08-07 イアーゴー/まどろみみるゆめ



 朦朧とした意識のまま、どこかから遠く長く歩いた感覚だけが鈍くからだに残っている。自分が自分だとわかるより先に、水滴が落ちる音がずっと聞こえていたことに気づいた。ほかのことは、全部あとでわかったことだ。


 暗闇のなか。鬱陶しい湿気の気配とカビの匂い。鉄の錆びたような匂い。不意に斜めに差した細長い光が、俺が瞼を開けていることを教えてくれた。冷えた、硬い、石の感触と、視界のむこうに鉄格子の並び。


「気が付きましたか」


 光を追って、声が鳴り、そのなかに影がくっきりと浮かんだ。背の低い女の影だった。立っていたのは、三枝スミカだった。


 声はまだ出ない。


 俺は、俺のことばかりを考えている。


「気分はどうですか」


「……」


 最悪だ、とは、言わなかった。


 でも、どうしてここで会うのが彼女だったんだろう。

 おかげで余計なことを考えるはめになる。


 どうして、俺だったんだ?

 どうして、森から出たのは三枝隼ではなく、宮崎二見だったんだ?

 俺が、宮崎二見ではなく、三枝隼で、宮崎ましろに見つからずに、三枝隼として、三枝スミカのもとに帰っていれば。


 ましろ姉とも、ちせとも、フィガロとも、両親とも、過ごすことがなく、三枝スミカのもとに、兄は帰ってきていたのに。


 俺は必要のない余計ものだった。

 いなくてもいい人間だった。

 いないほうが誰もが喜んでいた。


 俺じゃなくて、三枝隼のほうが、誰にとってもよかった。俺は、三枝隼の代わりに死んでいるべきだった。

 そう思わせるその顔が、いま、俺の目の前で、逆光でよく見えないまま、そこにある。


「折れましたか」


 彼女は表情のない声で言った。


「それとも、まだ歩けますか?」


「……」


 どこへ、歩けというんだろう。

 わからない。


「兄のからだを、どこに持っていったんですか」


 意識が撹拌されている。頭のなかがずっとぐるぐると揺れ続けている。


「返してください」


 水の中で響くように、声が揺れて、くぐもって聞こえる。俺はそれを今聞いているのに、ちゃんととらえることができない。


「返してください。……お願いします」


 俺は、やっとの思いで意識をつなぎ合わせて、体の感覚を取り戻そうとした。こういうときには、呼吸を整えること、まばたきを多くすること、そして、自分を憐れまないこと。

 

 そうすることにも、意味はないんだろうか。


「……どうして、俺はここにいる?」


「暁が呼んだからです。あなたを」


「……きみは、暁と一緒にいたのか」


「他にどうすればいいのかわかりません」


 彼女は言った。


「他にどうできるというんです? わたしには他にどうすることもできない。彼女は、兄を連れ帰る方法をわたしに示してくれるはずです」


「それは、嘘だ」


「他にどうすることもできません」


 彼女の声は呼吸のかすれのように静かだった。


「……暁が呼んでいます。立てますね」


「……ああ」


 俺は頷いた。

 頭を働かせろ。自分のなかに逃げ込むな。何ができる、何をすればいい、何を。

 

 俺の目的がどうであれ、俺の心がどうであれ、世界は守られなくてはならない。

 それだけは守られなくてはならない。


 ちどりと夜がどこにいって、何をするつもりなのか、そんなことは、今考えても仕方のないことだ。


 暁が俺を呼んでいる。彼女から、俺に何か話があるのだろう。


 だったら今は、それを聞くしかない。


「立てる。立てるよ」


 ずぶ濡れの服を着ているみたいに手足は重たかった。頭がくらくらと揺れ、その奥は鈍く痛む。耳鳴りのような音がずっと耳の中で響いている。

 

 その重さにも、痛みにも、耳鳴りにも、意味はない。目的はない。理由はない。

 それでも、とりあえず、俺は立ち上がった。


 三枝スミカが、牢の戸を開けた。


 彼女の姿が、どうしてだろう。俺の体よりも、大きく感じる。ときどき、こういうことがある。何かが、なんとなく、いつもより大きく見えたり、いつもより小さく見えたり、自分のからだが、小さく、短く見えたり。この一瞬も。


 彼女は俺に背を向けて歩き始めた。俺はおぼつかない足取りで彼女の後ろを追いかけていく。


 石段を登った先は見覚えのある屋敷のようだった。暁の……あの屋敷だ。あのときは、ちどりが傍にいた。


 今は、誰もいない。


 灯りのともされた廊下を歩く。窓の外の景色は夜だ。何も見えない、何も聞こえない。やがて俺は、以前と同じ部屋にたどり着く。


 そこで、暁は俺を待っていた。

 以前と同じ様子で、見透かしたような笑みさえ浮かべて。


「哀れな子。おかえりなさい。結局あなたはここに戻ってきてしまった。なにひとつ変えられず、なにひとつ見つけられないままに。なにもかもに見放されて、さまよう異邦人のように、迎えのこない迷子のように」


