08-08 イアーゴー/迷い蛾の灼けた羽



 見えない。

 誰にも見えない。



 その頼りないさまよいのはてに、黒い森の枝々はふと途切れ、からだは開けた場所に踊り出る。俺は静かに言葉を探した。何かを言うべきだという気がしたのだ。けれどここにはなにもない。スミカが、「どうしてなんだろう」と小さく呟いた。


 なにもかもが頼りなく、おぼろげで、不確かだった。皮膜越しに見るように現実感がなかった。それなのにどうしてか、からだの内側から針で刺されているかのように落ち着かない痛みだけが続いている。どうしてだろう。どうしてなんだ?


 暁はいない。彼女は結局、眺めているだけなのだ。このさまよい、この宛てのない踊りを、ただ観劇しているだけだ。そうするだけの資格が、彼女にはある。


 夜とちどりはいってしまって、そしていま、暁は俺とスミカを置き去りにした。やるべきことだけを、端的に伝えた上で。

 

 だから俺たちは、また森にやってきた。夜とちどりが立ち去ったあの森に。もうすぐだ。藤のトンネルは、その口をぽっかりと開いて俺たちを手招きしている。


 ほんとうにからだがからっぽになってしまった気がした。

 いや、はじめからからっぽだった。


 よくも今まで歩いてこられたものだ。

 どうして歩いてこられたんだ?


 簡単な話だ。わかりきった話だ。誰だってすぐに、見当がつくようなことだ。


 俺がここまで来られたのは、ちどりがいたからだ。ちどりが必要だった。だから、ちどりに置いていかれた途端、歩けなくなった。そして今、踊らされている。どうにかして、次善の策を講じている。何のために。消えるために。


 簡単な話だ、どこまでも。


 俺ははじめから、何かのために消えてしまいたかったんだから。


「いきましょう」とスミカが言った。

 

 でも、どこに?


 彼女は藤のトンネルへとむかう。

 俺はその背を追いかける。

 ほかにどうすることもできない。


 はじめから……。



 月は夜の雲に隠れた。森はどこまでも夜だった。どうして夜なんだ?

 わからない。猫のさまよい、人の行方、世界の存亡。なにもかもが映画かゲームのなかみたいだった。これをこうすればこうなります。これをこうすればこれが回避できます。けれどこれがこうなるとこうなってしまいます。因果だ。全部が全部説明されている。なんでもいい、どうでもいい、どうにでもなる。解決し、解体される。なにもかも。でも、今はどうだっていい。


 どうして。

 どうしてなんだ、と問うことさえ、もう既に終わってしまった。

 

 だから残されているのは、おつかいだけだ。


 これをやりなさい。これをこうしなさい。これをしてはいけません。


 どうして、がない。

 なぜ、がない。


 それだけでいい。

 粛々とそれさえこなせたらいい。

 

 やるべきことをやる。

 そのために消える。

 だけでいい。


 だけでよかった。


 だけでよかった、はずなのに。



 藤の花びらが舞い落ちるなかを、俺とスミカはふたりで歩いている。こんなに不似合いなこともない。

 月の灯に照らされて、森はかすかにざわめいた。

 紫いろの光のなかで、自分だけがどこまでも余計者に思える。


 なにもかも、勝手にはじまって、勝手に終わるだけだ。


 はじまった途端置いていかれる。

 誰もふりかえらない。


 スミカは前を歩いていく。

 俺はゆっくりと後を追う。

 

 いたちごっこ。

 

 どうして歩いているのか、自分ではもうわからない。

 たぶん……でも、"どうして"はどうでもいいことなのだ。

 俺がほしかったのは、理由じゃなくて、目的だった。


 藤の花のトンネルを抜けたとき、俺の前にスミカの姿はなかった。

 

 俺はひとり、舞い落ちる花びらの下に立っていた。

 森のなかの開けた場所。でも、景色はさして変わっていない。

 ただ藤の花が落ちているだけだ。


 音もなく、しんしんと、静寂を埋め合わせるみたいに。


 どうしてなんだ。

 どうしてなんだ?


 そこに、

 彼女がいた。


 月夜に映える藤花のアーチの下、彼女が泣き腫らした目で俺を見た。

 はじめまして、だ。


 こんな夜に彼女に会うのが、どうして俺でなければならなかったんだろう。

 夜は、暁は、どうして俺をここに導いたんだろう。


 あるいは……。


 いや……。


「こんばんは」


 と、俺は声をかける。


 どうして俺でなければならなかったのか。

 どうして俺はここにこなければならなかったのか。

 まだ尽きない「どうして」が、ぼんやりと浮かぶ。

 それもやがて潰えていくだろう。消えていくだろう。

 意味はない。理由はない。

 ここには目的しかない。


 俺は、彼女の名前を呼ぶ。


「こんばんは、赤井吉野さん」


 彼女の丸い瞳が、揺れながら俺をとらえた。





 

  

  

 

 

 

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