも、俺は今、自分がなんと答えるべきなのか、わからない。俺は誰なんだ?
「どうして、わたしの名前を知っているの?」
その質問には答えられる、と思った。でも、よく考えると、どうしてなんだろう。どうして俺は、彼女の名前を知っているんだろう?
なにもかもが、よくわからない。
「なにをしに、ここに来たの?」
彼女の表情は、ごく自然な……夜の森で、見ず知らずの男に名前を呼ばれたときには自然な、という意味だが……ものに見えた。だから、彼女がさっきまで泣いていたのは、やはり気のせいだったのかもしれない。
それでも、その瞳には、なにか別種のものが隠れているような気がする。
「気にしないでほしい」
と俺は言った。
「いろんなことが起きたんだ」
と、そのまま続ける。
「ほんとうにいろんなことが……」
けれど、ほんとうに起きたんだろうか?
「……そう」
彼女は、納得した様子ではなかったものの、俺のほうを見て静かに頷いた。
◇
夜とちどりが何をしようとしているのか、
それを知っているつもりでいる暁が、何をしようとしているのか。
それはもう、どうでもいいことに思えた。
どちらにしても話はシンプルだ。
夜は世界束を抜け出そうと目論見、ちどりは俺を死なせずに世界の崩壊を止める方法を考える。暁はそれを阻止しようと目論見、スミカはそれに協力するかわりに兄を取り戻そうとしている。
でも、どうでもいいことだ。
俺が今ここにいるのは、暁からすれば意味あることなのだろう。……ひとまずは。
俺がここにいるのは意味あることではない。
俺がここにいるのは決まっていたことだ。
俺がここに来て、赤井吉野を森から連れ出す。そうすることで、さくらのいる世界が生まれる。俺はその世界を通ってきたのだから……だから、ここで起きることは、既に起きている。決まっている。俺がここにいることで変わることは、なにひとつない。
全部が、まだ回収されている。
どこまでも、どこまでも。
◇
「ずいぶん疲れてるみたい」
赤井吉野は俺を見て笑った。俺は返事をしなかった。
「きみはここでなにをしているんだ?」
尋ねると、彼女は立ち上がって苦笑した。
「犬を探してるの」
「犬?」
「飼い犬が……迷子になってしまったから」
「……そう」
「あなたは、どうしてここにいるの?」
「どうして……」
どうして?
「……俺も同じようなものだよ」
「……そう?」
「猫が迷子になったんだ」
嘘じゃない。
猫が迷子になったから、俺はここにいるのだ。
「そうなんだ」
彼女はちょっと笑って、それからいたずらっぽく俺を見上げた。
「あなたが迷子になったわけじゃないのね?」
「うん」
「それなら、まだよかった」
「そう、だな」
この子が、ほんとうに赤井吉野なのか?
平成四年の部誌『薄明』を作り上げた女。
時を越えて森を抜け、佐久間茂と結ばれ、子をなした女。
さくらの母親。存在したり、しなかったりする女。
この……俺よりも少し小さな、高校生くらいの女の子が。
当たり前のような顔で、彼女はここにいる。けれど。
「……きみは、ここがどこだか知ってるのか?」
「変な質問」と彼女は笑った。
「あなたこそ、ここがどこだかわかっているの?」
俺は答えない。
「少し歩こうと思うけど、あなたはどうする?」
「……一緒にいってもいいのか?」
「うん」
彼女は困り顔で頷いた。
「ほかにどうしようもないでしょう?」
それに、と言葉は続けられた。
「ずっとここにいるわけにもいかないもの」
そうかもしれない。……そうなのだろうか?
◇
なんにせよ、奇妙な状況であることはたしかだった。
夜の森のなかを、俺と彼女は並んで歩く。月の光はやけに冴え冴えと周囲を照らしていて、空気は変に穏やかで、肌を撫でる風はほのかにあたたかかった。
「あなたはどんなふうにここに来たの?」
「……さあ」
「覚えてないの?」
「そうかもしれない。……きみは?」
「わたしも、あんまり覚えてない」
「犬を、探していたんだろ」
「ええ。でも……」
彼女は一度言葉をくぎり、
「なんでもない。……変な話」
「佐久間は……」
「佐久間?」
「……なんだ?」
「茂くんのこと、知ってるの?」
「……知っていると言えば」
知らないと言えば、知らない。
「どうして、茂くんの名前を、今、出したの?」
「……」
どうして、だったろう。
なにもかも、よくわからない。わからないことだらけだ。
「赤井、吉野」
「……どうしてわたしの名前を知ってるの?」
おかしいな。
さっきからずっと、同じような質問ばかりだ。
「きみは……帰らなくていいのか?」
彼女の表情はやわらかく緩んだ。
「わたし、犬をさがさないといけないの」
俺は、その表情を見たとき、何かを思い出しそうになった。
フィガロ。
フィガロを、探しに、森に来た。
俺は。
フィガロを連れ戻したとき、俺はどうして帰らなかった?
ちどりがいたからだ。
でも……。
ちどりがいなかったとして、あのとき、俺は、家に帰っただろうか。
俺は……。
あのとき、どんな顔をしていたんだろう?
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