 詩の朗唱のような響きのあと、彼女は俺に視線だけで椅子に腰掛けるように促した。俺は彼女に従って腰を下ろす。そしてまっすぐに彼女を見た。


「……どうして」


 と、俺は問うた。


「どうして、俺はここにいるんだ?」


「あなたにはしなければならないことがあるの」


 彼女はそう言った。


 しなければ、ならないこと。


「結局、夜はあなたをここに連れてきてしまった。残念なことね」


「どうしてなんだ」


 わからない。

 どうしてなんだ。


「夜とちどりは、どうするつもりなんだ? おまえには、それがわかるのか?」


「さあ」


 と彼女はゆるく首をかしげ、


「あの子たちにできそうなことは思いつくわ。それはそれとして、それよりも先に、考えるべきことがある。これはあなたが招いた事態なのだから」


「俺が……」


「あなたがやったのよ」


 と暁は言った。


「三枝隼の死体を盗み出し、この子に三枝隼の存在しない世界を作らせて」


 彼女はちらりと三枝スミカを見やったあと、また視線を戻し、


「そして渡り歩いた世界の先で、あの奇妙なテクストを編み上げさせ、過去へと繋がるトンネルを作った。これは全部あなたが招いた事態」


「おまえは、そんなこと、織り込み済みだったんだろう」


「そうね。でも、こうならないことを祈っていたわ」


「……どうしてだ?」


「いい? わたしは夜をこの世界束の春から秋までの間に閉じ込めていたのよ。彼は本来そこから出られなくなっていた。この三枝隼の時空のなかにしかね。そのなかでさまざまなことがどれだけ起きようと、彼は外には出られなかった。でも、トンネルは出来てしまった。わたしや夜の力なんて関係なく、誰もが過去へと抜け出せるトンネルができてしまった。この先なにが起きるかはわたしには制御しきれない。もしも夜が過去に遡ってしまえば、彼は今のようにおとなしいままではいないでしょうね」


「話はわかったよ」


「……」


「それで俺はどうしたらいいんだ?」


「取引を、もう一度提案するわ。今度は乗ってくれるわよね?」


「……内容次第だな」


「あなたとわたしの目的を達成することができれば、わたしはあなたの思い描いている通りの結末をあげる。簡単なことよ。あなたはこれから世界を守るために夜と戦わなくてはいけない。影法師のような彼にできることは、言ってしまえばたかがしれている。あれは人の感情を不穏に揺り動かすことでしか力を働かせることができないんだから」


 簡単な話よ、と暁は言った。


「夜はおそらく過去に遡り、そこでを編み上げようとするはず。あなたがしなければならないのは、そのテクストの成立をなんとしても食い止めること。言い換えれば、書物の内容なんて関係がない。それを読む必要はないし、小難しいことを考える必要はないわ。簡単なことでしょう? いつだってそうなのよ。本を焼くことは、裁断し切り刻むことは、いつだって読むことよりも簡単なの。だから本を焼きましょう、これ以上誰も迷わないように」


 不意の耳鳴り。それを覆うように柔らかな微小を含んだ声が続いた。


「わたしが全部決めてあげる。あなたがどのように生き、どのように死ぬべきなのかを。これから何をして、どう過ごすべきなのかを。あなたはこれから世界を救うのですものね。そう、世界を救うのだから……目的があるのだから。だから、こう考えなくては。そのために戦わなくてはならない、と。他のことをしている場合ではないし、他のことにかかずらっている場合じゃないわ。実際、順番や方法の多少の混乱なんて問題にもならない。言うなればこれは緊急避難、非常事態なのだから。すべては結果的に肯定されるわ。これからあなたの迷いは溶けてなくなる。すべての戸惑いと混乱から解放される。もうさまようことはない。行先を照らす光がある。それがあなたの理由になる。決然と、世界を眺めることができる。簡単なことよ。あなたはのだから。偽りの書物を焼き、人を惑わす詩人の舌を鋏で切り、その喉を硝子で裂くの。彼らは嘘つきなんだから。これは嘘つきとの戦いなんだから。そして、誰もステップを間違えないように、わたしたちがみんなに踊りを教えましょう。誰も間違えないように、世界を守るために。そう、わたしたちはこれから世界を守る。そのために、あらゆることはあらかじめ赦されている。それがみんなのためですものね」


 さあ、と暁は言った。


「あなたはこれから、

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