犬のための道すがら

09-01 トンネルの先のトンネル


 

 一瞬だけ、なにかの予感のようなものがあったけれど、それは雲に隠れた月のようにすぐに見えなくなった。

 赤井吉野は俺を見ていた。その瞳は、もう濡れてはいない。彼女は静かに声をあげた。


「あなたは、誰?」


 その当然の質問に、どうしてか落ち着かなくなる。彼女はもう泣いてはいなかった。……はじめから、泣いていなかったのかもしれない。


 質問の意味は、わかる。でも、俺は今、自分がなんと答えるべきなのか、わからない。俺は誰なんだ?


「どうして、わたしの名前を知っているの?」


 その質問には答えられる、と思った。でも、よく考えると、どうしてなんだろう。どうして俺は、彼女の名前を知っているんだろう?


 なにもかもが、よくわからない。


「なにをしに、ここに来たの?」


 彼女の表情は、ごく自然な……夜の森で、見ず知らずの男に名前を呼ばれたときには自然な、という意味だが……ものに見えた。だから、彼女がさっきまで泣いていたのは、やはり気のせいだったのかもしれない。

 

 それでも、その瞳には、なにか別種のものが隠れているような気がする。


「気にしないでほしい」


 と俺は言った。


「いろんなことが起きたんだ」


 と、そのまま続ける。


「ほんとうにいろんなことが……」


 けれど、ほんとうに起きたんだろうか?


「……そう」


 彼女は、納得した様子ではなかったものの、俺のほうを見て静かに頷いた。




 夜とちどりが何をしようとしているのか、

 それを知っているつもりでいる暁が、何をしようとしているのか。

 

 それはもう、どうでもいいことに思えた。

 

 どちらにしても話はシンプルだ。

 夜は世界束を抜け出そうと目論見、ちどりは俺を死なせずに世界の崩壊を止める方法を考える。暁はそれを阻止しようと目論見、スミカはそれに協力するかわりに兄を取り戻そうとしている。


 でも、どうでもいいことだ。


 俺が今ここにいるのは、暁からすれば意味あることなのだろう。……ひとまずは。

 

 俺がここにいるのは意味あることではない。


 俺がここにいるのは決まっていたことだ。

 俺がここに来て、赤井吉野を森から連れ出す。そうすることで、さくらのいる世界が生まれる。俺はその世界を通ってきたのだから……だから、ここで起きることは、既に起きている。決まっている。俺がここにいることで変わることは、なにひとつない。


 全部が、まだ回収されている。

 どこまでも、どこまでも。



「ずいぶん疲れてるみたい」


 赤井吉野は俺を見て笑った。俺は返事をしなかった。


「きみはここでなにをしているんだ?」


 尋ねると、彼女は立ち上がって苦笑した。


「犬を探してるの」


「犬?」


「飼い犬が……迷子になってしまったから」


「……そう」


「あなたは、どうしてここにいるの?」


……」


 どうして?


「……俺も同じようなものだよ」


「……そう?」


「猫が迷子になったんだ」


 嘘じゃない。

 猫が迷子になったから、俺はここにいるのだ。


「そうなんだ」


 彼女はちょっと笑って、それからいたずらっぽく俺を見上げた。


「あなたが迷子になったわけじゃないのね?」


「うん」


「それなら、まだよかった」


「そう、だな」


 この子が、ほんとうに赤井吉野なのか?


 平成四年の部誌『薄明』を作り上げた女。

 時を越えて森を抜け、佐久間茂と結ばれ、子をなした女。

 さくらの母親。存在したり、しなかったりする女。

 

 この……俺よりも少し小さな、高校生くらいの女の子が。


 当たり前のような顔で、彼女はここにいる。けれど。


「……きみは、ここがどこだか知ってるのか?」


「変な質問」と彼女は笑った。


「あなたこそ、ここがどこだかわかっているの?」


 俺は答えない。


「少し歩こうと思うけど、あなたはどうする?」


「……一緒にいってもいいのか?」


「うん」


 彼女は困り顔で頷いた。


「ほかにどうしようもないでしょう?」


 それに、と言葉は続けられた。


「ずっとここにいるわけにもいかないもの」


 そうかもしれない。……そうなのだろうか?



 なんにせよ、奇妙な状況であることはたしかだった。

 夜の森のなかを、俺と彼女は並んで歩く。月の光はやけに冴え冴えと周囲を照らしていて、空気は変に穏やかで、肌を撫でる風はほのかにあたたかかった。


「あなたはどんなふうにここに来たの?」


「……さあ」


「覚えてないの?」


「そうかもしれない。……きみは?」


「わたしも、あんまり覚えてない」


「犬を、探していたんだろ」


「ええ。でも……」


 彼女は一度言葉をくぎり、


「なんでもない。……変な話」


「佐久間は……」


「佐久間?」


「……なんだ?」


「茂くんのこと、知ってるの?」


「……知っていると言えば」


 知らないと言えば、知らない。


「どうして、茂くんの名前を、今、出したの?」


「……」


 どうして、だったろう。

 なにもかも、よくわからない。わからないことだらけだ。


「赤井、吉野」


「……どうしてわたしの名前を知ってるの?」


 おかしいな。

 さっきからずっと、同じような質問ばかりだ。


「きみは……帰らなくていいのか?」


 彼女の表情はやわらかく緩んだ。


「わたし、犬をさがさないといけないの」


 俺は、その表情を見たとき、何かを思い出しそうになった。

 フィガロ。


 フィガロを、探しに、森に来た。

 俺は。


 フィガロを連れ戻したとき、俺はどうして帰らなかった?

 ちどりがいたからだ。

 

 でも……。

 ちどりがいなかったとして、あのとき、俺は、家に帰っただろうか。


 俺は……。

 あのとき、どんな顔をしていたんだろう?


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